北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

幸せな暮らし

2009-07-15 23:37:18 | Weblog
 外国のジョークに、「最高の暮らしとは日本人の妻を持ち、アメリカの家に住み、中国人のシェフを雇い、イギリスの給料で生活すること」

 一方最悪の暮らしとは「アメリカ人の妻を持ち、日本の家に住み、イギリス人のシェフを雇い、中国の給料で生活すること」というのがありました。

 中国の料理が美味しいことを表す言い方ですが、実は日本生活が長くなると中国人でも日本の食生活がたまらなく素晴らしく、中華料理よりも良くなってしまうというブログがありました。

 日本食って素晴らしい!


---------- 【以下引用】 ----------

レコードチャイナ <在日中国人のブログ>胃袋は正直に語る…日本食が不可欠な私の食生活
 http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=29186




     ※    ※    ※    ※    ※    ※    ※    ※

 日本に来て3年経つと、必ず花粉症になる。日本に来て10年経つと、日本の食生活から離れられなくなる。

 この話は来日したばかりのころ、先輩の在日中国人たちによく聞いた。日本食から離れられなくなるなんて?!と、とても信じられなかった覚えがある。

 留学1年目の冬休み、1年ぶりに帰国した。実家で母が作ってくれた家庭料理を、とんでもない速さで一掃した。姉はそんな私の様子を心配そうに見て、「とても先進国から帰ってきたと思えない、まるでアフリカかどこかの貧しい国から帰って来たようね」と言った。そのとき私はとくに反論もしなかったが、心の中で「中華料理に飽きるわけがないだろう!」と考えていた。来日当初は間違いなく、食生活にかなり苦労をした。日本食はいくら食べても、すぐお腹がすいてしまうのだ。

 知らず知らずのうち、10年の歳月が流れた。出張で中国に戻ると、わずか1週間ほどで中華料理に飽きてしまい、日本での食生活が恋しくなる私がいた。ここで私が言う日本食とは、懐石料理などの類ではなく、ごく庶民的なものだ。

 朝飯は駅近くの松屋でソーセージエッグ定食を頼みたい、ミニ豚皿の小鉢を選んで、半熟の目玉焼きと焼きノリを一緒にごはんにかけて、少しショウガをのせて、混ぜて食べたい。昼は会社近くの定食屋で、「私の定番」魚塩焼き定食を注文する。春はサワラ、夏はうなぎ、秋は秋刀魚、冬はサバ…もちろん、大根おろしと味噌汁も欠かせない。こうしてお昼の定食で、四季の変化を素直に味わうことができる。夜は同僚たちと仕事の話をしながら「とりあえずビール」、そして焼き鳥。特に少し焦げ目のついた鳥皮、あの香りがたまらない。帰りに小腹がすいたら満員電車から降りて、帰宅途中にある古いラーメン屋さんで、ネギのたっぷり入った豚骨ラーメンを1杯。これは1日よく頑張った自分への最高のご褒美だ。

 そんなことを妄想しているうちに、中国出張に同行している日本人の同僚は、マーボー豆腐をご飯にかけ、おいしそうに食べている。「本場のマーボー豆腐は日本の味と全然違うね!スパイスが効いていて日本人にはちょっと辛いけど、たまらないな!」と言う。

 さて、日本人が中国で10年生活するなら、中国の食生活から離れられなくなるのだろうか?彼のような人に聞いてみたい。それよりも何よりも、帰国したら成田空港でまっ先にザルそばを食べよう、私はそう心に決めた。(36歳男性/在日11年/技術者)  2009-03-05 12:20:34 配信

---------- 【引用ここまで】 ----------

 実は幸せな暮らしは、日本人の妻をもらい日本人のシェフの料理を食べることと言っても良いかもしれません。

 アメリカの家に住みたいですか?イギリスの給料は…、最近の欧州はサブプライムの打撃を大きく受けていますからね。

 なにもことさらに「世界一だ!」などと叫ばなくても、地元の酒や地元の産品を味わいながら、日本に生まれて良かった、と思うのです。

 好きになれば幸せになる国は日本です。 


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【特別編】 政党政治の終わり?

2009-07-15 00:09:11 | Weblog
 いよいよ衆議院の解散が決まってきたようです。来週の21日に解散で投票日は8月30日の日曜日になるのだとか。日本の運命はよく考えた一票で動かしましょうね。

 さて、東京都議会議員選挙を見ていても、民主党では告示の二日前に立候補を決めた候補が当選するなど、かつては見られなかった現象が起きました。

 個人が個人の力量で当選するのか、看板の力で当選するのか。果たしてちょっと流行ったマニフェストとは何だったのか。

 これを日本の政治の新しい姿と見るのか、それとも変質あるいは後退と見るのか、意見は様々だと思います。

 MSNのサイトに京都大学の佐伯先生の興味深い文章があったのでご紹介します。政党政治がつまらないとはどういうことなのか、考えさせられます。



---------- 【以下引用】 ----------

【日の蔭(かげ)りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 政党政治の終わり?
2009.7.12 03:15
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090712/stt0907120316000-n1.htm


 

    ※    ※    ※    ※    ※    ※    ※    ※

 もう40年ほど前、大学1年の時、ドイツ語の授業でマックス・ウェーバーの『職業としての政治』という本を読まされた。一通りの文法を終えただけで、どうしてこんな難解なドイツ語のテキストを、と無慈悲な教師を恨みつつ暗い教室で辞書と格闘していたのだが、今から思えば苦労して読んだかいがあったのかもしれない。というのも、今日の日本の政治を見ていると、つい、この書物でウェーバーが論じていた危惧(きぐ)を思いだすからである。

 第一次大戦後の混乱した世情を背景に、ドイツを代表する知識人であったウェーバーは学生に向けて「政治」や「政治家」というものについて講演を行った。それを活字に置き換えたのがこの書物である。ここでウェーバーは、ドイツの政党政治が行き詰まり、代わって、大衆的人気をもつデマゴーグ(大衆扇動家)や、信条の純粋さをもっぱら訴える若者たちの登場を、幾分の危惧をもって論じている。

 既成の政党政治は、人々の情緒や要求をそのまますくいとることはできない。だから、人々はカリスマ的指導者を待望するようになる。大衆の心をわしづかみにして大衆の支持を背負ってさっそうと登場するカリスマ的政治家の到来を人々は待ち望む。政党も選挙に勝つためにカリスマ指導者を求めようとする。この新しい政党指導者は、大衆に直接訴えかけるデマゴーグ以外にない。


 そこで究極の選択肢は次のふたつだという。カリスマ的政治家と機械のようなその追随者からなる「指導者民主政」か、カリスマ的要素をもたない職業政治家による「指導者なき民主政」か、の選択である。後者は、実際上、政党による派閥政治といってよい。

 ウェーバーも、この閉塞(へいそく)状態を打ち破るには、カリスマ的指導者の登場を期待する面がないわけではないように見える。しかし、それでも、ドイツの政治的風土に照らし合わせれば、後者の政党政治しか方向はないだろうという。

 カリスマ指導者とは、実際のところ「デマゴーグ」なのであり、「デマゴーグ」の登場は、これまで何度も繰り返されてきたように、民主政治を破壊するものなのである。


 政党政治の特徴は、政治家は、政党の中でかなりの年月にわたって仕事をし、実績を積み、そして周囲の承認があってはじめてそのトップの座につく、という手順を踏むことにある。この手順を踏む中で政策をかため、また調整能力を身につけてゆく。

 これは決して「面白い政治」でもなければ、「わかりやすい政治」でもない。面倒な手続きではあるが、人の上に立って人を動かす政治家を作り上げるにはいささか時間と手間がかかるのである。

 だが、大衆の支持を、ほとんど唯一の養分にして、バブル的人気によって急成長する即席のカリスマ指導者への一時的熱狂ほど、政治を不安定化してしまうものはないことを思えば、この「面白くなさ」は政党政治のコストだと見なさねばならないであろう。

 ところで、総選挙が近付いている。衆議院の任期がタイムリミットに近付いているため、与党にとってはやりたくもない選挙をやらざるをえないという奇妙な選挙であるが、さらに奇妙なことには、今回の選挙においては、大きな争点が全く存在しないのである。

                   ◇

 いや、正確にいえば、存在はするはずだ。経済危機以降の日本経済、安全保障、環境問題、雇用、教育など問題は山積している。にもかかわらず、それを争点にできないのが今回の選挙なのである。

 その結果、ほとんど唯一の争点は、政権交代の是非そのものになってしまった。政策が争点となった結果として政権交代が生じるのではなく、政権交代そのものが争点になってしまっている。

 いくら省エネの時代とはいえ、手順をここまで省略してしまうと政治の簡便化もはなはだしいが、別の見方をすれば、身もふたもなく、政権交代、すなわち権力の移行のみを争うというむき出しの政治が露呈してしまったともいえよう。


 権力のみを手繰り寄せることが目的となってしまうと、民主政治は必然的にデマゴーグを必要とする。政党も権力を手にするためにはデマゴーグを必要とするのである。ウェーバーなら「権力を手にするための悪魔との取引」とでもいうのであろうが、幸か不幸か、自民党が選挙に勝つために利用しようとしているデマゴーグが、せいぜい東国原宮崎県知事程度であるというのでは、「悪魔」にさえも失礼であろう。

 これはほとんど幕間の笑劇として一蹴(いっしゅう)したくもなるのだが、まさにこうしたところに、今日の日本の民主政と政党政治の質が露呈しているとなると、ただ、笑っておしまい、というわけにもいかないのである。

 大衆の支持を調達するためにデマゴーグや著名人をとりこんで権力を手繰り寄せようとする政治は、政党政治を破壊してしまうだろう。「悪魔」であれ、「小悪魔」であれ、「似非(えせ)悪魔」であれ、端的にいえば、「大衆的なもの」との安易な取引は、政党に活力を与えるどころか、政党から何か決定的なものを奪い取ってゆくだろう。

 NHKの大河ドラマ「天地人」で毎回のように連呼しているので、あまり言いたくはないのだが、しいていえば、それは「義」という言葉に通じるような何かである。政党とは、あることをなしとげるための信頼する人々の集まりだとすれば、政党政治を支える精神は、相互の「信」と「義」以外にはないだろうからである。(さえき けいし)


---------- 【引用ここまで】 ----------

 ここで言うデマゴーグとは「事実に反する虚偽の情報を用いる政治家。民衆扇動家。扇動政治家」といった意味。要するに何でもありで大衆の感情的な部分に火をつけられる人というような意味ですね。

 佐伯先生の「(政治の)『面白くなさ』は政党政治のコストだと見なさねばならない」というのは理性的な心理だとしても、それを面白くしようと言うマスコミの力によって、政治もどんどんドラマ化していきます。

 当選した人の爆発的な喜びと、落選した人の憔悴と涙。スポーツならば明日もあるけれど、次の選挙は数年先のこと。まさに生きるか死ぬかの死闘を格闘競技感覚でお茶の間で見られるのだからさぞたまらないでしょう。

    ※    ※    ※    ※

 私の尊敬する安岡正篤先生は、世の中のことは陰陽のバランスで考えなくてはならないとおっしゃっています。

 我々の知と情も、知は陽の原理で情は隠の原理。知は洋の東西で言うと西洋的に近いもので、世の中のことを分析的に分解して考える考え方で、それに対して情は東洋的で世の中の複雑に別れたものを内面的に統一して包み込み、大いなる創造を促すのです。

 そしてこれらを本源と派生で考えると、本源的な働きは人格そのもの、人間そのものの感情であり、理知はあくまでもそこから生まれる派生的な事柄にすぎません。

 ですから感情に訴えると、人全体を動かすことが出来るけれど、理知に訴えてもその人の一部しか動かせはしないのです。

 マニフェストなんていくら発表してみたところで、「だって可哀想だから投票してあげたわよ」なんておばちゃんの声が聞こえてきたら…あららら。


 さて、来る選挙では、我々は情の声を聞いているのか、理知の声を聞いているのか、そんなことも面白がりながら一票を投じてくださいね。 

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