北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「度を超している」ということ

2007-11-14 23:48:58 | Weblog
 今日も朝7時半からモーニングミーティング。朝6時前に起きて、6時33分の電車に乗ると、ちょうど7時半に新宿のデニーズに着くのです。

 朝のミーティングは始まるまでは眠いのですが、始まると話が盛り上がってしゃきっとしますね。

    ※    ※    ※    ※

 今日も話題は都会のまちづくりのお話。

 モーニングを食べながら外を眺めていると、通勤の人たちの列が目に映りますが、どの人たちも急ぎ足で回りを眺めている余裕などなさそうに見えます。

 それどころか、周りを見るということの楽しさや風景との一期一会を味わうということすらもう念頭にないかのようです。通勤が日々楽しい、なんて誰も思うわけはない、という気持ちになっているのでしょうね。

 参加者の一人のAさんがこう言いました。「僕は体育系なので、常に身体論でいろいろな物を見るわけです。そうすると、みんな行進をしながら街を歩いている。行進なんて、明治になってから西洋式の歩き方を兵隊にたたき込んで、それがいいんだ、という価値観を植えつけたわけですよね」

「なるほど、それまではナンバ歩きだったりとかしたわけですね」
「それもあるだろうけれど、要は歩き方の価値観なんか決まっていなかったわけですよ。日本語は『歩く』でも、英語にはwalkだけじゃありません。たとえばrambleという単語もあって、これは『そぞろ歩き』のようなことです。日本語は歩くというと行進のような歩き方しかもう価値観が無いように思ってしまっているのではないでしょうか」

私も、「確かにそうかも知れませんね。しかし行進のような歩き方を明治の初期に導入したときには確かにその意味があったと思うんです。近代軍隊を作り上げるにはそうするしかなかったわけですよね」
「それはそうでしょうね」

「そういう風に最初は良い価値観で導入されたはずなのに、いつしか『度を超している』ということがあるように思うんです。決して間違ってはいないのに度を超していることで、なにかフィットしなくなってしまっているのではないでしょうか。まちづくりも一緒です。新宿に高層ビルが建てられるという価値観はその前の状態から見ると画期的によいことだった。しかしどこかで同じようなスタイルのビルを建てすぎて、度を超しているのではないか、そういう反省があっても良いかもしれませんね」
「なるほどねえ。これは度を超しているということが分かるというのも身体感覚の問題ですね。食べ物を口に入れてみて、『あ、腐っている!』なんてことは、感覚が分からせているわけで、そういう感覚は自分自身で身につけないといけないんですから」

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 問題なのは、どの程度になると『度を超した』と思うのか、という感じる能力の問題なのかも知れません。それは多分練習によって身につけなくてはならないことなのです。

 それを身につける練習とは、やはり多くの現場を見ることでしょう。良いものも悪いものも見続けて行く中で、区別できる感覚がついてくるはず。

 問題は物事の性質にあるのではなく、度を超している程度にあるのだ、と思うと、世の中には結構そういうことが多いように思いますが、どうでしょうか。
コメント
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