昨日は月に一度の報徳の学習会。
毎回お一人から話題提供を受けて1時間ほどを過ごしますが、今日の話題は「関寛斎を支えた濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)から学ぶ生き方と報徳」です。
関寛斎については、晩年に北海道の陸別町に入植し開拓に尽力した地域の偉人として、道の駅陸別には顕彰コーナーがあってなんとなくその名前を知っていました。
しかし改めて今回お話を聞いて、北海道に来たのは本当に晩年で、若かりし頃から当時の医者として格別の活躍をされた方だとは知りませんでした。
しかしその関寛斎の才能を若い頃から見出してとてつもなくバックアップした偉人がいたのです。
それが今日の話題となった豪商濱口梧陵です。
濱口梧陵は、醤油醸造業の家系の七代目で、醸造業は現在ヤマサ醤油として現在に至ります。
ちなみにヤマサ醤油の屋号には山を表す「ひと・にんべん・ひとやね」の下にカタカナの「サ」が描かれていますが、「ひと・にんべん・ひとやね」の右上に「上」という感じが小さく書かれています。
これは今日の説明では、江戸時代に物価が高騰した1860(元治元)年に醤油も値上げしたかったのですが幕府はそれを認めず、代わりに「特に優れた品質の醤油の証」である「最上醤油」の称号を得たことから「上」という字を使うことになったのだとか。
屋号にも歴史あり、ですね。
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さて、関寛斎は現在の千葉県東金市の生まれで、若くして母を亡くし儒家関俊輔に養育されて彼の薫陶を受け、後に佐倉順天堂に入門し、蘭医学を学びます。
26歳の時に銚子市で開業し、28歳の時に長崎で発生したコレラが江戸にも侵入、銚子での蔓延をなんとか防いだこの年、濱口梧陵は関に100両(現在の約1000万円)を与えて長崎で蘭医学を学ばせました。
代々続く醤油やとして商売を繁盛させつつ、一たび人を見込めば私財をなげうってとことん支援し、福沢諭吉や勝海舟などとも交流のある一流の知識人でした。
彼のエピソードで有名なのが「稲むらの火」の物語の元になった、安政の大地震による津波の際の行動です。
彼はその時和歌山県広村(現在の広川町)の町なかにいましたが、津波が押し寄せた際に稲わらに火を着けて津波に襲われる村民に逃げ場所を示して多くを救いました。
また被災した農地を買い受けて津波堤防を作り村民への私財による公共事業を行いつつ、後の津波への備えを準備するということも行っています。
この話をラフカディオ・ハーンが聞き及び、「リビング・ゴッド(生き神様)」という物語を英語で書き世界に発信しました。
このような偉人がいたことを私たちは日本人として誇りに思います。
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さて、彼の事績を顕彰するために広川町では「稲むらの火の館」という施設を作り、濱口梧陵の功績を讃えるとともに、津波防災の大切さを訴えています。
実は私は2014年2月に和歌山の熊野古道を訪ねた際にこちらの建物に立ち寄っていて、当時のことをブログにも書いていたのでした。
お話の中で濱口梧陵という名前を聞いて、(どこかで聞いたことがあったなあ)と思っていたのですが、「稲むらの火の話の元になった人」と聞いてようやく思い出しました。
濱口梧陵は直接報徳とは関わりがあったわけではありませんが、商売で儲けたお金も人材の育成のために推譲し、いざというときの行動力にも素晴らしいものがある。
学びと実践を通じて、少しでも梧陵や二宮尊徳のような偉人に近づくことを目指したいと思うのでした。
大変勉強になりました。