今日は帯広方面への出張。
コロナもだいぶ収まってきたことを受けて支店長とともに、業界の関係者へあいさつ回りの再開です。
ある会社へ行ったところ、アポを取った社長さんがまだ出かけた先から戻っておらず、営業課長さんが対応してくれました。
ところがその課長さんが支店長を見るなり、「〇〇さん、お久しぶりです、覚えていただいていますか!」と声をかけてくれました。
聞けば、もう20年ほども前に冬期に本州へ越冬で渡った際に支店長のいる職場で働いていたのだそう。
実は北海道では、冬期の積雪で工事ができなくなる季節には、「越冬」と称して技術者や作業員を本州へ出稼ぎのような形で送り出し、仕事をさせてもらうという事がよくあります。
北海道では仕事のない技術者を本州で働いてもらうと同時に、年度末で忙しい本州企業にしてみれば応援部隊として大いに手伝ってもらえるという双方にとってウィン―ウィンな関係です。
声をかけられた支店長の方は当時を思い出しながら、「ああ、いたかなあ」とおぼろげな記憶を引っ張り出しつつ、「当時は△△さんや◆◆さんがいました」という先方の記憶から「ああ、あのときだね」と段々焦点が絞られてゆきます。
「当時は越冬の最後に温泉に連れて行っていただき、飲んで遊んだのを今でも覚えています」
「そういえばあの頃は、残業もさせ放題だったけれど最後は職員も応援部隊も同じチームメイトの感覚で働いていたもんなあ」と支店長も懐かしそう。
そもそもそのときの記憶が忌まわしいものであれば、このような形で声をかけてくれることもなかったでしょう。
本州企業で現場を経験しながら高い技術力を目の当たりにすることで地力をつけてふるさとで活躍するという人は多かったはずです。
「こんなところで会えるとはねえ、また何かあれば今度はこちらもお世話になりますよ」と笑いながら会話が弾みました。
旧交が再開するのは楽しいものです。
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折角帯広へ来たのだから、ということであいさつの最後に帯広市役所を訪ねて米沢市長さんのアポをいただいてお会いをしてきました。
実は米沢市長さんとは、私が釧路の副市長をしていたときにある会合で一緒になり、話の中で「僕が帯広市長に立候補しようと思ったのは、掛川の榛村純一さんの本を読んだことが一つのきっかけだったんです」ということをおっしゃられました。
米沢市長さんは「その榛村さんの本には、これからのリーダーは三つの故郷を持つべきだ、と書かれていました。曰く、生まれ落ちた田舎の故郷、猥雑な集積のある都会と言う故郷、そして海外の異質な故郷の三つです、と書かれていたのですが、それを読んだときに、(これはまさに自分のことではないか)というインスピレーションが湧いて、勢いで故郷帯広市の市長選に立候補したというわけなんです」と言うのです。
ところが市長に当選した後もまだ榛村さんには直接お会いしたことがないのだと。
そこでその場で私が榛村さんに電話をして、「今目の前に榛村さんに感化された帯広市長さんがいるのですが」と米沢市長さんをご紹介した、と言う次第。
「お陰様でその後榛村さんは二度ほど帯広市を訪れてくださってお会いすることができました。亡くなられたのは実に残念ですが、小松さんにご紹介いただけたことでご縁が繋がりました」と大いに感謝されたのでした。
米沢市長さんからは、「初めての選挙の時も、それまでの人生でご縁があった多くの人から、陰に日向に応援をしていただいて今があります。その場その場を『立つ鳥跡を濁さず』で過ごしてきた良かったなあ、と本当に思いましたよ(笑)」と、ここでも瞬間瞬間を誠実に生きることの意味を教えていただきました。
昔の悪行を取り返すことはできません。
今を一生懸命誠実に生きることが、長い目で見たときの成功の秘訣だという事を改めて感じた一日となりました。
私たちは「今」をどう生きるかが問われています。
榛村さんの話題に触れることができたことも嬉しい時間でした。