彩流社 1993年
安達憲忠は、東京市養育院で渋沢栄一のもと、院の経営、運営にかかわった方です。
1857年(安政4年)岡山県赤磐郡熊山町(現赤磐市)生まれです。
彼の一生は、まことに明治人の気骨の道、そのものです。
明治の人が、どのような考えを持って、社会福事業を始め、生涯をそれに費やしたか、理解が及びます。
安達憲忠は、9歳にして、生家からそう遠くない中津山願興寺に入山。
12歳で岡山市金山にある銘金山金山寺に入山。2年間の間、ここで、天台の宗務を修め、
加行を練り護摩を焚いて過ごした。
再び、中津山願興寺に帰り、昼は漢学塾に通い、夜は師尚から仏典を学んだ。
さて、彼に向学の思いは収まらず、1876年(明治9年)5里離れた岡山市にある遺芳館に学ぶ。
もちろん徒歩の日帰りである。往復十里、8~9時間はかかる。
土地勘のある私には信じられない距離である。
この生活を3年続けて21歳で卒業、山陽新報に入社。
自由民権運動に深入りする。
犬養木堂より2歳若い。
石井十次より8歳年上。
石井十次は自由民権運動には間に合わなかった。
犬養木堂は、自由民権運動を通じで政治の世界に入っていく。
1883年(明治16年)、安達は民権運動に挫折、上京する(徒歩で)。
しかし、1885年、大阪事件に係わりそうになり福島に去る。
1887年再上京し、東京府に勤務する。
1891年、東京市養育院幹事事務取扱となる。
以後、1919年(62歳)まで勤務。
この間、医師の光田健輔も養育院の医員として勤務しており、1901年らい病治療回春病棟、
1909年のらい病予防規則に繋がっていく。
(この年、公立療養所建設。邑久光明園の前身である大阪外島保養所他5か所)。
安達もハンセン病に深くかかわっていた。
1930年(昭和5年)、死去(74歳)
安達は、儒教、陽明学、仏教の素養を十分に持っていた。
これは明治初年に教育を受けて人々の共通基盤であった。
安達の貧富観は,素養そして時代の影響を強く受けている。
当時は政治家にとっても魅力的な見方だったようだ。
173pより引用(安達の著書「貧か富か」についての文章):
「貧窮、到富の原因は共に心理的であって、到富のためには、自利、利他の一致が
必要であると見る。すなわち、利他相愛の至誠の行為は、期せずして、天の恵みに
浴し、我利排他の天則にもとるものは、自ら不幸を招いて悲境に沈淪する。
これは不思議に見えるか、不思議ではない。真に自然の妙理、必至の成果なのである。
彼は、我々の本能の利己を全部捨てて、利他に努めよというのではない。
五欲、七情を放棄してしてしまえというのでもない。
我々は利己を離れては一日も生きて行かれない。五欲、七情を離れたら人間ではなく仙人である。
したがって、世の中、利己もあってよく、営利を目的としてよい。
ただ、出発点は利己でもよいが、その中に利他が貫流していないと、いつかは利己の努力は水泡に帰し、
いつかは必ず、これが無効になる時がくるのである。
もし初めより、終わりまで、利己と共に利他の精神が貫流しておれば、利己の目的は
やすやすと完遂できる。
人生の丈夫な織物は、利他の太い縦糸と、利己の太い横糸とを織り立てたのである。
それが貧困解脱の妙法であり、福源招来の秘訣である、と締めくくっている」
安達憲忠は、東京市養育院で渋沢栄一のもと、院の経営、運営にかかわった方です。
1857年(安政4年)岡山県赤磐郡熊山町(現赤磐市)生まれです。
彼の一生は、まことに明治人の気骨の道、そのものです。
明治の人が、どのような考えを持って、社会福事業を始め、生涯をそれに費やしたか、理解が及びます。
安達憲忠は、9歳にして、生家からそう遠くない中津山願興寺に入山。
12歳で岡山市金山にある銘金山金山寺に入山。2年間の間、ここで、天台の宗務を修め、
加行を練り護摩を焚いて過ごした。
再び、中津山願興寺に帰り、昼は漢学塾に通い、夜は師尚から仏典を学んだ。
さて、彼に向学の思いは収まらず、1876年(明治9年)5里離れた岡山市にある遺芳館に学ぶ。
もちろん徒歩の日帰りである。往復十里、8~9時間はかかる。
土地勘のある私には信じられない距離である。
この生活を3年続けて21歳で卒業、山陽新報に入社。
自由民権運動に深入りする。
犬養木堂より2歳若い。
石井十次より8歳年上。
石井十次は自由民権運動には間に合わなかった。
犬養木堂は、自由民権運動を通じで政治の世界に入っていく。
1883年(明治16年)、安達は民権運動に挫折、上京する(徒歩で)。
しかし、1885年、大阪事件に係わりそうになり福島に去る。
1887年再上京し、東京府に勤務する。
1891年、東京市養育院幹事事務取扱となる。
以後、1919年(62歳)まで勤務。
この間、医師の光田健輔も養育院の医員として勤務しており、1901年らい病治療回春病棟、
1909年のらい病予防規則に繋がっていく。
(この年、公立療養所建設。邑久光明園の前身である大阪外島保養所他5か所)。
安達もハンセン病に深くかかわっていた。
1930年(昭和5年)、死去(74歳)
安達は、儒教、陽明学、仏教の素養を十分に持っていた。
これは明治初年に教育を受けて人々の共通基盤であった。
安達の貧富観は,素養そして時代の影響を強く受けている。
当時は政治家にとっても魅力的な見方だったようだ。
173pより引用(安達の著書「貧か富か」についての文章):
「貧窮、到富の原因は共に心理的であって、到富のためには、自利、利他の一致が
必要であると見る。すなわち、利他相愛の至誠の行為は、期せずして、天の恵みに
浴し、我利排他の天則にもとるものは、自ら不幸を招いて悲境に沈淪する。
これは不思議に見えるか、不思議ではない。真に自然の妙理、必至の成果なのである。
彼は、我々の本能の利己を全部捨てて、利他に努めよというのではない。
五欲、七情を放棄してしてしまえというのでもない。
我々は利己を離れては一日も生きて行かれない。五欲、七情を離れたら人間ではなく仙人である。
したがって、世の中、利己もあってよく、営利を目的としてよい。
ただ、出発点は利己でもよいが、その中に利他が貫流していないと、いつかは利己の努力は水泡に帰し、
いつかは必ず、これが無効になる時がくるのである。
もし初めより、終わりまで、利己と共に利他の精神が貫流しておれば、利己の目的は
やすやすと完遂できる。
人生の丈夫な織物は、利他の太い縦糸と、利己の太い横糸とを織り立てたのである。
それが貧困解脱の妙法であり、福源招来の秘訣である、と締めくくっている」