関敬吾編 1956年 岩波文庫版・日本の昔ばなし(III)
河合隼雄さんを読んだら、おはなしを読まなくてはってことで、岩波文庫の三冊目。
前の二冊といっしょに買えなくて、去年の秋ごろ買った古本だ、カバーの表紙デザインがほかの二冊と違っちゃってるのが気に入ってない、1996年の46刷。
三冊シリーズの三冊目なんで、巻末に索引なんかついてるのはいいことだ。
あいかわらず、個々のおはなしのストーリーなんかより、こんなタイプのはなしがあるんだみたいな、類型とかのほうに興味もって読んでるんだけどね、私は。
「こがねの斧」(山梨県西八代郡)ってのは、正直者の爺さまが斧を深い淵に落としてしまうんだが、水神さまが出てきてこがねの斧を出すから、私んぢゃありませんっていうと、水神さまが褒美をくれるってえの、日本にもあったんだ、そういうはなし。
「豆とわらと炭」(静岡県浜名郡)ってのは、炭と藁とそら豆の三人が伊勢参りに出かけて、川をわたるのに藁が橋になって、炭が渡ろうとしたら焼けて水に落ちてしまって、それを笑ったそら豆は腹が破けちゃったから、裁縫屋が黒糸で縫ってくれたと、それってグリムだけぢゃないんだ。
落語ネタもやっぱある。「じゅげむ」(福岡県企救郡)ってのは、おなじみの寿限無なんだけど、その長い長い名前というのが、「てきてきや てきてきや まんまん入道ひら入道 もっきりこっきりもぐらがよりの 入ったり出たり 茶碗に茶柄杓 杓引木の子助」っていうんだけど、意味は書いてない、易者の占いでそうつけたと。
「ほらくらべ」とか「だんまりくらべ」とか、ナンセンスものもおもしろいけど、今回一読したなかで興味もったのは「猫のうた」(岩手県二戸郡)。
爺さと婆さが二十五歳の年とった三毛猫をかっていた。
爺さの留守に、猫が「おれあ、歌こうたっておどって見せるか」と言って、前の足をもちあげて踊った。
そして猫は「婆あ、俺がうたったのも、踊ったのも誰さもしゃべらなえんだえ、もししゃべったら、婆あくいころしてけるへで」といって、手拭をかぶって踊った。
爺さが帰ってくると、猫は踊りをやめてこたつの上にいるだけで、婆さは猫の話はしないでいた。
夜中になって、猫もいないので、婆さはわきに寝ている爺さに、猫の歌と踊りのことを話した。
すると天井の梁の上にいた猫は「にゃー」と鳴いて、ぽごんと下に落ちてきて、婆さの咽ぶえに食いついて、婆さを殺してしまった。
…って、なによ、この話。
コンテンツは以下のとおり。
炭焼長者
だんぶり長者
生れ子の運
一寸法師
五分次郎
雁とり爺
笠地蔵
大年の客
ものいう亀
たから手拭
立市買い
貧乏神
取っく引っく
笛吹聟
浦島太郎
浦島
こがねの斧
鼠の浄土
うぐいすの里
うばすて山
鬼と三人の子ども
米ぶき粟ぶき
白鳥の姉
骸骨の歌
雉も鳴かずば
蚕の始まり
蛇の聟どの
鯉女房
猫のうた
狼の報恩
天道さん金の鎖
水ぐも
大工と鬼六
鬼を一口
ずいとん坊
馬の尻のぞき
観音さま二つ
かます狐
八反袋ぎつね
右目っこ
古屋のもる
猿の生ぎも
もぐらと鮭
豆とわらと炭
たばこの起り
さるかに合戦
1さるとかに
2さるとひきがえる
3さるときじ
4南島のさるかに
兎と狸とさると川うそ
兎と亀
1のみとしらみ
2亀にまけた兎
こうの鳥とえびとくじら
慾のくまだか
むかでの医者迎え
つぶとところ
くつひきとかに
怪我の功名
天にのぼった息子
ほらくらべ
だんまりくらべ
ねずみ経
三尺わらじ
じゅげむ
どっこいしょ
かさの病い
とんびになる
狂歌ばなし
1てんで持ち
2しるしの松
3はななしの歌
4住持の夜遊び
5なしの歌
屁ひり万人
屁ひり女房
おろかな人々
1枕
2焼がよい
3うぐいすの谷渡り
彦市・吉よむばなし
1火事の知らせ
2病気見舞
3鴨汁
4仏法僧
5鷹のひな
6春田打
7臼と馬
8関所越え
9臼杵のうなぎ
10河童釣り
11隠れみの
12石肥三年
13狐の嫁入り
14牛の鼻ぐり
15水瓶
16虎の脂
17のみは薬
18かな椎
19吉五郎の天昇り
20星をおとす
21公役の弁当
22飯泥棒
23物おしみ
24こぼれる
25鴨取り
26声が高い
はなし
河合隼雄 平成十八年 新潮文庫版
これはことし年明けぐらいに買った中古の文庫、最近やっと読んだ。
1996年から2003年までの、産経新聞大阪版に連載されたコラムをまとめたもので、単行本は平成15年刊行。
そのころの時事ネタを、こうしていまごろ読むと、平成もいろいろあったなあという感じがするが。
当時の世相や事件はともかく、私が関心をもつのは河合先生のものの考え方なんかで、もちろんそれは現在でも通用するものといえる。
1996年ころには、自殺予告って電話をしてくる子どもがいたりして問題になってんだけど、
>一人の子どもが、自分の心のなかの絶望感や苦しさを分かち合う人を、家族、友人、師弟などの人間関係のなかに見出すことができず、不特定多数の人々を騒がせるという形でしか、その心の表現ができない。ここまで、子どもを追い込む社会になっている。(p.40「自殺予告という「表現」」)
なんて分析は、SNSでわざわざ騒ぎになるようなこと発信してるひとたちにもあてはまることだよねえと思う。
また、2001年の時点で、引きこもりについて、
>要するに人間はどこかである程度の「引きこもり」を必要とするのだ。ただ、それをどのような方法でいつするかが問題なのである。(略)
>昔なら大人になるまでにいろいろと「引きこもり」体験ができたのに、それを奪われた人は成人になってから、高利子つきの借金を返すような状態で、相当な「引きこもり」にならざるを得ない。(p.268「「引きこもり」の効用」)
と解説してくれているけど、そうかー、長い人生、成長過程で引きこもりはありうべしなんだー、と納得する。
ほーんと、みんな70歳まで流れに流されるまま働きつづけると、そのあと70代80代になって引きこもるんぢゃねーの、何年か後のこの国では、なんて思ったりして。
引きこもりをある程度肯定することもそうだけど、河合先生は、ものごとの解決を急がない、時間をかけて深く考えましょうというスタンスなのがいい。
マスコミの報じ方にも影響される世論の雰囲気なんかにもふれて、
>スローガンは短絡的思考から生み出されやすい。何かことが起こると、「原因」を明らかにし、その原因を絶滅させる、という単純な発想から国民もジャーナリズムも、もう少し自由になって欲しい。できるだけ早く「悪者」を探し出し、それを叩くことによって溜飲を下げていても、問題の解決からはむしろほど遠いものになっている。(p.27「完全信仰が生む不完全」)
とか、
>じゃあ、どうすればいいのか、ということになるが、一番大切なことは、このようなことは、簡単にその「原因」などわかるはずがない、ということである。原因―結果という一筋の道筋によって、これほどのことを説明したり、納得したりしようとする態度を、まず棄てることだ。「なぜ」と問えば必ず答が返ってくるはずだ、というのは現代人のあさはかな思い込みである。(p.74「「解答を得る」という罠」)
とかって、考え方をきかされると、なんか安心する。
後者なんかは神戸の児童殺害事件に関する言及なんだけど、きっと多くの報道関係者なんかは心理学者のとこへ、短絡的な「結論」を求めにきたと思うんだが、そんな簡単なものぢゃねえよと、専門家こそはハッキリ言うべきなんだろう。
ほかにも、科学と人間の生き方との関わりについて、
>さらに私が気になるのは、仮にそうした医療が法的に認められたとき、ともすると社会が、法的に「正しい」ことだから、だれもがするべきであると、個人の意見をおしやってしまうのではないかということである。(略)
>多くの人が、何が「正しい」かという判断を専門家にまかせて、それに従うという考えを持ちはじめると、人間のたましいが、科学や法律などによって、侵害されることになりかねない。私はそのことを最も恐れている。(p.127-128「「断念」が開く視界」)
と言ってます。
倫理ってのは最終段階ぢゃあ極めて個別性をもつものだ、ってのは大事な考え方ですね。法整備したからって、それが真理ってわけぢゃあない。
そういうのは、専門の深層心理学の基本認識からきてるのかもしれなくて、一般的な学問のかっこをしてるけど、フロイトだってユングだって自分自身の心理を理解しようと始めたことで、自然科学の法則とは違うと。
>深層心理学は他人のことをとやかく言うためではなく、自分を知るために、時にそれがいかに苦痛であっても、役立ててゆくためにできてきたものである。(p.184「深層心理学の使い方」)
って大事な基本線で、知ったかぶりしてこんな幼児体験したからこんな人間ができあがったにちがいない、みたいな理屈の振り回しかたは危険極まりないってことだろう。
あと、ちょっと気になってるのは、宗教についていろいろ触れられているとこで、
>ある人の死は、もっとも内面的、個人的なたましいにかかわることである。(略)
>人間の最も内奥にかかわる体験として、それは宗教の領域になるが、現在の日本では、そのような意味での「宗教的儀式」を規制の宗教によってあげることが困難になっている。(p.30「「葬儀文化」を見つめるとき」)
とか、
>日本人が二十一世紀を考える上で、是非必要と思うのだが、あまり内面的でまったく個人の自由に属すること(略) それは、日本人の宗教性の問題である。(略)
>二十一世紀は「個人」の時代である。しかし、その個人を支えるものは何か。はじめに「宗教性」と書いて「宗教」とは書かなかった。特定の宗派としてではなく、個々人が自分の宗教性を深めることによって、それを見出していくべきだはなかろうか。(p.202-206「「個人」時代の宗教性」)
とかってのを読むと、特定の宗教がどうのこうのぢゃなく、人にとって宗教とはなにかをもうちょっと考えなきゃいかんような気になってきた。
『宗教を知る 人間を知る』という共著があるらしいので、読んでみるかな。
崎田ミナ著 for.R整体院田中千哉監修 2017年 エムディエヌコーポレーション
これ、正式な書名は、「職場で、家で、学校で、働くあなたの疲れをほぐす すごいストレッチ」。
元ネタは、gooの「いまトピ」って、ネット上にあって、ちょっと前から個人的には注目してたものなんだけど。
https://ima.goo.ne.jp/column/writer/55.html
まあ、ネット見れば十分用は足りるんだが、なんか本で欲しくなって、今般買っちゃった。
(なんだかんだそういうとこアナログな私。)
イラストもおもしろくて、なんか見てるとやりたくなるんだ、これが。
全部が全部やってみたというわけでもないが、まあ気になったのは身体動かしてみなけりゃ気が済まなくはなる。
ふつうの職場でホントにいきなりこれやり始めたら、なにごとかと思われるような動きもあるとは思うけど。
「尻ほぐし」とか「肋骨ゆるめ」とか、あまり聞かないようで、言われてみりゃなるほどなってのがおもしろい。
インナーマッスルの解説がけっこう好きなんだよね、私としては。
見えない、イメージしにくい筋肉が図示されてると、妙にツボにくるというか、好奇心を刺激される。
PART 1 オフィスでホッとひと伸ばし
PART 2 仕事の大敵!眼と首の痛みはこうほぐせ
PART 3 寝不足に負けない、眠気とばしの技
PART 4 メンタルケア!集中力とやる気が上昇
PART 5 ガチガチの型がみるみるほぐれる
PART 6 腰と背中の完全ケアで痛み知らずに
PART 7 お疲れさま。家でジックリ疲労回復
丸谷才一 一九九七年 講談社
これは去年の夏に地元のワゴンセールで見つけた古本だ。ようやく最近になって読んだんだけど。
いいねえ、文庫本は読むのに手軽だけど、やっぱこういう単行本は好きだ、見つけたときのときめきがちがう。
何判ていうのか知らないけど、最近あまり見ないサイズ、いちばんうしろみたら、19cmって書いてあるが。
なかみは、「現代」に1990年から1996年にわたって連載されたエッセイ。
ひとつあたりが、このサイズの単行本で見開き2ページちょうど、いいなあ、文章と本のサイズが一致しているのって、なんかいい。
話題は例によって多岐に及んでるんだが。
「彼の功績」って章では、村上春樹の翻訳の仕事を褒めているけど、こないだ「サリンジャー戦記」読んだばっかりだから、おおっ、と思うとこあった、ちょっと。
>ひとへに村上さんの翻訳がものを言つて、アメリカの新文学は日本の若い読者に受入れられ、そしてそれが波及して、翻訳小説全体の活況となつたのだ。
>これが他の業界だつたら、彼の功績は大いにたたへられてゐるはずだが、ジャーナリズムは違ふ。ただ売行と文学賞があるだけで、批評がない。そこでわたしが一言、讃辞を呈する。(p.39)
って前から村上春樹を買ってたひとだけど、あらためて高く評価してる、両者とも好きな私なんかは、うんうんとうなずいてしまう。
文学について、ほかにドキッとしたのは、丸谷さんが1959年にジョージ・スタイナーというひとの評論を読んで衝撃を受けた話で、
>それは、戦後のドイツ文学が不振なのはナチスが贋の言語によつて政治をおこなつたためドイツ語が退化し、力を失つたからだ、と論じてゐたのである。わたしはこの批評家の洞察力と論理とに感嘆し、日本語についてかういふ事情を指摘する論客がゐないことを寂しく思つた。(p.172「日本語」)
ってやつ。そのあとには当然日本のことをとりあげ、
>言葉といふのは本来、何かを言ふために使ふものなのに、政治家たちは、何も言はないために言葉を使ふのだから、すごいことになる。
なんていう、朦朧としてて欺瞞的だと。
言葉の大事さについては、もうひとつ、
>マンゾーニの『いいなづけ』はイタリア文学を代表する長篇小説だが、数多くの美質のなかでとりわけ記憶に残るのは風景描写の妙。
で始まる「文章の力」という章で、
>こんなことを言ひ出したのは、今度の阪神大震災をあつかつた文章をいくつか読んで、そのなかには非常に質の高いものもあつたけれど、しかしどれもみな、悲惨な情景を詳しく言葉で写し取るといふ態度のものではなかつたからである。感想はあつた。意見はあつた。情報はもちろんあつた。しかし視覚的描写はなかつた。(p.166-167)
って言ってるとこが、とても印象に残った。
映像があるから言葉を使わないって理由はわかってるんだけど、最近の映像をつかった報道なんかみても、事実を伝えるっていうよりは、リポートするひとが感情をアピールするほうに傾きつつあるから、なんか正確な描写ってのは、どっかいっちゃってるよね。
めずらしく御自身の自慢をしてるような章があって、「キングメイカー」って言葉は、丸谷さんが文藝春秋の座談会で田中角栄を指して使ったら、世間一般に広まるようになったんだという。
でも、自分でつくった言葉ぢゃなくて、
>実はこれには出典がありましてね。わたしの発明ぢやあない。わたしは由緒のある言葉を使ふのが好きで(略)
>この kingmaker といふ言葉は『オクスフォード英語辞典』を引けば出て来ます。初出は一五九九年。(p.62-63「キングメイカー」)
ってことで、十五世紀イギリスの、ウォリック伯リチャード・ネヴィルという貴族の渾名が始まりらしい、ふーん。
どうでもいいけど、笑ってしまったのは、柳生十兵衛が剣豪小説で人気を博してきたことにふれて、
>しかしわたしとしてはまづ、十兵衛個人の魅力を重視したい。なかんづく、彼が片目であつたことに注目したい。
>柳田国男の『一目小僧』によるまでもなく、わが民間信仰には、鎌倉権五郎景政とか山本勘助とか、片目の男を尊敬する風があつた。この片目崇拝の習俗は、宗教学者エリアーデも小説に仕組んでゐた記憶があるが、全世界的に存在する、祭の犠牲者に対する御霊信仰の名残りなのであらう。(p.99「剣豪の盛衰」)
って文章があって、そういうのは諸星大二郎ファンの私は、お、一年神主、とかすぐ連想するし、丸谷さんは御霊信仰が好きだなあとか思うんだけど、それで話が終わったと思って、ページをめくると、〔二伸のような文章〕ってのがあって(これ、本書のなかにときどき登場する)、そこに
>ゲゲゲの鬼太郎もこの系譜に属するはず。
ってあったのが妙にツボ。そうかあ、鬼太郎も片目崇拝の流れのなかにあったのかあ。