今回の掛川訪問では、空いた時間でできるだけ多くの友人・知人を訪ねて現在の地方都市の現状を知りたいと思いました。
そんな中、健康福祉関係に取り組んでいる友人にも会えました。
そこで私はかねてから思っていたことを彼にぶつけました。
それは「支援・介護における人材不足を、まだ頭も体も動く高齢者に担っていただく社会制度ができないか」ということです。
高齢化がいよいよ進み、その一方で介護や支援に携わる人材や担い手が不足してゆくことが懸念されています。
その一方で、まだ体が動くし頭もしっかりしている高齢者も増えてゆくはず。
それなのに、支援や介護に携わる人材を若者だけに頼るとその年代の人たちはどんどん数が減って支えきれなくなるのではないか。
もちろんその担い手不足の問題は私が関わっている道路などの社会インフラについてもいえることなのです。
しかし社会インフラを維持するとなるとそこはやはり年寄りとなるとちょっと出番が難しい。
その一方で、介護などの福祉面では資格や経験の必要なコアでハードな業務は別として、その周辺にもう少し簡単な資格や練度の高いボランティアなどが支えられる領域があるのではないか。
そうしたまだ動ける高齢者たちに一定の役割を担ってもらってはどうか、という考えです。
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以前からそういう話を周りにしていると、「はは、すでに自分は老老介護の真っ最中ですよ」という友人がいます。
ポイントの一つは、その老老介護を家庭内の問題だけに留めずそうした経験者ならなお一層のこと、社会全体でそのノウハウを社会に還元して介護支援福祉の世界をより多くの人たちで支えるという事にした方が良いのではないか、というものです。
具体的には、70歳以上の高齢者がターゲット。
これからの日本社会では年金制度を維持するために、働く人たちの定年は事実上70歳くらいまで伸びるでしょう。
その歳までは社会の中で労働力を提供して給料をもらってできるだけ年金に頼らない人たちを増やしてゆく社会を目指しています。
しかしさすがに70歳ともなるともうそうした毎日通勤などの労働形態からは離れてゆくことになる。
その70歳からの人生の時間のいくばくかを自分たちよりも10~20歳年上の世代の介護や支援のために使うようにしましょう、それを社会の制度として整えましょうよ、というものです。
そのためにはおそらく60歳代の後半から介護や福祉の世界に少しずつ関わるようなトレーニング(具体にどのようなものかは私にはわかりません)を行う必要がある。
そして一定のスキルを身に着けたところで70歳から80歳くらいまでときどきで良いので自分たちがやれる範囲で80歳~100歳のお年寄りの世話をする。
そうして自分たちの体がいよいよ動かなくなったら、今度はお世話をしてもらう側になる。
そのときには少しはアルバイト料があっても良いし、自分たちがやってあげられる時間をシェアしながら交代で時間を割り付けることも必要でしょう。
そしてそうやって年寄りのお世話を、なんとかして少し年齢の若い年寄りが買って出ることを支援するシステムをつくることが「老老介護の社会化」となるわけです。
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ここで期待されることは、まず担い手不足をこれから増えてゆく年寄りに参加してもらうことで不足から充足に切り替えてゆくことができるのではないか、ということ。
私自身は、若者の多くを未来を切り開くような創造性があまり期待されない介護のような現場に置くのではなく、もっと若さが必要な世界にいてほしいと思っていて、そのためにこそ年寄りが支えてあげるべきだとも思っています。
次に、それに参加した人たちはその経験の中で「お世話になるならあんな人の姿が立派だな」とか、「お世話をしてもらっているのにあんな態度やものの言い方はないな」といった、お世話を受ける側のモラルや態度への理解が深まるのではないか、ということ。
さらには、実際に力を発揮している若い人たちと世話になる年寄りとの間に入って双方のコミュニケーションのクッションになってあげることも期待されます。
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これが私の考える「老々介護の社会化」なのですが、こんな夢物語を語ったところ、福祉にいた友人は「そんなことができるのか」と押し黙ってしまいました。
私からは「まずは僕みたいな素人考えはアリかナシかを考えてみてくださいよ。そのうえでもしもアリだとしたら、それをするにはどんな問題があるかをあぶり出して、その一つ一つはどうやったら乗り越えられるのかを考えてみてください」と伝えておきました。
さてこの自分と友人への宿題は、行政マンならどんな答えが返ってくるでしょうか。
私自身も未来のどこかで介護福祉の世界の勉強を始めなくてはいけないな、と思いつつ、さてどこにどんな形でアプローチすればよいかはまだ行動が起こせていません。
生涯学習は一生のテーマです。
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