先日、通過した法華口駅のお話が新聞に掲載されていました。
(2014年1月11日 読売新聞)
民家が集まる駅西側を除けば、見渡す限りの田園風景。「カタン、カタン」「カタン、カタン」と遠くから列車が近づいてくる音で、乗客がホームに姿を見せる。
加西市の第3セクター「北条鉄道」(北条町―粟生駅間13・6キロ)の法華口駅。昨年11月、国の文化審議会が同鉄道の長(おさ)駅や播磨下里駅と、木造平屋約85平方メートルの法華口駅の駅舎を登録有形文化財に答申した。だが、この駅が見つめてきた、戦争の記憶を知る人は少なくなった。
「ブーン、ブーン」と回る戦闘機のプロペラや、エンジンの音が駅舎に響いていた。特攻隊員や隊員に面会する人たちのお国なまりが飛び交った。約2・4キロ北東には特攻隊の訓練基地「姫路海軍航空隊鶉野(うずらの)飛行場」があった。隣接の工場では海軍の戦闘機「紫電」と「紫電改」が計510機も造られたという。飛行場近くに自宅がある、塩河清一さん(81)は「隣の家に特攻隊員が下宿していた。国民学校6年生だった私は特攻隊のお兄ちゃんによく遊んでもらった」と語る。
若い兵隊に戦闘機の操縦を教えていた当時26歳の大岩虎吉さんもその一人。大岩さんは愛知県・知多半島出身。妻のたねさんが2、3歳と乳飲み子の娘2人を連れ、下宿を訪れていた。
大岩さんは塩河さん宅にも遊びに来た。「たね、ちょっと踊ってみ」と声を掛け、日本舞踊を披露してもらった。
塩河さんが旧制小野中学(県立小野高校)を受験するとき、試験会場で胸に付けられるように、白いセルロイドに墨で「塩河清一」と書いた名札を作ってくれた。「頑張れ。わしの形見やと思って大事にしろ」。塩河さんにはその言葉の意味がよく分からなかった。
その後、大岩さんは戦闘機に乗って鶉野飛行場を飛び立った。塩河さんの自宅の庭で、たねさんと娘が見送った。21機編隊で飛ぶ戦闘機の中で1機だけ、翼を振り、「さよなら」と合図してきた。「あれが、うちの人です」。全て見送った後、たねさんは「主人はもう帰らない」と、その場に泣き崩れた。塩河さんも涙を流しながら「形見」の意味を理解した。大岩さんは1945年4月6日、鹿児島・串良基地から出撃したと記録にある。
現在も法華口駅は戦争中の姿を残している。塩河さんは「全国からこの駅に人が集い、散って行った」と語る。ボランティア駅長で「鶉野平和祈念の碑苑保存会」メンバー、上谷昭夫さん(75)(高砂市曽根町)は「戦争は罪だ」と言い切る。
45年3月31日、国民学校2年生だった吉岡文麿さん(77)(加東市下滝野)が乗った列車が、法華口駅を出て網引駅の手前約350メートルに差し掛かったとき、脱線、転覆。乗客11人が死亡、62人が重軽傷を負った。吉岡さんは横転して子どもが泣き叫ぶ満員列車の窓から外に逃げた。
事故は、鶉野飛行場の紫電改が試験飛行中に不時着し、線路を壊したのが原因。吉岡さんは「地元の人たちが木造の客車の窓をノコギリで切り、乗客を救出した。駆け付けた兵隊たちは乗客を助けるより先に、戦闘機に田んぼのワラをかぶせて隠蔽を図った」と証言する。
「平成」の駅舎はすっかり、市民の憩いの場になった。上谷さんと同じボランティア駅長、北垣美也子さん(37)は、旧駅員室を改修して2012年に開業した米パン工房「モン・ファボリ」(フランス語で「私のお気に入り」の意味)で、知的障害者らと楽しそうにパン生地をこねる。「パンをおいしく食べてもらいながら、駅にまつわる歴史を語り継いでいきたい」。北条鉄道で初の女性運転士、黒川純子さん(29)は「苦難の時代があったから今の平和がある。それを肝に銘じ、北条鉄道を守り抜きたい」と力強く語った。
戦争の悲劇を伝える法華口駅は、「不戦の誓い」の象徴でもある。(今村正彦)
〈おわり〉
[メモ]法華口駅の駅舎は、播州鉄道北条町―粟生駅間が開通した1915年(大正4年)に建てられた。昨年11月に国登録有形文化財に答申された際は、延長67メートルの石積みのプラットホームと共に大正期の歴史的景観を伝えている点が評価された。法華山一乗寺の最寄り駅としても知られる。播州鉄道は24年に播丹鉄道に社名を変更し、43年に国有化。85年に国鉄から引き継ぎ、加西市の第3セクター北条鉄道が営業を始めた。
(2014年1月11日 読売新聞)
※写真は北条鉄道です。
(2014年1月11日 読売新聞)
民家が集まる駅西側を除けば、見渡す限りの田園風景。「カタン、カタン」「カタン、カタン」と遠くから列車が近づいてくる音で、乗客がホームに姿を見せる。
加西市の第3セクター「北条鉄道」(北条町―粟生駅間13・6キロ)の法華口駅。昨年11月、国の文化審議会が同鉄道の長(おさ)駅や播磨下里駅と、木造平屋約85平方メートルの法華口駅の駅舎を登録有形文化財に答申した。だが、この駅が見つめてきた、戦争の記憶を知る人は少なくなった。
「ブーン、ブーン」と回る戦闘機のプロペラや、エンジンの音が駅舎に響いていた。特攻隊員や隊員に面会する人たちのお国なまりが飛び交った。約2・4キロ北東には特攻隊の訓練基地「姫路海軍航空隊鶉野(うずらの)飛行場」があった。隣接の工場では海軍の戦闘機「紫電」と「紫電改」が計510機も造られたという。飛行場近くに自宅がある、塩河清一さん(81)は「隣の家に特攻隊員が下宿していた。国民学校6年生だった私は特攻隊のお兄ちゃんによく遊んでもらった」と語る。
若い兵隊に戦闘機の操縦を教えていた当時26歳の大岩虎吉さんもその一人。大岩さんは愛知県・知多半島出身。妻のたねさんが2、3歳と乳飲み子の娘2人を連れ、下宿を訪れていた。
大岩さんは塩河さん宅にも遊びに来た。「たね、ちょっと踊ってみ」と声を掛け、日本舞踊を披露してもらった。
塩河さんが旧制小野中学(県立小野高校)を受験するとき、試験会場で胸に付けられるように、白いセルロイドに墨で「塩河清一」と書いた名札を作ってくれた。「頑張れ。わしの形見やと思って大事にしろ」。塩河さんにはその言葉の意味がよく分からなかった。
その後、大岩さんは戦闘機に乗って鶉野飛行場を飛び立った。塩河さんの自宅の庭で、たねさんと娘が見送った。21機編隊で飛ぶ戦闘機の中で1機だけ、翼を振り、「さよなら」と合図してきた。「あれが、うちの人です」。全て見送った後、たねさんは「主人はもう帰らない」と、その場に泣き崩れた。塩河さんも涙を流しながら「形見」の意味を理解した。大岩さんは1945年4月6日、鹿児島・串良基地から出撃したと記録にある。
現在も法華口駅は戦争中の姿を残している。塩河さんは「全国からこの駅に人が集い、散って行った」と語る。ボランティア駅長で「鶉野平和祈念の碑苑保存会」メンバー、上谷昭夫さん(75)(高砂市曽根町)は「戦争は罪だ」と言い切る。
45年3月31日、国民学校2年生だった吉岡文麿さん(77)(加東市下滝野)が乗った列車が、法華口駅を出て網引駅の手前約350メートルに差し掛かったとき、脱線、転覆。乗客11人が死亡、62人が重軽傷を負った。吉岡さんは横転して子どもが泣き叫ぶ満員列車の窓から外に逃げた。
事故は、鶉野飛行場の紫電改が試験飛行中に不時着し、線路を壊したのが原因。吉岡さんは「地元の人たちが木造の客車の窓をノコギリで切り、乗客を救出した。駆け付けた兵隊たちは乗客を助けるより先に、戦闘機に田んぼのワラをかぶせて隠蔽を図った」と証言する。
「平成」の駅舎はすっかり、市民の憩いの場になった。上谷さんと同じボランティア駅長、北垣美也子さん(37)は、旧駅員室を改修して2012年に開業した米パン工房「モン・ファボリ」(フランス語で「私のお気に入り」の意味)で、知的障害者らと楽しそうにパン生地をこねる。「パンをおいしく食べてもらいながら、駅にまつわる歴史を語り継いでいきたい」。北条鉄道で初の女性運転士、黒川純子さん(29)は「苦難の時代があったから今の平和がある。それを肝に銘じ、北条鉄道を守り抜きたい」と力強く語った。
戦争の悲劇を伝える法華口駅は、「不戦の誓い」の象徴でもある。(今村正彦)
〈おわり〉
[メモ]法華口駅の駅舎は、播州鉄道北条町―粟生駅間が開通した1915年(大正4年)に建てられた。昨年11月に国登録有形文化財に答申された際は、延長67メートルの石積みのプラットホームと共に大正期の歴史的景観を伝えている点が評価された。法華山一乗寺の最寄り駅としても知られる。播州鉄道は24年に播丹鉄道に社名を変更し、43年に国有化。85年に国鉄から引き継ぎ、加西市の第3セクター北条鉄道が営業を始めた。
(2014年1月11日 読売新聞)
※写真は北条鉄道です。