丸谷才一 2010年 文春文庫版
丸谷さんの随筆集、古本を買ったのはもう2年以上前になる、なんかヘンな言い草になるが、もったいないような気持ちになってしまい、読まずにとっておいたような状態が続いてた。
単行本は2006年、初出は「オール讀物」の2005年から2006年にかけての連載だそうだけど、一遍あたりがけっこう長めの分量に思える。
そのせいか話題がいろいろと横道にそれる余裕がある、なので、しょっちゅう、「本筋に戻します」とか「余談終り」とかって言い方が出てきたりする。
それどころか、
>そんなのは厭だ、筋違ひであるとおつしゃるかもしれないが、まあ、いいぢやないですか。わたしの文章なんか読んでる所を見るとお暇でせう。つきあつてよ。(p.122-123)
とか、
>これも学問のうちと、我慢してつきあつて下さい。もちろん、おいやでしたら、ほかの読物にお移りあれ。わたしは平気ですよ。ちつとも気にしない。(p.252)
とかって調子で語りかけられちゃうと、なんだか談志家元がときどき噺をはなれて違うこと話題にしはじめるときのような芸を感じちゃう。
もっとも、『桜もさよならも日本語』の文庫巻末解説で、百目鬼恭三郎さんが、
>概して丸谷氏の文章には座談風の趣きがあるため、思い浮かぶにまかせて奔放に書きなぐったように想像されがちだが、その実は驚くほど綿密な下調べと精緻な計算によって成り立っている文章なのである。
と評してますが、まさにそのとおり。
本書でもいろんな文献で調べたことをさらっと披露したうえで、御自分の意見を述べてくれますが、それやられると読んでみたくなる本がまた増えてしまうのは困ったもんだ。
その名も「必読の書」と銘打った一遍であげられているのは、生方敏郎『明治大正見分史』(中公文庫)なんだが、若手の日本近代史研究者は必読だという。
新聞記者として働いていた著者が、明治天皇大喪の日に乃木将軍が殉死したって情報が入ると、新聞社内では、乃木さんはバカだとか、忙しい日に余計なとか、みんなブツブツ文句言ってたのに、翌日の朝刊を読むと軍神乃木将軍に尊敬をこめた美辞麗句の記事がいっぱいだった。
だから、自分でその時代を体験してないのに新聞報道の史料だけで研究をするのはあやうい、言論の自由なんか無かった時代のことはなおさらだというわけだ。
「一冊もののエンサイクロペディアとしては最高ぢやないでせうか」とすばらしい出来をたたえてる『コロンビア百科事典』にも興味もたされるんだが、これはバクスターの家では本をドア・ストッパー代わりに使ってたという話からの余談。
>本のかういふ使ひ方はわたしもしてゐます。
>『コロンビア百科事典』の第四版を、ベッドのマットレスの下に置いて、頭部を持ち上げてゐる。胃液の逆流を防ぐにはこれがいいと主治医の先生に教へられて実行してゐるのです。もちろん先生は、辞書を使へとはおつしやらなかつた。(p.123)
という具合なんだが、さらにバクスターがグレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』を愛読してたことの余談として、
>『ブライトン・ロック』はわたしがはじめて訳した本です。(略)
>わたしは読み出した途端、第一章のすごさに興奮した。それで会ふ人ごとに「すごいぞ」としやべつてゐるうちに、何しろ当時はみんなが新文学に飢ゑてゐたから、筑摩書房の石井立さんが出してくれることになつたのです。(p.125)
なんて紹介してくれちゃうんで、余談とはいえまったく油断がならない。
あと、本題としてとりあげてるなかで、読んでみたくなるのは、
>森さんは日本の代表的な考古学者ですね。文章がいいのでわたしは敬愛してゐます。それに食べ物に対する関心が強いこともわたしの趣味に合ふ。
>数多い著書のなかで、とりわけわたしのお気に入りは『食の体験文化史』123(中央公論社)。食物を入口にして考古学と歴史を語る。(p.227-228)
とか、書評にとりあげる適当な本が見つからないときに、
>(略)名前の知らない著者の、(略)装釘もあまり冴えない本を読み出すと、意外や意外、これがじつにおもしろい、第一、文章が生きがよくて、景気がいい。わたしは立つたまま十ページ以上も読み、それから仕事部屋に戻つてベッドに寝ころび、息もつがずに最初の章を読み終へ、念のためもう一章読み、この本に決めた、と思つた。
>これが高島俊男著『水滸伝の世界』。
>絶讃の書評を書いたが、ちつとも評判にならない。
>これほどの本を書く人物が世に知られてゐないのは残念だと思ひ、ジャーナリストに会ふたびにこの本とこの著者を褒め、彼に何か書いてもらへとすすめた。(p.287)
といったところ、たぶん探してみることになるだろう。
コンテンツは以下のとおり。
遅刻論
必読の書
ほら、ほら、あの……
宴会の研究
たまにはお金の話
桜餅屋の十五の娘
ワイン・グラスの話から本の話になつて
周恩来も金日成も田中角栄も
ハンモックの研究
春嶽と小楠
男女の仲
森浩一さんの研究を推薦する
読初め
蝶が夢みる
孔子とコノワタと大根おろし
ヤガーばあさんの研究
「おしまいのページで」の創案者