吉田健一 昭和50年 中公文庫版
この昭和56年13版の文庫、地元の古本屋で定価より高いのを買ったんだが。
そのちょっと後で、べつの古本屋で単行本が三冊いくらで売ってんのを見つけて、やっちまったと思わされた。
欲しかったけど買わなかった、単行本、うちが狭くて本が仕舞いきれないんで、これ以上単行本増やす気にならない、いまは。
吉田健一の書くものはちょっとしか読んでないんだけど、食べもののこと書いたのはおもしろいに違いないと思って、これ読んでみた。
なんてったって潔いのは、知識ひけらかしたりしないとこで、知らないってことを淡々というのがいい。
本書のなかにも、「製法に就ての詳しいことは知らないが」とか「それが何という魚をどうしたものかもいつも聞いて忘れて」とか「これは今でもまだあるかどうか解らない」とか、そういう調子が多い。
書くときもそうだけど、もともと食べるときにも、わざわざ調べたり、記録したりしないようにみえる。余裕ある態度で、いいなあと思う。
そもそも取材にいって食べたりしてるわけぢゃなくて、なんか知んないけど、全国各地から土地のうまいものがうまい季節に家に送られてきているようで、名士というのはうらやましい。
いろんな食べ物採りあげてるけど、
>(略)ここで次々に取り上げている食べものの季節の順序が滅茶苦茶であることに気が付いた。併しこれは食べものの歳時記ではなくて思い出すままに旨い食べもののことを書いているので(略)
と言うように、適当に並べてるだけという雰囲気で、まあそのほうが読んでて疲れないからいい。
ただ、もとの出版がいつか知らないけど、昭和の時代にあって、すでに商品化なんかに関する危機感は、あちこちに見られる。
>大体旨いものだから皆で食べなければならないという法はないのである。それと栄養の問題は別でその上に各自の好みがあり、旨いからと言って早速それを全国の名店街で売り出す必要は少しもないということがこの頃は忘れられ掛けている。(p.13「飛島の貝」)
とか、
>ここにも食べものに就ての今日の妙な錯覚があって何か旨いものがあればそれをなるべく沢山作る方がそれを食べるものも作るものも得をするということらしいが、別に贅沢な話ではなくて或る種のものの味はそれが又どうということはないものであればある程出鱈目に沢山作るということを許さなくて、もしそれでもそうして作れば味がなくなり、これは大量生産ではなくてその食べものを消滅させるという無駄をすることなのである。(p.71「東京の佃煮」)
とか、
>それに付けても思うのはなるべく金も手間も掛らない方法で本ものでないとは必ずしも断定出来ない食べものその他を無暗に沢山作って売りに出すこの頃のやり方が結局は誰にも得をさせていないことで(略)(p.84「北海道のじゃが芋」)
とか、
>併しこれが壜詰めになって売り出されたりしていないのはいいことである。この蛸の格好から言ってどこにでもそう沢山いるものではなさそうで壜詰めが店に並べられるようになれば直ぐに絶滅するに決っているからで、それでも構わないという心理や論法が次々に旨いものをなくして行っている。(p.93「大阪のいいだこの煮物」)
とか、
>(略)それが食べものというものであって誰かに作って貰う程度にその人間と親しくなるとか、或る所にしかないのでそこまで行くとか、或は自分で作るとかいう手間を掛けて始めて食べものはその味がするのに破こうとしても破けない紙に似たもので包んで店で売っているのを買って来て温めたりするのは飢え死にしない範囲での栄養はあるかも知れなくても食べものではない。(p.97「新潟の身欠き鯡の昆布巻き」)
とか、
>(略)いいものも昔通りに作って売るのに任せて置けば無難なのに、そこをもう一工夫してと思うのが合成に冷凍に詐欺にと発展して他のものと同じ半透明のものに包んだべったら漬けだか何だか解らないものがいつでもどこでも店の棚にさらされることになる。(p.157「東京のべったら漬け」)
とかって具合に、いつでもだれでも食えるように商品をつくることへの攻撃は厳しい。
ところで、現代の食べものを扱った読み物の多くと違って、食べたものの味とかを書くのにも、それほど執念をみせてくれないので、そこんとこで読み手をあおってくるようなとこはない。
それでも気に入った箇所をいくつか抜いてみたい、なんかハッとさせられるものあるから。
>ただめばるという魚は旨いものだということが記憶にあるだけで他には生姜が使ってあったこと位しか覚えていない。併しそのめばるを煮たのは旨かったともう一度繰り返して言いたい。(p.52-53「瀬戸内海のめばる」)
なんてのは、「もう一度繰り返して言いたい」ってのがシンプルでいい。説明できない味覚を、ヘンな形容詞つくったりして振り回すようなことで書こうとしないとこがいい。
>一口に言えば、江戸の料理の特徴というのは親切であることにあったのではないだろうか。それでしつこいということになることがあってもそういうのは江戸前の親切がまだ足りないものと考えることですむ。親切が洗練の域に達したのが江戸料理だったと言い直してもいい。(p.133「江戸前の卵焼き」)
なんてのは勉強になるねえ。卵焼くのに、いたずらに砂糖を入れるんぢゃなくて、味醂を使ってるって話なんだが。
>その鎌倉のハムはハムの匂いがした。それを時々思い出すのであるが、ハムの匂いがするハムと卵の匂いがする卵で食事をすることで朝の光も朝の光になる。(p.160「高崎のベーコン」)
ってのは、「朝の光も朝の光になる」もうまいんだが、なんかっつーと戦前の食べものの味は旨かった、ってとこに行き着いちゃうんで、それ言われたら勝てねーなーという気がする。
この昭和56年13版の文庫、地元の古本屋で定価より高いのを買ったんだが。
そのちょっと後で、べつの古本屋で単行本が三冊いくらで売ってんのを見つけて、やっちまったと思わされた。
欲しかったけど買わなかった、単行本、うちが狭くて本が仕舞いきれないんで、これ以上単行本増やす気にならない、いまは。
吉田健一の書くものはちょっとしか読んでないんだけど、食べもののこと書いたのはおもしろいに違いないと思って、これ読んでみた。
なんてったって潔いのは、知識ひけらかしたりしないとこで、知らないってことを淡々というのがいい。
本書のなかにも、「製法に就ての詳しいことは知らないが」とか「それが何という魚をどうしたものかもいつも聞いて忘れて」とか「これは今でもまだあるかどうか解らない」とか、そういう調子が多い。
書くときもそうだけど、もともと食べるときにも、わざわざ調べたり、記録したりしないようにみえる。余裕ある態度で、いいなあと思う。
そもそも取材にいって食べたりしてるわけぢゃなくて、なんか知んないけど、全国各地から土地のうまいものがうまい季節に家に送られてきているようで、名士というのはうらやましい。
いろんな食べ物採りあげてるけど、
>(略)ここで次々に取り上げている食べものの季節の順序が滅茶苦茶であることに気が付いた。併しこれは食べものの歳時記ではなくて思い出すままに旨い食べもののことを書いているので(略)
と言うように、適当に並べてるだけという雰囲気で、まあそのほうが読んでて疲れないからいい。
ただ、もとの出版がいつか知らないけど、昭和の時代にあって、すでに商品化なんかに関する危機感は、あちこちに見られる。
>大体旨いものだから皆で食べなければならないという法はないのである。それと栄養の問題は別でその上に各自の好みがあり、旨いからと言って早速それを全国の名店街で売り出す必要は少しもないということがこの頃は忘れられ掛けている。(p.13「飛島の貝」)
とか、
>ここにも食べものに就ての今日の妙な錯覚があって何か旨いものがあればそれをなるべく沢山作る方がそれを食べるものも作るものも得をするということらしいが、別に贅沢な話ではなくて或る種のものの味はそれが又どうということはないものであればある程出鱈目に沢山作るということを許さなくて、もしそれでもそうして作れば味がなくなり、これは大量生産ではなくてその食べものを消滅させるという無駄をすることなのである。(p.71「東京の佃煮」)
とか、
>それに付けても思うのはなるべく金も手間も掛らない方法で本ものでないとは必ずしも断定出来ない食べものその他を無暗に沢山作って売りに出すこの頃のやり方が結局は誰にも得をさせていないことで(略)(p.84「北海道のじゃが芋」)
とか、
>併しこれが壜詰めになって売り出されたりしていないのはいいことである。この蛸の格好から言ってどこにでもそう沢山いるものではなさそうで壜詰めが店に並べられるようになれば直ぐに絶滅するに決っているからで、それでも構わないという心理や論法が次々に旨いものをなくして行っている。(p.93「大阪のいいだこの煮物」)
とか、
>(略)それが食べものというものであって誰かに作って貰う程度にその人間と親しくなるとか、或る所にしかないのでそこまで行くとか、或は自分で作るとかいう手間を掛けて始めて食べものはその味がするのに破こうとしても破けない紙に似たもので包んで店で売っているのを買って来て温めたりするのは飢え死にしない範囲での栄養はあるかも知れなくても食べものではない。(p.97「新潟の身欠き鯡の昆布巻き」)
とか、
>(略)いいものも昔通りに作って売るのに任せて置けば無難なのに、そこをもう一工夫してと思うのが合成に冷凍に詐欺にと発展して他のものと同じ半透明のものに包んだべったら漬けだか何だか解らないものがいつでもどこでも店の棚にさらされることになる。(p.157「東京のべったら漬け」)
とかって具合に、いつでもだれでも食えるように商品をつくることへの攻撃は厳しい。
ところで、現代の食べものを扱った読み物の多くと違って、食べたものの味とかを書くのにも、それほど執念をみせてくれないので、そこんとこで読み手をあおってくるようなとこはない。
それでも気に入った箇所をいくつか抜いてみたい、なんかハッとさせられるものあるから。
>ただめばるという魚は旨いものだということが記憶にあるだけで他には生姜が使ってあったこと位しか覚えていない。併しそのめばるを煮たのは旨かったともう一度繰り返して言いたい。(p.52-53「瀬戸内海のめばる」)
なんてのは、「もう一度繰り返して言いたい」ってのがシンプルでいい。説明できない味覚を、ヘンな形容詞つくったりして振り回すようなことで書こうとしないとこがいい。
>一口に言えば、江戸の料理の特徴というのは親切であることにあったのではないだろうか。それでしつこいということになることがあってもそういうのは江戸前の親切がまだ足りないものと考えることですむ。親切が洗練の域に達したのが江戸料理だったと言い直してもいい。(p.133「江戸前の卵焼き」)
なんてのは勉強になるねえ。卵焼くのに、いたずらに砂糖を入れるんぢゃなくて、味醂を使ってるって話なんだが。
>その鎌倉のハムはハムの匂いがした。それを時々思い出すのであるが、ハムの匂いがするハムと卵の匂いがする卵で食事をすることで朝の光も朝の光になる。(p.160「高崎のベーコン」)
ってのは、「朝の光も朝の光になる」もうまいんだが、なんかっつーと戦前の食べものの味は旨かった、ってとこに行き着いちゃうんで、それ言われたら勝てねーなーという気がする。