岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

Nドキュメンタリー「1942」と「ビルマ戦線」を録画で観ました。

2022-08-17 21:01:13 | 戦争を語り継ぐ

1942年といえば、前年の12月の真珠湾攻撃からまだいくらも経っていない時期。

すでに緒戦の勢いは失っていた。

華々しい戦果は半年程度で過去のものとなった。

しかし軍部はそれを隠し、国民は虚偽の大本営発表を信じていた。

前線の報道ニュースの映像は、過去に勝っていた頃のものだった。

兵士は前線に出てそのことを知ることになる。

食料もなく病気にかかり最後は無謀な攻撃をしかけ弾に当たり帰らぬ人となった。

ガダルカナル島の惨状を3D映像に再現していた。

 

ビルマ戦線でも軍部中枢の作戦行動は異常だった。

英軍からは日本軍の道徳観の欠如が非難されていた。

戦争の負けを認める勇気がないと。

日本人は昔から国内の争いにおいても、捕虜を人間として扱ってこなかった。

1929年の捕虜の待遇に関する条約にも著名するが批准はしていない。軍部の反対があった。

(生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けずの戦陣訓をつくった軍部)

開戦から1年を経過すると、軍部中枢は勝てない戦争だと分かっていた。

司令官はそのことに気がついていながら「戦線を維持しろ」と部下に命令し、自分たちは後方に逃亡した。

ビルマも満州もそうだった。

自分たちと家族を真っ先に逃した。

当初は協力的だった現地の人々も抗日に立ち上がり日本軍を追い詰めた。

アウンサン将軍もその一人だった。

負けを認める勇気のない軍部中枢は、戦争の緒戦以降の2年半に渡って国民をだまし続けた。

日本だけでも犠牲者310万人。ほとんどは戦争の後半で命を失っている。

日本人死者は、310万人(軍人・軍属が230万人、民間人が80万人)に達し、その9割が1944年以降の戦争末期に集中して亡くなったと推算される。
そのほとんどは戦闘で「名誉の戦死」をしたのではない。30万人を超える海没死、異常に高い餓死・戦病死、そして特攻──。

『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)

戦後77年は過去のものではない。

戦争をしない、させないために、岸田氏は自らにあたえられた権力を勇気を持って行使してほしい。

それができるのはあなたしかいないのだから。

 

お読みいただきありがとうございました。

 

💛ウクライナに平和を💛

 

 


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