岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

「広島刑務所脱走」からも学べる。

2012-01-22 14:10:00 | 日本の仲間
広島刑務所脱走のニュースを聴いたときには驚いた。
刑務所脱走というのは映画や過去の話だと思っていた。
まさか、街なかの刑務所から4m以上の高い塀を乗り越えて脱走できるとは信じられなかった。
この脱走劇を聞いた時、福島の原発事故と重なるとの思いが岩清水のように湧いてきた(?)。

共通点は、そんなこと「起きっこない」と思い込んでいることだ。

他人事ならば、絶対ということはないと冷静に言える。
しかし自分が関わっていることでは、「起きっこない」と信じ込むことができるのだ。

朝日新聞1月20日「沼上幹の組織の読み筋」に注目した。
沼上さんは、「愚者は経験に学ぶ。賢者は歴史に学ぶ」という格言から学べという。

確かに「起きっこない」というのは自分の中での経験から来ている。
一方、歴史を見れば脱走事件はそれこそ山ほど起きている。
どうして自分の刑務所には起こらないと思えるのか。

原発事故に至っては、海外での大事故があったにも関わらず、日本の自分たちには「起きっこない」という狭い愚者経験に学んでいるとしか思いない。

なぜ経験から学ぶことが危険なのか。

「幾重にも安全策が張りめぐされると、日々の生活を通じて、若干のミスや手抜きをしても事故が起こらないことを現場の人々が学習し始めてしまう」
「この種の弛緩は容易に伝染し、まん延し、増幅されていく」

JR福知山線脱線転覆事故に象徴されるように効率を優先したダイヤは少々の手抜きなくしては定時運行ができない。事故が起こるはずがないと思っているからのダイヤ編成だった。

次の文章には納得させられる。

「実際には事故が起こる確率は高まっているにもかかわらず、確率自体は目に見えないから日常業務から実体験を積み上げていく限り弛緩をまん延するのを止めるのは難しい」

目に見えない危険性の確率を経験からだけでは把握することはできないのだ。
それも危険を経験したことがないとするとほとんど危険性の確率はわからない。

想定外の巨大津波があったことは、大きな犠牲を払った後に日本人の文章に残る経験を超えて地質から学んでいるように。
歴史イコール人間の歴史でもないのだ。




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