森信三さんの『修身教授録』という本は実に熱い本で、心に火が着くような導きに充ちています。
元々は、ひょんなことから天王寺師範学校で哲学の教鞭をとる傍ら、講義時間が余るというので週に1時間ずつ、修身=道徳の講義を学生たちにすることになったもの。
元々教科書もないような講義のこと。毎回森信三さんがその日のテーマを黒板に書き、生徒たちに講義ノートを取らせたのですが、やがてその写しを森先生が恩師に見せたところ大いに感ずるところ多く、戦時中で紙のない時代だったにもかかわらず出版されることになったのでした。
講義ノートなので、森先生が話す内容に加えて生徒がその日の授業風景をメモする場面があり、そこにまたある種の臨場感を湧き立たせる趣きがあるのです。
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そんなある日の講義テーマが、『偉人のいろいろ』だったときの授業風景です。
講義の前に森先生が、「皆に読書か何かの感想文を書いてもらおうと思う」と言いました。そして級長のT君に「君はどう思いますか」と訊かれましたがT君は、「先生の講義の感想でも…」と答えました。
先生は「ハア」と少し考えておられましたが、「ではそうして戴きましょう」と言われ、一同はしばらくどよめきました。
さらに先生は「なおついでにノートも見せてもらいます」とおっしゃられ一同は目を見合わせます。
すると先生は「人間は常に誠実と見識との両方面から見ていくことが大切です」と言います。
しばらくしてクラスのK君が起立して「ノートも出すんですか」と尋ねる。
「そうです。もっとも君のような人は困るでしょうが」と笑われながら「君の様な人は感想の方が得意でしょう。しかし人間はまじめに黙ってコツコツやる人の努力を見ることも大切ですから」と笑われました。
一同が顔を見合わせていると、「もちろん偉い人は君のようでも良いのですが、また毎日コツコツと励んでいる人も見てやるべきです。毎日よくやっていると、たとえその人の素質はそれほどなくても、堅実な道が開かれます。そこで教師としては、どうしても才能と勤勉、まじめと見識という両方面を知らねばならぬのです。
世の中へ出ても、まじめでコツコツやっていれば間違いはないのですが、才能のある人は、うっかりすると踏み外しやすいのです。私が採点に当たっても、ただノートだけとか、または感想だけとしないのはそのためです。
私としては、諸君の在校中だけでなく、少なくとも諸君らが私の年頃になるまでは考えているつもりですが、しかし若い諸君にその気持ちを察せよと言っても、それは無理というものでしょう」
と言って、先生特有の微笑をせられた。
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いかがでしょう、感じるところが多くあるエピソードです。
森先生が生徒たちになにか感想文を書いてもらおうと思ったのは、生徒たちの学力、見識を計ろうとするものに違いありませんが、そのときに先生は生徒たちのノートも見せよ、と言います。
それは、『人間は常に誠実と見識との両方面から見ていくことが大切』だから、というわけで、頭の良い生徒だったら感想文などすぐにそれなりのものが書けるでしょうが、それだけでは普段まじめに授業を受けているかどうかがわかりません。
学力の結果だけではなく、そこにいたる過程もしっかりと見てあげるというこの両方の視点が教師としては必要なのだ、という価値観がそこにはあるのです。
今日企業などでも成果主義などと言って、成果さえ出せば人間性や努力の姿勢などは評価されないような風潮がありますが、我々が社会の中で暮らしていくときには成果、結果、ということだけではなく、そこにいたる努力の姿勢もちゃんと評価してあげることが必要だ、と言う言葉には実に説得力がありますね。
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そして最後に、『私としては、諸君の在校中だけでなく、少なくとも諸君らが私の年頃になるまでは考えているつもりですが…』という下りがあります。
森先生にとって"生徒たちの成長を見守る"ということは、自分の授業を受けている間だけのことではなく、生徒たちに影響を与えることで、より良い教師として活躍してもらうということまでを見守るということ。
このとき森先生は40代前半の頃ですが、自分と接している時期を終えてなお相手に影響を与えなくては、自分自身も生きている意味は半減する、という強い覚悟のほどがうかがえます。
言葉の端々に生徒たちへの愛情と同時に、君たちを確かな教師にせずにはおかない、と言う強い信念があります。
「修身教授録」 読めば読むほどに力の湧く本です。
この日のテーマの「偉人のいろいろ」についてはまた次回。