岩清水日記

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」良寛

明暗を分けた檜枝岐温泉と大湯温泉

2005-08-05 08:37:35 | スポーツ(身体に魅せられて)
檜枝岐温泉に一泊した私たちは、翌朝、深田百名山の一つとして
知られる「会津駒ヶ岳」登山を楽しんだ。
山頂付近には雪渓が残り、可憐な高山植物がそこここに
咲いていた。
山を十分満喫した私たちは、ふたたびバスに乗り、昨日の道を
忠実にたどり、田子倉湖を経由し越後大湯温泉に向った。
大湯温泉は「越後駒が岳」の麓にあり、この山も深田百名山の
名峰である。

3時間あまりのバス旅の後、辿りついた大湯温泉は、
高層の旅館がならぶ大きな温泉町だったが、なぜか活気のない、
すでに過去の街のような雰囲気を感じさせた。

前日泊まった辺境にある檜枝岐温泉の「明るさ」と
対照的だった。

翌朝、温泉街を散策すると、閉鎖されたストリップ小屋や、
かろうじて開いていそうな射的場があった。
かっては華やかな温泉街だったのだろう。

温泉街の中心を国道352号線が貫いていた。
この温泉街のさらに奥にはなにがあるのだろう。
実はこの国道は、県境に向けて細く長く入り込んでいる。
狭い国道がたどりつく場所は、あの有名な奥只見湖なのだ。
田子倉湖の上流に続く只見川は、日本一の貯水量を誇る
奥只見ダムによって堰きとめられた。
奥只見ダムの建設には、盛時4000名の人間が投入されたという。

その男たちは、懐に現金を入れ、この国道を下り、
50km下流の大湯温泉街にやってきた。
毎夜毎夜のドンチャン騒ぎは、その男たちの懐を空っぽにし
高層の建築物に形を変えていった。

しかし、時は経ち、奥只見ダムが完成すると、男たちは
山を降り、新たなダム建設地へと去っていってしまった。
大湯温泉は、新たな顧客を見つけることなく衰退の一途を
たどった。

大湯温泉から奥只見湖へ向う国道352号線は、湖沿いに
さらに奥へと続いていく。うねうねと湖沿いを這いながら、
1車線になる小道のような国道はやがて福島県に入り、
標高1500mの尾瀬御池を越えてやっと下りにはいる。
そしてふたたび人家に出会うことになる。その人家のある村が
檜枝岐村なのだ。

檜枝岐温泉と大湯温泉を結ぶ道は実は2本あった。
二つの最奥地の村は、田子倉湖を通る国道252号線と、
奥只見湖を通る352号線で繋がっていた。
私たちのバスは、狭い352号線を避けて、
遥か遠回りの道を使っていたのだ。

この二つの村の明暗を分けたのは、発電所の位置だった。
奥只見ダムは新潟県と福島県の県境にあった。
しかし発電所は福島県側に数十m入っていた。
この数十mの差が決定的だった。

工事中に潤ったのは新潟県側だったが、工事が終わった後、
継続してお金が入るのは、発電所のある福島県の2つの町村
だった。只見町と檜枝岐村である。
村の中にあるといっても発電所と檜枝岐村は20km以上も
離れている。おまけに冬季は通行止めとなる。

ほとんど、生活に影響のない発電所から入ってくるお金で、
檜枝岐村の全戸は水洗トイレとなり、温泉も引かれた。

私が見た檜枝岐村の「明るさ」の源はここにあったのだ。


最後に、新潟に国道の多いのには驚いた。
細い1~2車線の道がなぜ国道352号線なのか。
その答は、田中角栄が教えてくれる。
田中角栄は、その知恵と権力で、村の道を県道に変え、
県道を国道に変えた。
なぜか。
国道はすべて国の費用で作る。地元は一円もいらないから。
田中角栄は、「雪は災害である」と言っていた。
国が、災害から地方を守るのは当然である。
災害援助=国道化だった。

同じ考えで出来たのが上越新幹線だ。

中央に集中する富を地方に再分配する必要性を彼は説き、
実際、強引に実行した。
建設省に予算を集め、巨額の公共事業を進め、資金を集め、
集票システムをつくり、以後の自民党の体質を作った。

田中角栄の進めた金権体質の悪しき継承者でもある
今の自民党が追い詰められてるのは歴史の必然だろう。

山旅は面白い。
それ以上に面白いのは、山里の人々の営みである。
今回の旅で得たものは大きかった。

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