先日、NHKのクローズアップ現代を観ました。
日本の鉄道車両の安全性について、誰も関心がないという内容に
本当に驚きました。
安全性というのは、とりあえず強度のことです。
福知山線事故で、折れ曲がり、つぶれた車両に驚きました。
その前には東京地下鉄線で高校生が華奢な車体のため、
なくなられた痛ましい事故がありました。
鉄道(衝突)事故は起こらないという前提で車両は設計されているのです。
関係者は車両の快適性の話をしても安全性の話はしません。
こんな馬鹿なことはないと思いたいのですが、事実です。
車両製造メーカーの話:鉄道会社は安全面での要求をしない。
鉄道会社:メーカーは安全な車両をつくらない。
国土交通省:車両が高価になったら(安全重視で)、中小の鉄道会社は
立ち行かなくなると思われるので、対策を打つつもりはない。
(多少ニュアンスは違うかもしれない)
すなわち、だれも安全な車両を作る意思はないということです。
製造メーカーに安全性を重視した車両を作る技術がないと思っては
いけないようです。
米国基準の安全性の高い車両は日本のメーカーが作っているのです。
米国では安全面の基準ができており、日本にはまったくありません。
どのような車両が安全かのデータもありません。
日本と米国では命の重さが違います(すべてそうとはいいませんが)。
話が古くなりますが、第2次大戦の両軍の戦闘機の安全性、たとえば
防弾性には天地に開きがありました。
機体より人間が大切な国と、人は赤紙でいくらでも集まるという思想の国
との違いです。
安全性を高めるということは即コストアップにつながるという国土交通省の
考えは根拠がありません。
たとえば、車の安全性は格段に進歩しましたが、それが価格の大幅なアップに
つながったでしょうか。
自動車メーカーは安全な車を作る努力をしなければ業界で生き残れません。
もちろん環境問題も同じです。
ところが、売り手と買い手とも企業である車両では、そのような努力が
経営に影響しないのです。
ならば、国が動けばいいのですが、動かない事情は想像できます。
こうなるとやはり乗客である国民が強い意思を示すことしかありません。
遺族の会のみが、安全性に取り組み着々と成果を挙げていることに学び、
私たちも声を上げなければ安心して日本の鉄道車両に乗ることはできません。
日本の鉄道車両の安全性について、誰も関心がないという内容に
本当に驚きました。
安全性というのは、とりあえず強度のことです。
福知山線事故で、折れ曲がり、つぶれた車両に驚きました。
その前には東京地下鉄線で高校生が華奢な車体のため、
なくなられた痛ましい事故がありました。
鉄道(衝突)事故は起こらないという前提で車両は設計されているのです。
関係者は車両の快適性の話をしても安全性の話はしません。
こんな馬鹿なことはないと思いたいのですが、事実です。
車両製造メーカーの話:鉄道会社は安全面での要求をしない。
鉄道会社:メーカーは安全な車両をつくらない。
国土交通省:車両が高価になったら(安全重視で)、中小の鉄道会社は
立ち行かなくなると思われるので、対策を打つつもりはない。
(多少ニュアンスは違うかもしれない)
すなわち、だれも安全な車両を作る意思はないということです。
製造メーカーに安全性を重視した車両を作る技術がないと思っては
いけないようです。
米国基準の安全性の高い車両は日本のメーカーが作っているのです。
米国では安全面の基準ができており、日本にはまったくありません。
どのような車両が安全かのデータもありません。
日本と米国では命の重さが違います(すべてそうとはいいませんが)。
話が古くなりますが、第2次大戦の両軍の戦闘機の安全性、たとえば
防弾性には天地に開きがありました。
機体より人間が大切な国と、人は赤紙でいくらでも集まるという思想の国
との違いです。
安全性を高めるということは即コストアップにつながるという国土交通省の
考えは根拠がありません。
たとえば、車の安全性は格段に進歩しましたが、それが価格の大幅なアップに
つながったでしょうか。
自動車メーカーは安全な車を作る努力をしなければ業界で生き残れません。
もちろん環境問題も同じです。
ところが、売り手と買い手とも企業である車両では、そのような努力が
経営に影響しないのです。
ならば、国が動けばいいのですが、動かない事情は想像できます。
こうなるとやはり乗客である国民が強い意思を示すことしかありません。
遺族の会のみが、安全性に取り組み着々と成果を挙げていることに学び、
私たちも声を上げなければ安心して日本の鉄道車両に乗ることはできません。