備中松山城は、山城です。
日本の天守の現存する山城の中でも最も高い(430m)ところにあります。
こんな城は日本にひとつしかないのです。
城下から歩いて登城するのが正しいのですが、車で頂上近くまで行くことができます。
ほとんどの方がそうして登ります。
城下から歩けば山城の戦略的な意味も理解できます。
何故このような山の中に城を築かなければならなかったのでしょうか。
現存している松山城のさらに山奥に古松山城といってもいい山城跡があります。
古い時代になればなるほど山奥に後退するのです。
不便この上もありません。
もちろん日常生活を送るために城や砦を作ったわけではないですね。
いざ戦いという時に篭った場合がほとんどでしょう。
ですから戦乱の世が終われば山奥から里に降りて政(まつりごと)や生活を行ったわけです。
松山城も御根小屋という山麓の御殿がありました。
ここで藩主が生活や政を行っていました。
現在の高梁高校の場所です。
松山城は1240年に大松山に秋庭重信が砦を築いたのが始まりです。ずいぶん古い歴史です。
それだけに、幕末まで15家が城主を務めています。
元禄には赤穂浪士で有名な大石内蔵助が1年間城代を務めています。
では、写真を掲載します。
ここまでバスで来ることができます。
もちろん城下を歩いてくるのが正統です。
城下の清流沿いに登山口を目指します。
登山口からしばらく登ると、大石内蔵助が腰掛けたという石があります。
中太鼓丸櫓跡から城下を遠望します。御根小屋と天守との伝達手段です。
大手門まで登ってきました。素晴らしい石垣です。
三の丸です。
厩曲輪から土塀を見下ろします。
二の丸から天守を望みます。
天守は二層二階です。
内部も見応えがあります。
黒澤明の映画に出てきそうな太い梁と板張りの床や壁です。
隠し部屋もあります。自害する所です。
二重櫓です。石垣といい大変見応えのあるものです。
私には天守に劣らず見事でした。
さらに山奥に行くことができます。
古城の見取り図です。
最後に大池がありました。石垣で囲ってあり、生活用水に使うために溜めたのでしょう。
この池も素晴らしい。
日本の天守の現存する山城の中でも最も高い(430m)ところにあります。
こんな城は日本にひとつしかないのです。
城下から歩いて登城するのが正しいのですが、車で頂上近くまで行くことができます。
ほとんどの方がそうして登ります。
城下から歩けば山城の戦略的な意味も理解できます。
何故このような山の中に城を築かなければならなかったのでしょうか。
現存している松山城のさらに山奥に古松山城といってもいい山城跡があります。
古い時代になればなるほど山奥に後退するのです。
不便この上もありません。
もちろん日常生活を送るために城や砦を作ったわけではないですね。
いざ戦いという時に篭った場合がほとんどでしょう。
ですから戦乱の世が終われば山奥から里に降りて政(まつりごと)や生活を行ったわけです。
松山城も御根小屋という山麓の御殿がありました。
ここで藩主が生活や政を行っていました。
現在の高梁高校の場所です。
松山城は1240年に大松山に秋庭重信が砦を築いたのが始まりです。ずいぶん古い歴史です。
それだけに、幕末まで15家が城主を務めています。
元禄には赤穂浪士で有名な大石内蔵助が1年間城代を務めています。
では、写真を掲載します。
ここまでバスで来ることができます。
もちろん城下を歩いてくるのが正統です。
城下の清流沿いに登山口を目指します。
登山口からしばらく登ると、大石内蔵助が腰掛けたという石があります。
中太鼓丸櫓跡から城下を遠望します。御根小屋と天守との伝達手段です。
大手門まで登ってきました。素晴らしい石垣です。
三の丸です。
厩曲輪から土塀を見下ろします。
二の丸から天守を望みます。
天守は二層二階です。
内部も見応えがあります。
黒澤明の映画に出てきそうな太い梁と板張りの床や壁です。
隠し部屋もあります。自害する所です。
二重櫓です。石垣といい大変見応えのあるものです。
私には天守に劣らず見事でした。
さらに山奥に行くことができます。
古城の見取り図です。
最後に大池がありました。石垣で囲ってあり、生活用水に使うために溜めたのでしょう。
この池も素晴らしい。