今月号の「致知」のなかに、書道の筆作りにまい進する、筆工房亀井代表の亀井正文さんの随想が掲載されていました。
工場でどんどん大量生産のモノができてくるこの工業時代に、なお手作りだからこそ求められる職人の一本があります。そんな亀井さんのお話をどうぞお読みください。
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筆の道一筋四十年。
私は明治時代から続く江戸筆工房の四代目として日夜筆作りに没頭しています。東京都の伝統工芸士に認定された平成十一年当時は、工房を構える東京・練馬区内にも十数名の筆職人がいましたが、今ではここが唯一の工房になりました。
手掛ける筆は年間約一万本、一千種類に及びます。使い手の要望に順応することを心掛け、その一つひとつが百パーセント手作り。
そうして手間隙をかけ、一本の筆が完成するまでに十年以上かかることも少なくありません。
近年は武田双雲さんなど日本の著名な書道家、海外の絵師にも愛用され、述べ二万五千人の方々にご注文いただきました。
いま心から思うのは、筆職人の仕事は、本当に良い仕事だということ。あくまで道具にすぎない筆に、使い手が墨を付け、その作品が評価された時や「亀井の筆は、やっぱり違うな」とお声をいただいた時の喜びは、何物にも代えがたいものがあり、大きな励みとなります。
とはいえ、私はこの道を好きで選んだわけではありませんでした。当時の花形といえば自動車業界。高校卒業後、私は自動車工場で板金工として働いていましたが、二十四歳の時に椎間板ヘルニアを患い手術。板金の仕事をあきらめざるを得なくなり、やむなく家業を手伝い始めたのがきっかけです。
当初は材料の動物毛特有の臭いで充満する職場や儲けが良いとは言い難い仕事を好きになれませんでした。しかし、続けていくうちに、その醍醐味に魅せられるようになっていったのでした。
筆職人は、決して一朝一夕で務まるものではなく、基本姿勢のあぐらで数時間座り続けることに三年、一つの工程を修得するにも五、六年はかかります。私は全三十工程をものにして独り立ちするまで、実に二十年の歳月を要しました。
(中略)
最も苦労したのは、四十歳から三年ほど営業の仕事に携わったことでした。筆作りを終えた夜七時頃から書道家の先生のお宅を何軒も訪問し、帰宅するのは深夜二、三時。翌朝九時には工房に入る。そういう生活の中で、数多くの忘れえぬ経験をさせていただきました。
「書き味が悪いから来てほしい」と電話があって駆け付けると、お弟子さんさえ入ることが許されない書斎で、実際に書くところを見せてくれました。筆の持ち方や書き方、癖を把握することで、改良すべき点が明確になり、技術の向上をもたらしてくれました。
その一方で私にはある危機感がありました。今はまだ父の看板で仕事をさせてもらっているけれども、もし父に何かあったら生活が立ち行かなくなってしまう。私は五十歳の時、未熟な自分に終止符を打つため、「五年間だけ離れさせてください」と直訴。父のアドバイスを得られない環境に身を置き、筆作りに打ち込んでいきました。
結果として四年目に、父は帰らぬ人となってしまいましたが、この時の経験が筆作りに対する自信や責任感を確立したことは間違いありません。
これまで経験してきたすべてのことは成長の糧だった。今心からそう思います。
自分自身の歩みを振り返り、また何人もの弟子を見てきて感じるのは、「器用な人間は職人に向かない。不器用な人間こそ伸びる」ということです。
器用な人間は無難にこなせるため、始めのうちは早く成長します。ところが、苦労を経験していないから応用が利かずに途中で止まってしまう。一方、不器用な人間はなかなかものになりませんから、「何とかしよう」と努力する。
やはり苦労して苦労して積み上がっていった人間の方が良い仕事をするのです。
「筆作りに満点はない」というのが私の持論です。六十六歳になったいまもなお、百点だと思った筆は一本もありません。どんなによくても九十五点だと思っています。
なぜなら、筆は使い手が愛用していく中で書き味が良くなり、育っていくものだからです。
ゆえに、自分自身の枠にとらわれず、いかに使い手の思いに応ずることができるか。それが筆作りにおいて大切なことだと考えています。
先人が遺してくれた古き良き日本の技術を守り、柔軟に新たな形を取り入れるーこの不易流行の精神を貫いて、五十年、百年先にも続く伝統の道を切り拓いてまいります。