私はもう20年位前から、胸に名刺サイズの大きな名札をつけて歩いています。
このことに関しては以前に『名札は大きい方が良い』というタイトルのブログを書いたことがあります。(2016年10月13日付ブログ http://bit.ly/2QwwMqF)
これは、一度名刺を交換したくらいの方の名前がなかなか思い出せなかったことから、(これは、相手の方も私の名前を憶えていないに違いない)と思ったからでした。
そして胸に付ける名札は、文字を大きくし、固いプラスチックで作り、胸にクリップで留めることにして、見やすさを確保しました。
で、これを見せると多くの方が、「いいですねえ、それ」と賛同してくれるのですが、「私もやりました」という方がほとんどいません。
"ほとんど"と言ったのは、過去に二人だけ実際にそれをまねてくれた方がいたからです。
今日は、旭川での新年交礼会に招かれたので、日帰りで旭川に行ってきましたが、その真似てくれた一人に、今日の会合で会うことができました。
「あなたは、僕の名札を真似た二人のうちの最初の人なんですよ」と言ったところ、「うわー、あの話を聞いたときは『本当に良い話だ』と思って、自分も始めたんですが、転勤する中で続かなくなってしまいました」とちょっと申し訳なさそうです。
「良いと思って始めたけれど、続かないのはなぜなんでしょうね」と訊いてみると、「やっぱり気持ちが続かなかったように思います。心の底で本当に良いと思っていなかったのかなあ」と当時のことを振り返っていました。
それを聞いて気が付いたのは、このことが、『自分のことを目立たせるため』にやっていたのではないか、ということです。
自分のためという目的でやっていると、そのことに自分自身が疲れてしまったり飽きてしまうと、いつしかやらなくなっても、(もういいや)と思う気持ちが出てきがちです。
私の場合は、この名札は自分の名前を目立たせるだけではなく、自分の名前が思い出せずにいて苦しんでいる相手に対する思いやりの一つだと気が付いたことから、恥ずかしさがなくなり、それとともに、名札をつけることの意義が心に刻まれました。
なので、名札を付けた方が良いと心底思えるようになれたので、続けていられるのだと思うのです。
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「自反尽己(じはんじんこ)」という言葉があります。
「自らに返り、己を尽くす」という意味ですが、かみ砕いていえば、「うまくいったときは、おかげさま。うまくいかなかったときは、身から出た錆」ということ。
自分の名前を憶えてくれないことは、相手が悪いのではなく、自分のやり方がまずかったからです。
そう思えば、名前くらいちゃんと読んでもらうために何ができるかを考えて実践すれば良いだけでした。
この言葉を知ったのは、名札をつけるようになったずっと後のことでしたが、振り返るとそういうことでした。
世の中の真理って、何かつながっているように思います。