こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

晩秋の鎌倉

2017年12月17日 | 鎌倉暮らし

鶴岡八幡宮では正月の準備が着々と進んでいる。

先日、長らくテントをかぶっていた太鼓橋の西側の赤橋の修繕が終わり擬宝珠も鮮やかになった。流鏑馬道の両脇の竹の柵も新しくなっていた。

紅葉の遅い鎌倉の山も流石に枯葉が目立つようになってきた。枯れるちょっと前の紅葉も落ち葉も綺麗だけど、これもあと少しだろうか。日のくれるのが早くなって、午後5時で、もう辺りは真っ暗だ。

そんな時間に犬の散歩をしていると、昨日観た映画に出てきたような魔物お化け幽霊がどこかにいるような気がしてくる。

それにしても、自然というのは驚くべきもので、満開の水仙の横では紫陽花の新緑が鮮やかだ。

様々な命が生きていることを感じながら、年の瀬に向かう。

大掃除はいつにしよう

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DESTINY 鎌倉ものがたり

2017年12月16日 | 読書、映画、音楽、美術

DESTINY 鎌倉ものがたり

昔から、西岸良平ファンだった。ビッグコミックオリジナルで連載されている『三丁目の夕日』は学生時代随分読んだ。今でも連載が続いているそうで驚いた。アクションは読んでいなかったが、『鎌倉ものがたり』は単行本で結構読んだ。でも、実写版の”ALWAYS 三丁目の夕日”がどうもしっくりこなくて、実写版である今作もどうしようかと迷っていたのだけど、これを観たという職場の同僚に、「なかなかいい映画でしたよ、80点というところですね」と言われ、やっぱり観に行くことにした。

鎌倉ものということで、NHKドラマのツバキ文具店のような扱われ方をして、鎌倉のあちこちが登場するかと思っていたのだけど、予想はいい意味で裏切られ、西岸ワールドそのまま。パンフレットの中でも言っている人がいたけれど、ハリウッド映画と違ってお金をあまりかけていない。だから、ああいったものに比べたら見劣りはするけれど、物語の内容などを含めたらそれなりの佳作。やっぱり、私も80点をあげる。

鳩サブレーの豊島屋の強力なバックアップもあったようで、飲み屋の場面では隣の妻と一緒に笑ってしまった。

江ノ電が空いていた(当たり前か)

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ドクターXを支えていたはずの病理医は?

2017年12月15日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨晩、家に帰ったらテレビがついていて、テレビ朝日のドラマ「ドクターX ~外科医・大門未知子~」の最終回をやっていた。妻と娘はこの番組が好きでよく観ていた。コロ健はテレビに映っていたら観る程度だったが、息子は観ない。医療ドラマというよりは凄腕の外科医とそれを取り巻く医療者の織りなすコメディードラマのような感じもするドラマで、そんなに面白いとは思わなかったけど、とにかくすごい人気だった。病理医が出てこないということが私には気に入らなかった。ドクターXは難しい腫瘍に対する切除術もいくつもしている。いくら目を大きく見開いても、顕微鏡ではないので、腫瘍切除術であればその都度迅速病理診断は行われているはずだ。というか、目の子で診断をするようでは外科医としては失格だ。多分術中迅速診断を行なっているだろうけど、その場面が出てこないのが残念で、やっぱり私もあまり観てこなかった。

例えば5時間の腫瘍切除手術をする場合、その腫瘍の診断とか手術の切除断端の評価を術中迅速診断を行った場合、病理医は臨床検査技師の助けを借りて標本を作製し、そのあと診断、報告、診断書作成まで30分前後それにかかりっきりとなる。手術全部にかかる時間の1割近い。麻酔科医のように手術につきっきりというわけではないけれど、病理医も一つの手術に結構な時間を割いているのだ。さらに日常業務では多くの手術が同時に進行しているので、病理医はドクターXの手術以外の迅速診断をしている。舞台となった医科大学病院にもドクターXの信頼する”間違えない”病理医がいたに違いない。

あの医師紹介所の雀卓を囲んでいるメンツの一人が、ドラマ『フラジャイル』に出てくる長瀬智也演じる岸先生のような凄腕のカッコイイ病理医だったらもっと面白かったんじゃないかと思う。ドラマ的には病理医を登場させるのは手術シーンではその1割あれば十分、一瞬だ。あとは、牌を握らせてコロ健のようにあれこれ語らせておけばイイ。結構使い勝手のいい役回りになったのではないかと密かに思っている。

麻雀ばかりじゃない

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流れ星(ふたご座流星群)からの贈りもの

2017年12月14日 | 日々思うこと、考えること

ふたご座流星群が”極大”とのことで昨夜、妻と娘と流れ星を探した。雲ひとつない鎌倉の夜11時前後は寒かったけど、15分ほどの間に4個ほど流れ星を見ることができた。

流れ星を探すのが精一杯で、願いを込めることは難しかった。一緒に夜空を見上げていた妻たちと”あ、みえた!”と互いに言うばかりで、気がついたら肝心の願い事をつぶやくことを忘れていた。それでも4個と、まずまずの成績に満足できたので、星に願いを託すことはあきらめ、それより風邪をひかないうちにと部屋に戻った。

寝床に入り、星が白い小さな点にしか見えない写真をFacebookにアップしてから寝た。明日はこれにどれぐらい”いいね!”をもらえるか、そんなことを思いながら灯りを消した。そして、眠りに落ちる前に星に願いを託せなかったことまた思った。

(星が白い小さな点にしかすら見えない写真)

最近、”いいね!”に限らず、何かにつけて願い事が増えているように思う。犬の散歩で近所の神社の前を通るときにもいちいち頭を下げて、あれこれ願っている。もちろん、神社の前でなくても、のべつあれこれ願いが頭をよぎる。

願いとは、将来への展望というか希望であり、そのことを念じなければそれが実現することはない。幸運は道端に落ちてはいないし、ましてや向こうからこちらに転がってくることはない。

でも、いつも同じようなことを願うようになってはむしろ執着と言えるのではないか、と感じることもある。

願望と執着心。広辞苑で調べると、願望は”願い望むこと”、執着は”強く心をひかれ、それにとらわれること。深く思い込んで忘れられないこと。”とある。両者が紙一重のものなのか、願望の延長が執着なのか、境目を見極めるのは難しい。

地位、金、名誉といったようなものは、医者としての本質的な目標とはなり得ない。医者がそういったものを得ることを連綿と欲するようになったら、それが執着と呼ばれるようなものだ。医者としての日々の仕事を遂行していく上で、それらが自らに十分足りていると納得して生きていくことができたらそれは医者として十分満足すべきものだと思う。

さらには、希望を持つことすら許されない人が世界にはたくさんいるのに、この国の多くの人は、そんなことを口にすることができるだけで幸せだということを知っているべきだ。

昨夜の流れ星は、私の心の中の執着というか欲望を気づかせてくれたうえ、謙虚でいることの大事さを知らせてくれた。

それこそが流れ星からの何よりの贈り物だった。

この気づきを忘れないように

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イマドキの物知りには経験が必要

2017年12月13日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

これまで、病理診断の仕事をしていて、分からないことがあって何か調べる必要がある場合に頼るのは自分の経験と医学書だったけれど、今ではそれにネットが加わった。

疾患そのものはよく知られているけれども、頻度がそれほど高くなくて経験数の少ない疾患に遭遇した時に、"たしか、こんな所見でよかったんじゃないかな?”なんて不安になることがある。あやふやな記憶だけで診断は進められないから、所見は何かで確認しなくてはいけない。頼るのは医学書であったり、その分野の専門家だった。医学書の場合、その分野の本が手元にあればいいけれど、なかったらどうしようもない。図書館に行ったりして色々探す。それに、その分野の本が見つかったとしても、調べたいことが書かれているとは限らない。

医学書でだめなら、その分野のエキスパートに相談するということになるのだけど、いつもそんな人が近くにいるわけでもないし、たとえいたとしても、いつも相談に乗ってくれるほど暇なわけがない。

ということで、ネットの登場となる。ネットの中の知識はそんじょそこらの物知りどころの量ではない。圧倒的な量の情報を提供してくれる。ネットさえあれば、クイズ王になんて誰でも勝てる。こうなると、ただの物知りではこの世界渡っていけない。豊富な知識に経験を積んだ人が求められる時代がやってきたように感じる。今時の物知りはこれまで以上に知識が必要とされるようになる。

ところで、グーグルが「医療・健康」の検索結果を変更したそうで、インチキ記事を載せるサイトの一掃が期待されるとのこと。良いことだ。医学関係の情報は日進月歩、専門領域であってもついていくのは大変だ。医者だって、キーワードが合致してしまって惑わされることが起こらないとは限りない。一般の人もいくらでも知識を仕入れることはできる。医者もただ単に知識が多ければ良いというわけではなく、ネット情報を利用し、それに振り回されることのない経験が大事になってきた。

どんな医者が良い医者か

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真実の前ではみんな平等のはずなのに(下)

2017年12月12日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨日の記事の続き。

研究費獲得のための申請書の書き方だの、ラボの運営だの、文科省や厚労省の補助金の減額だの配分の問題だの、といったシステム的なことで改善しなくてはいけないことは少なくない。”科研費獲得のための申請書の書き方の指南書”なんていうのをみると、首を傾げてしまう。

しかしながら、問題はシステムのことではなく、個人レベルにもある。データの改ざんのみならず、データの盗用、研究妨害など不正はいくらでもある。研究者本人が知らないうちに他の研究者が別の細胞を混入させ、その結果ノーベル賞級の研究成果となってしまった、なんてことがこれまでにあったかもしれない。

こんな不正ばかりしていたら、研究者などそのうちAIに駆逐されてしまうのではないだろうかと心配になる。いや、少なくとも手を動かすことは人間がするとしても、様々な予測の大部分はAIによって行われるようになるのではなかろうか。そして、AIが予測する研究を人間が行う。実際、そんな時代がもうすぐそこまで来ている。次世代シークエンサーの出現によって、研究者というよりはシークエンサーの出した結果を解析する、オペレーターみたいな人を見かける。

機械はインチキができないけれど、人間はインチキを思いつく。一度でもインチキに手を染めてしまったら、その科学者はインチキの上にインチキを重ねていかなくてはいけなくなる。

詐欺師と同じだ。

そして、インチキを何とか正しいものにしようと、理不尽な説明をつけることに腐心するようになる。そうなればAIに”これが正”として自分ででっち上げたデータをインプットするようになるかもしれない。機械にインチキはできないけれども、インチキを補完することはできる。ここで問題なのは、自分でたてた予想仮説ではなくて、インチキに基づくデータを真実としてでっち上げているということで、その先において研究者は機械の下僕となっていることに気がつかないまま、インチキな研究を続けることになる。

 

私は、日々病理診断をしていて様々な疾患を目の当たりにし、その多様性に驚く。もちろん、乳癌なら乳癌、胃癌なら胃癌に共通した所見はあるけれど、それぞれの組織像は一つとして同じものはない。乳房や胃の大きさに大小はあっても基本的な構造は変わらない。でも癌細胞の広がりは症例によって全く異なる。目の前には現実しかないのだ。そしてこれが病気の多様性-dibersity-であり、医者が必要となる理由だ。今の自然科学研究費の相当な部分が医学に端を発する、生命科学研究に充てられていると思うが、それらの研究は研究室のベンチで行われているだけではいけない。

新規の遺伝子を発見した、もしかしたらそれは癌の発症の”一部”に関与しているかもしれない。では、追いかけてみよう。その先には数多くの困難がある、けれどもそこでインチキに手を染めてはいけない。もしデータをでっち上げたくなったら、勉強する方向を変えてみたらどうだろう。例えば、病理の勉強をするのもいいと思う。ほんの1,2cm四方、厚さ数μmの組織しか載っていないけれど、病理標本には疾患そのものが詰まっている。

謙虚で誠実な研究者に対して病理医はそのための協力を惜しむことはないと思う。ある意味、それが病理医の仕事でもある。

真実は一つしかない

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真実の前ではみんな平等のはずなのに(上)

2017年12月11日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

一昨日、神戸での学会のあと”真実の前ではみんな平等”という記事を書いた。そこでコロ健、”真実は一つしかなくて、その前では国籍も人種も関係なく、わだかまりは一切なくなる。”と書いて、自然科学が素晴らしいものであると強調した。でも、昨日放送されたNHKスペシャル”追跡 東大研究不正~ゆらぐ科学立国ニッポン~”を観て、その時感じた晴れ晴れとした気持ちは暗転した。

昨日の放送では、研究結果の改ざんの手口には触れていなかった。これらについてはこれまでに数多くの報道がされてきたので、ご存知の方も多いだろう。”自分の予想した研究結果”を自分で作ってしまうのは簡単だ。狙った遺伝子の発現が対象とする病気でなかったとしたら、どうしようかと思う。大抵の研究者は石にかじりついてでも、その遺伝子と心中する思いでその研究を続けるのだろうけど、ひとたび”転んでしまえば”インチキは簡単にできる。別の病気の細胞を混ぜてしまうとか、もっとひどいのは画像を作り変えるとか、やろうと思えばいくらでもできる。よせばいいのに、大型研究費欲しさに有名雑誌に投稿して、余計に大きな注目を浴び、追試による再現不可能という段になって不正が発覚する。簡単にバレるようなことをよくするものだと思うが、追い込まれたらなりふり構わなくなってしまうのか。

日本では研究者の偏差値のようなものであるインパクトファクター(その科学雑誌の内容の社会的価値のようなものを示す数値。IF)が偏重され、研究者間ではNature, Cell, Science, New England Journal of Medicineなんていう雑誌に論文が掲載された人が偉いと目される。大学受験でいえば駿台模試とか河合の全統模試で1位を取ったことがあるか、みたいなものだ。大学入試の偏差値で人の評価をし続けるこの国ならでは、そのトップの大学であれば、驕りが出ても仕方あるまい。

「あの人、ネイチャーが何本あるんだよ」なんていう、それがいかにも客観的な評価であるかのように語られ、その内容については誰にも理解されていなくても盲目的に尊敬されてしまう。それに研究者なんて、研究のプロではあるけれど、研究室の運営のプロではないし、人間的に疑問符がつく人も少なくない。科学を冒涜しても平気な、研究不正を行うことにためらいを感じないような人はいくらでもいる。そんな人ばかりではなくても研究不正を行う気持ちが出てきても仕方ないと思う状況はいくらでもある。

研究者の生活は不安定だが、いつまでものんびりと成果の出ない研究を続ける余裕は今の日本にはない。だが、何十人もの研究者が動員される大型プロジェクトですら、2、3年結果が出ないことは大いにありうる。その先には大発見があるかもしれないが、一度は諦めるしかない。その時、何でもいいから適当にデータを作って、論文を出せ、と言われて功を焦って不正を働く人間が一人でもいたらそのラボはお取り潰しにもなる。自縄自縛だ。

でも、問題はこれだけではない。

明日に続く

自然科学者と研究者の間

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悲しきクリスマスツリー

2017年12月10日 | 日々思うこと、考えること

世界で一番背が高いといわれるクリスマスツリーが、神戸港に立っていた。一本、ポツンと、晒されているかのようだ。

富山の森の中から一本抜かれて、はるばる運ばれてきた、樹齢150年、30メートルを越えるあすなろの木。このイベントが終わったら、この木はどこかに植え替えられると思ってたが、これでこの木の運命は終わりだそうだ。一部は神社の鳥居に使われるそうだけど、命がここで尽きることに変わりない。

私はこの姿を見て、深い悲しみに沈んだ。私たち人間は、自然界のありとあらゆるものを収奪してきた。多くの命を奪いながら種を発展させてきた。

ふとNHKの番組「プロフェッショナル」に取り上げられていた花屋さんの「花は人間のエゴで切り取られたもの」という言葉を思い出した。

この木を森から抜いて来たプラントハンターといわれる人にとってはただの仕事でやったことだろう。この木を守ることなく、抜いていくことを許した人もいる。それ以外にもこの計画を思いついた人もいるだろうし、処分した木を商売に使う人もいるだろう。そもそも林業とはそのようなものだ。多くの人がこの木のプロジェクトに何の疑いも持たずに関わってきた、そして、その人たちをどうこういう資格は私にはない。

私の家は多くの木を使って建てられている。

それにしても、この木の姿、人間というのがどれほど罪深い存在であるのか、そのことをつくづく思い知らされる。私にはこの木は人間の罪深さのシンボルに見えてしまう。

あまりにも

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真実の前ではみんな平等

2017年12月09日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

日本と韓国の病理医が2年に一度集まる学会が神戸で開催された。数えること、第15回。足掛け30年以上の歴史がある学会だ。韓国と日本、交互に開催しているが、私の専門領域の都合で、この会自体に参加するのは4年ぶりだ。

日本と韓国の間にはずーっと昔から色々な問題があって、わだかまりはあるけれど韓国の病理医と共に難しい疾患についてディスカッションしているときに、そのようなことは一切気にならない。真実は一つしかなくて、その前では国籍も人種も関係なく、わだかまりは一切なくなる。顔見知りの先生もずいぶん増えてきて、ディスカッションも弾む。こんな時、国際交流の大切さを身をもって知る。なんとか仲良くなれないだろうか。

さて、あれこれ騒いでいた私の発表だけど、恥ずかしながら出来はあまりよくなかった。発表スライドは間に合ったのだけど、発表のための英文原稿が間に合わなかった。パワーポイントを打ち出した紙に走り書き程度はしていたのだけど、なにぶんにも乱筆で、複雑な内容などを読み落としてしまった。とくに総論(Overview)のところでは、言いたいことの半分も言えなかった。昨晩、予行演習を二度ほどやっておいたのだけど、いざ本番となったら英語がスラスラ出てこなかった。まったく甘かった。

出だしはイマイチだったけど、後半部分はなんとか持ち直していたと、慰めてくれた先生もいたけれど、自分に100点をあげることのできないような発表では、はるばる韓国からいらして下さった先生方に申し訳ない。今は反省しかできないので、次に何かの機会があればそこで挽回しよう。

ところで、昨晩からルミナリエが始まったそうで、初めて見た。ルミナリエの会場を探してきたわけではなかったのだけど、Google マップでホテルを探したら、目的地が”神戸市”になってしまっていて、知らず知らずのうちに、市役所前の会場に着いていた。ラッキーといえばラッキーだった。それにしてもこれほど美しく立派なものとは知らなかった。多くのカップルに囲まれながら妻も一緒だったら10倍は美しく見えただろうど、仕事とはいえ誕生日の夜に、美しくきらめく神戸の街を一人うろうろしていることが少し寂しかった。

後悔先に立たず

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Googleがロゴでおめでとうをいってくれたので

2017年12月08日 | 生き方について考える

Googleを開いたら、ロゴがこんなだった。

今日、12月8日の何を祝っているのかと思って、カーソルを持っていったら、「コロ健さん、お誕生日おめでとう!」

ということで、コロ健、今日で54、ずいぶんといい歳まで生きてきたものだと自分でも驚く。

それなのに、いまだ与えられた天命がなんのかわからないまま年を重ねているばかり、煩悩ばかりの日々を送っている。

それでも、少しでもよりよく生きたいと、これからもこのブログは続けていこうと思う。

人生どこに落とし穴があるかなんてわからない。

いつ、どこで失敗をやらかすかなんて、誰も教えてくれない。

だから人間面白いのだと、楽しめばいいのかもしれないが、できれば無用な失敗はしたくない。

わが身からは錆を出さない、そんなことを自分に言い聞かせながらつぎの1年を送っていけたらいいなと考える。

よろしくお願いします。

生きるって難しい

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挫折のない人生、挫折ばかりの人生

2017年12月07日 | 生き方について考える

人生において挫折の経験があるかないかが話題になることは少なくない。

「人間、一度や二度の挫折を経験していなくちゃダメだ」なんていうことを言う人もいるが、ただの失敗ということだけではいけない。

挫折とは、言い方を変えたら”自分の思い通りにいかなかったこと”にすぎない。自己中心的でわがままな人なんか、ある意味挫折だらけだ。

挫折とは、それを踏み越え取りこんでこそ意味がある。それができた人にしか、挫折についてうんぬんかんぬん語る資格はない。

だが、挫折を乗り越え、取りこんだ人にとって、挫折は挫折ではなくなっている。だから挫折について語ることはないかも知れない。

さて、私はどうだろう。自分では挫折の多い人生だと思っている。

そんな私はこれまでに経験した多くの挫折を乗り越える努力をし、それらを取りこんで来ただろうか?

それともわがままから出た不満と挫折を取り違え、自分勝手な気持ちに取り込まれ、流されるままに、不平ばかりを募らせてきただろうか?

日々何かにつけて感じる不平不満や不安感、そういったものは皆自分勝手な気持ちから出てきているのかも知れない。だからこそ挫折を含め、人生を全て受け入れるということが大切になる。

私には自分がこれまでに経験した挫折を本当の意味での挫折と言う資格はないかも知れない。けれども、今からでもこれまでの挫折を乗り越え、取り込む気で新しい人生を始めたい。そうして、これまでの多くの挫折を本当の意味での挫折だったと言えるようになりたい。

努力の先に挫折があり、挫折の先に努力がある

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無理をしてもいいことはあまり無い

2017年12月06日 | 日々思うこと、考えること

あれもこれもしてやろうと無理したところで、かけることのできる時間も労力も限られている。そうなると、なにかをやめることが必要となる。



ということで、何をやめるかとすれば、今日とりやめるのはこのブログ。

ここのところちょっと入れ込みすぎていた気もしますしね。今日はこの辺りでおしまいにします。

また明日。

今夜も書かない

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ここにいる私と、あそこにいる私

2017年12月05日 | 電脳化社会

昨晩、帰りの電車の中で書き殴った『ブログを夜書き始めると元気が出ない』という記事、夜中に読み返したらあまりに情けない内容だったので、保留(下書きの状態)にした。せっかく生み出した文章、気にくわないからといって削除してしまうのは忍びないし、ああいう記事を書いたという記録は残しておいてもいいように思う。フェイスブックとかインスタと違い、ブログには”いいね!”がないので、コメントでも入っていなければ、保留にしてしまうことにあまり抵抗はない。とはいえ、「ならば最初からアップしなければいいのに」、と思われる方がいらしたらお詫びする。あと、今一体これはなんのことを書いているのだと思っている方がいらしたら、「1日仕事で疲れ、長距離通勤の帰りの電車の中で書いた文が、読み返すと情けなくて保留にした」のだと思ってください。

この前あった大学時代のバスケット部の集まりで、調子に乗って馬鹿話をしている私をみて、後輩の一人が「コロ健さん、ブログの中ではあんな(立派な)こと言っていて、実際はこうなんだから、一体どっちが本当のコロ健さんなんでしょうね」と呆れられてしまった。全ては同じ頭が考えていることなので、違いはなく、どちらも本当のコロ健のはずなのだけど、現実世界で言葉を発している私と、ブログの中の私は違ってみえる。それは私自身そう思うし、当然のことだ。

ええかっこしい、というわけではなく、私は理想の自分をブログの中の私に求めているところがある。いつも笑顔で、人に優しく誠実でありたい、そんな自分を実現したいと思って日々ブログを書き連ねている。でも、一部の人に自分がこういうブログを書いているということを知らせているというのは、”本当の自分はこうなんだ”と、その人たちに言い訳というかそれこそ”ええかっこしい”をしているようにも思えてしまい、自家撞着に陥る。

ここを現実世界とするか、あそこを電脳化世界の中とするか、それらは容易に逆転し、それらの境界はどんどん曖昧になってきている。そのうち、私のアバターが社会生活を送るようになる世界が到来するだろう。実際、ブログの世界には、読者というブロ友がいて、仲良くコメントをやりあったり、逆に仲違いすることもある。現実に会ったこともない人とでこうなのだから、そのうち相手が人であるかもわからなくても関係なくなってしまうかもしれない。

明るいブログもあれば、暗黒面ばっかりのブログもある。みんながみんな平和と協調を願っているわけではないということがよくわかる。ブログをそれぞれの人のアバターと考えてみたら、そういう人たちによる世界が作られていくことになるのだろう。でも、人間が人間たる最大の理由は、生身の人間は何かにつけて勘違いしたり失敗することであり、そこに人間である価値がある。戦争とか犯罪、そういったことが起こる破局点をAIを使って知り、AIを利用してそれらを未然に防ぎつつ、人間の多様性を最大限に活用していく社会というのは実現できないだろうか。

さあ、理想の自分に向かって

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人生の冬至に向けて

2017年12月04日 | 日々思うこと、考えること

目覚ましがわりにしているFM横浜から、横浜の夜明け時刻が6時37分だと流れてきた。どれだけ日の出が遅くなるのかと調べてみると今年の冬至は22日で日の出は6時47分だそうで、この冬一番日の出が遅いのはもうちょっと先で大寒すぎの1月14日前後の6時50分になるそうだ。横浜あたりでは7時過ぎにはならない。その頃の日照時間は10時間程度となり、しばらくは寒くて長い夜が続く。

今週末は二十四節気の”大雪”、季節はすっかり冬だ。

起きても外は真っ暗。空を見上げても、寝るときと違うのは月と星の位置だけだ。駅までの散歩もしばらく中止。体調不良もあって先週から妻に車で送ってもらうようになった。車載の温度計では4.5度、これだけ寒いと、元気な時ならともかく、ナイトを歩かせるのもかわいそうだ。日が高くなり気温がもう少し上がったところで妻に連れていってもらったらいいだろう。でも、こんなに妻に頼っていて、妻が体調を崩したらどうしようと思う。これまで、病気らしい病気をしないできてくれた妻に感謝する。

体調不良のことなど書いてしまったけど、寄る年波には勝てないと思うようになってきた。コロ健も今月で54歳。一昔前なら55歳での定年が普通だったので、その感覚からいったらもう、それなりの高齢者だ。そうなると、引退後の人生も真剣に考えなくちゃいけない。今や人生100年の時代。事故や災害、戦争がなければまだ40年以上生きることになる。自分が一体どのぐらい生きるのか、どのぐらい元気でいられるのかがよくわからない。長生きが人生最大のリスクだなんて、無茶な言い方までされることがある。でも、長生きしてしまうのなら、残り40年のうち30年ぐらいはなんらかの活動をしていたい。

人生を四季に例えたら私は今ちょうど冬に入ったところ。この冬に再び春は巡ってこないけど、自分の人生のよかったところがあれば、それを少しでも次の世代に残してやりたい。それはもちろん、暮らしやすい世の中、明るい世の中というもので、これを食い潰すことなく、次世代に残すにはどうしたらいいか。そんなことを日々考えながら生活して行くことが何より大切だと思う。10年後を人生の冬至として、今、ぼんやりしてたら、10年後には何もないし、大寒に当たるであろう20年後には後悔ばかりが残ることになるに違いない。

どれほど歳をとってしまっても、結局は今が一番若くて、スタートの時。今こそが春と思い定めて毎日を送りたい。

冬至を過ぎたら日は少し長くなる

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コロの不調・・・2、私も不調で

2017年12月03日 | 犬との暮らし

昨日からの続き)

マルチーズのコロの血液検査の結果は高度の貧血だったようだ。赤血球、白血球、血小板のいずれも低値。獣医さんはいろんな可能性を考えてくれたらしいが、原因は分からず。クッシング病の薬の休薬と、白血球が減っているので抗生物質を飲んで様子を見る。ということになったそうだ。今日も、朝から元気がない。犬なので、ゴロゴロしているのはいつものことだが、貧血では、元気も出るまい。貧血の原因の精査のために、骨髄生検をして調べたところで、それがどうなるというものでもない。アジソン病となっていて、造血能が落ちているのだろうと思う。体が小さいので、薬のコントロールが難しい。心配になって触ると唸るので、昨日よりは多少は元気があるのかもしれない。

フラットコーテッドレトリバーのナイトも調子が悪い。今朝食べたものを丸ごと吐いてしまった。もともとろくろく噛まずに食べる子だが、ドッグフードの形そのままで戻している。血液などは混じっていないし、下痢はしていないので、ストレスによるものだろうと思う。様子を見ることにした。ストレスが原因だと思う。コロの変調もあるが、自分のことをほとんど相手にしてもらっていないということもありそうだ。

犬も大事な家族だと、つくづく思う。この子たちはこの子たちなりに一生懸命に生きている。老境にさしかかりつつある二匹を大事に守っていきたい。

結局今日はコロ健自身の体調不良もあって、犬たちと静かに過ごした。小春日和の穏やかな1日だった。ちょっとだけ散歩に出たら、ものすごい人出だった。

さて、明日からはまた仕事、胃の痛みは治まったけど、喉はまだいががする、早く寝よう。

あわただしさに流されない

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