北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

転勤生活が楽しくなるコツと考え方

2014-08-21 23:45:19 | Weblog

 転勤生活が多く、いくつもの地方都市に住んだことがありますが、それなりの役職になって、地域の人たちの支持と共感を得なくてはやっていけないな、と感じたのは、長野県松本市で、国営アルプスあづみの公園の事務所長になったときでした。

 そもそも長野県というところは、県民性として「勤勉、頑な、本物でなくては信じない」というような傾向が強いところだと感じました。

 そういう場所では、「国の公園の事務所長でござい」と言ったところで、役職ではなくその「人となり」をじっくりと見られます。おべっかは使ってこないし、こちらがおべっかを使ったところで何の役にも立ちません。その人が本物かどうかだけを冷徹に見抜かれてしまうのです。

 そんな場所では会話の中で「信州は良いところですね」と言ったりすると、「ほう、どこが良いですか?」と質問が返ってきます。

 そのときに言葉に詰まるようでは単におべっかをいったことにしかなりません。

「いや、蕎麦が美味しいでしょう」と言うと、「ほう、ではどこの蕎麦屋が美味しいとお思いですか」と来る。

 それに確たる自信がなく、思いつくままに「○○屋なんていいですよね」などと適当に答えたりすると、「あの蕎麦屋を美味しいと思っておられるようではだめですね」と言われます。

 褒める言葉ひとつ発するのにも、相当の覚悟と自信を持って言わなくては誠の心があるとは言えないのです。


       ◆  


 さてさて、こういう人たちの共感と信頼を真に得るためには、信州の良いところが自分の中でちゃんと"腹落ち"して、納得してなぜ良いかを説明できるくらいにならないといけないと思いました。

 そのときのポイントは、地元の人たちが誇りに思い自慢に思っているものに対してそれを敬いそれにこちらが共感することです。

 では松本市周辺の安曇野の人たちの誇りと自慢とはなにか、と観察を続けていると、どうやらそれが「蕎麦」と「北アルプス」であるということが分かってきました。

 それが分かったのなら、こちらもそれに徹底してのめり込むことです。

 そこで信州の中で「蕎麦屋さんを百軒巡る」という志を立てて、まあ蕎麦屋さんを訪ね歩いて食べ歩きました。結局2年間で百と五軒に達したのですが、さすがにその過程で四~五十軒くらい美味しいと言われる蕎麦屋さんを巡ってみると、蕎麦が美味しいとはどういうことなのかが感覚として分かってきます。

 そして、「あそこは行きましたか?」と言われるような蕎麦屋にも大抵「はい、行きました。あそこは美味いし、これこれこういうところがいいですね」と確信を持った答えを出せるようになります。

 蕎麦だけでもそれくらいになっているとこちらも自信を持って会話ができるようになり、周りからも「この人はどうやら本気だ」という目で見られるようになり、その後のやりとりがとてもスムースになりました。

 もちろん北アルプスは登山もし、槍ヶ岳の山頂にも上ってきました。一度登っておきさえすれば、経験談として語れるので山の会話にもついて行くことができます。

 つまり、そのような地域をリスペクトして、だからこそわが身を没入させるような時間を過ごさなくてはなりません。

 そして自分の経験値を上げそれがまた楽しいとか、自分自身の喜びに繋がっている、という生き方をしなくては人は決して信頼してくれることはないのだ、ということを私は信州安曇野で学びました。

 
「Trust me.=どうぞ信頼してください」と口でいうことほど世の中をなめた言葉はありません。信頼に足る自分になれたなら、信頼は自動的に集まってくるものです。
 もし信頼されないのならそれはまだ自分が未熟だからだと内省しなくてはいけない。

 
 こういうことが「なるほど」と自分の中に"腹落ち"して実践できれば転勤生活が多くてもその人の人生は幸せに満ちることでしょう。

 そしてそれが分からなかったり、分かったとしても実践できなくては移り変わる生活は苦労が多いものになるに違いありません。

 転勤生活が多い方が人生を楽しむちょっとしたコツのご紹介でした。
 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国のために働きませんか

2014-08-20 23:22:55 | Weblog

 今日は国家公務員試験の合格者発表の日。

 合格発表と同日の今日は採用希望者に対する面接試験が行われました。

 事前に官庁訪問を重ねて職場の話を聞きに来て意欲たっぷりの受験者がいる一方で、採用枠がありながら道内での合格者が採用予定者よりも少ない職種もあります。

 国家公務員は削減方針が進められていて、ここ何年もの間ほとんど採用がありませんでした。そのため工学系の大学では、公務員を目指す学生がほとんどいないという有様。

 身近に話を聞けるような歳の近い先輩などと言う人もほとんどいないために、後輩に声をかけたりすることもできなければ、学生さんも先輩の話を聞くという機会はほとんどありませんでした。

 我々自身も、採用がないのに「公務員試験を受験しませんか」と宣伝もできず、大学との関係が切れてしまっているという印象です。

       ◆   

 そんな中、特に今年は「女性の採用を意識するように」という方針が打ち出され、一定の割合の女性を採用する努力が重ねられています。

 しかしそもそも理系の技術職では合格者の中に女性の割合が少ないため、採用には例年とは違った苦労が伴います。

 やっとのことで合格者名簿が昼頃に届けられ、まずはこの中から女性の合格者に対してわが組織に就職しませんか、というリクルートのための電話をかけることにしましたが、名簿には性別の記載はありません。

 もともと性別で差別をしないという趣旨なのかもしれませんが、一定の割合で女性を採用するということになると、相手が女性かどうかが分からないと連絡を取るのも結構面倒です。

「この名前って男性か女性かどっちだと思います?」
「んー…、どっちだろう?」

 男女のどちらにも使っておかしくないような名前の人もいて、苦労しています。

 若者が減る中で、どの企業も組織も採用数を確保するのに必死ですが、特に転勤が伴う国の公務員はあまり人気がありません。

 地域を巡って見聞を広めることができるという意味では人生経験が広がりますが、子育てができるように配慮されるのか不安に思う受験者は多いよう。
 
 採用担当者の胃が痛む日々が続きます。 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

精神の鍛練は肉体的なものが足場になるというお話

2014-08-19 22:45:02 | Weblog

 先日、子供たちに対してちょっとした指導的な活動をしている知人に会いました。

 その人が悩んでいたのは、「最近は子供たちに『ゴミを拾いなさい』と言うと、『なんで?』という質問が返ってくるんです。それに対して一体どう言ったらいいんでしょう?」ということ。

 指導する側とされる側の立場が分かっていない、ということもあるのでしょうが、こういう素朴な質問に対してまともに答えなくてはいけない時代になったようです。

 私からは、「私だったら『いいからお拾いなさい。今は意味が分からなくても続けていたらずっと後になって分かるようになりますよ。だから頭で考えるのではなく、ゴミが落ちていたら拾って捨てるということを体で覚えるようにしなさいね』と言うでしょうね」
「それで通じますかね」

「頭で理解できたからやるというのではないんです。物心がつく前から体が覚えているという状態にさせることが大切なんです。体が先に鍛えられることで、精神が後からついてくるということがあるということを信じることですね」

 何かをさせるときに、その意味をしっかり伝えてやらせる、という考え方もありますが、現実には理解できなくてもとにかくやり続けることでその意味が理解できてくるということがあるのです。


       ◆   


 森信三先生は「修身教授録」のなかで、学生たちに、「君たちは『暑い』、『寒い』ということを言うべきでない」と言っています。

 人間はこの「暑い」「寒い」と言わなくなったら、そしてそれを貫いて行ったとしたら、やがては順逆を越える境地にもいたると言ってよい。
 それは逆境にあってもへこたれないことを目指しているわけですが、ただ言わないだけではやせ我慢の域かもしれない。
 
 しかし人間は、最初はやせ我慢から出発する外はなく、やがて真に順逆を越える境地に達すれば、「暑い」「寒い」だのと言わないことがただのやせ我慢ではなくなるものだ。

 総じて精神的な鍛練というものは、肉体的なものを足場にしてでなくては本当は入りにくいものなのだ。

 そう言って、そのうえで森先生は「武道家を名乗るのだったら、武道をしていないときの態度に気をつけなくてはいけない」と言います。

「武道を行うということは道場以外の場所での精神的な緊張に気を遣わなくてはならず、それがないままただ技が上手だというのでは単なる軽業師であり、武道家ではなく武術家と言った方が良い」というのです。


       ◆    


 我々自身の行動に照らしてみると、仕事でも趣味でも「道」を究めるようになるということは、技術が備わるということはもちろん、それを精神的な充実につなげなくてはなりません。

 そのためにも先に体を動かす、体が先に動いているということを大事にし、そして甘えのない頑強な精神を鍛え上げたいものですね。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

情報の洪水にも備えが必要

2014-08-18 23:45:24 | Weblog

 

 長期に休むと、職場のメールが大量にたまっています。

 ICT技術のお陰で情報が伝達しやすくなったのは良いのですが、何でもかんでも送っておけばよい、という考えで『保険をかけておく』と言った気持ちで、とりあえず連絡しておくという内容の情報も多くなりました。

 「一応送っておくけど、読まないとすればそれは読まないあなたが悪いんですからね」と言われているようで、一生懸命にメールを開きますが、実感として、重要な情報はほんの一部にとどまります。

 伝達が難しければ組織の下の方で自主的に判断して、本当に大事な情報だけが上がって行くことになるのですが、今はそれが簡単に伝達できるので、情報も玉石混淆状態です。

 部下にとってみれば、情報を正しく全て上げるのが正しい行動なのか、それとも適切に取捨選択して大事と思うものだけ上げるのが良いか、に迷うもの。

 良かれ、と思って取捨選択したところ、「判断が悪い、全部あげろ」と言われたらやる気もなくなってしまい、「じゃあ全部あげますね」ということになり結局そう指示した上司の負担になってしまいます。

 情報を挙げる選択の仕方には王道はないので、常に臨機に判断するしかありません。その判断力もまた実践で身につけるべき社会でのスキルということになるのでしょうが。


      ◆  


 情報はただ上げればよいというものではない、というのは特に非常時に表れます。

 防災を担当する部所は、平時は暇そうに見えますが一旦災害が訪れると、あらゆる情報が集中してきてしばしばオーバーフロー状態になります。

 それなのに、平時の仕事ぶりをみて「これも防災担当がやるべきだ」、「当然これも防災担当が判断して支持すべきだ」という、「べき論」で仕事が増えてゆきますが、非常時にはそれらはすべてオーバーフロー情報になりさがります。

 中枢にいるほど、真に大切なことからしか処理できないので、いざというときには、「この分野の情報処理はここに任せる」という緊急避難を想定した体制を平時において作っておくべきです。

 しばしばそれは、実際に災害が起きて情報洪水に忙殺されてみないと分からないことなのですが、そうした経験を積むことで、情報処理と対処方針作成などを切り離せるようなオペレーションが可能になって行くことでしょう。

 災害や不幸が訪れないに越したことはありませんが、そうしたことに立ち向かって反省を繰り返すことなしには得られないことも多いのです。

 苦しみや悩みこそ、正しく立ち向かうことで人生の階段を一段上げてくれる機会だととらえるべき。ストレスは耐性を養います。

 人生、順風満帆だけが幸せなわけではありませんね。 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まずは見ることですね ~ 道具の手入れも趣味

2014-08-17 23:56:27 | Weblog

 一日中、夏休みの間に使った道具の手入れをしました。

 車も汚れたのを洗いましたが、特にこの時期は走行中に虫がぶつかってきて車体を汚します。

 それらも洗剤などで落としてワックス掛けからタイヤ、ホイール磨きまでやってピカピカ。達成感がありますね。

 昨日川で転倒して水の入ったウェイダーは洗って干しますが、撥水加工が落ちかけているのを撥水剤で手入れ。午後には濡れた靴の中もちゃんと乾いていました。

 釣りの道具もリールやラインの手入れをして、足りないフライを2、3個追加製作。

 もうへたってしまったフライは飾りつけを取ってフックは再利用です。
 

       ◆ 

 

 根が凝り性なので趣味にも没頭しますが、一たび思い立つとメンテナンス用の道具を手に入れずにはおれません。

 特に私の場合、化学製品の効能を説明されるともうたまらずすぐに買ってしまい、妻に叱られています。

 ふと周りを見回すと、確かに車の手入れでも釣り道具の手入れでも、役に立ちそうな手入れ用剤がずいぶんと揃っています。

 そしてそんな製品も使ってみると良し悪しが分かってきて、良いのは良いなりに、ダメなものはダメなりに手入れの経験を積むことに。

 道具の手入れもまじめに取り組んでみると、それらが綺麗になるという自己満足が満たされるので、一つの趣味の世界と言えるかもしれません。

 私が推奨するお掃除の世界もそれに通じるものがありますね。

 ちょっとしたモノでも、たまにはまじまじと見てあげることが大切なんだと思います。見てみて汚れていたり調子が悪ければ治してあげる。

 調子が悪い道具は誰かが治してあげない限り、自動的には治りません。

 「見る」ということはその後の対応の全てを決める最初の行動です。見た時にそれをちゃんと「観る」ことや「診る」ことに繋げないとね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これぞ夏休み~水と戯れた一日

2014-08-16 22:59:41 | Weblog

 今年の夏季休暇は夏らしいことをしていないなあ、と思っていたので、今日は白老方面へ釣りに行ってきました。

 まずは別々川というところへ行き、日本の滝百選にも選ばれた「インクラの滝」を見てこようと思ったのですが、なんと去る8月7日の地震のために途中の道が崩落し、現在は通行止めとのこと。

 遠くからはるかに滝の落ち口だけが見えましたが、いつかリベンジしたいと思います。

 また、「インクラの滝」なんて随分不思議な名前です。アイヌ語だとしたらどういう意味か、と思ったら、なんとこの滝の名前については、「地元の人は、昭和初期まで『別々の滝』と呼んでいましたが、 木材を運ぶ『インクライン』があったことから『インクラの滝』となりました」(白老町観光協会ホームページより)とのこと。なあんだ、日本語だったんですね。

 また「別々の滝」というのは、この川の名前が別々川という川だからだと思います。語源はアイヌ語の「ペツ・ペツ(川・川)」で、特に下流域が蛇行していて川がたくさんあるようなイメージです。


    ◆   


 さて、滝をあきらめて向かったのは、ヤマベがたくさんいることで知られている川。

 川幅も十分にあって竿を振るには良いのですが、それだけに人もたくさん入っていて、見ているとエサ釣り師もいるようです。そのせいかヤマベも数はいるものの小さいものばかり。

 ヤマベは特に動きがすばやくて、フライを食ったかと思うとすぐに虫ではないことに気が付いて離れてしまいます。

 フライを投げれば4~5回に一回は反応して食いに来るのですが、いわゆるアタリのその瞬間に魚が放すより早くこちらが反応することができません。

 おまけに、川原を上流へと遡上しながらポイントを探していたところ、乗り上げた石が大きく動いてバランスを失い背中から大転倒をしてしまいました。

 視界がスローモーションで動く中でも頭の中は、「竿を折らないように転ばなくちゃ」ということ。転んだ自分も、自分の体よりも竿が気になるというのはびっくりです。

 転倒の方は見事に背中から転んで、シャツはびしょ濡れでさらにウェイダーの中にまで水が入る始末。一応脱いで靴の部分の水は出しましたが、そこから先は左足が気持ち悪い状況での釣りとなりました。まさに水と戯れた一日です。

 結果は私が5匹で妻が1匹、最大で12センチのヤマベという程度。しかし釣果はともかく、ひんやりした水の中で一日を過ごし、ヤマベに存分に遊んでもらえた一日が過ごせて大満足。

 小学生だったら良い絵日記が描けたことでしょう。夏休みらしい一日でした。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰省が終わると夏も終わる

2014-08-15 23:45:43 | Weblog

 我が家へ帰省していた次女が東京へと帰って行きました。

 一週間前に帰ってきていて、旅行や墓参りなどの予定をこなすと一週間などあっという間に過ぎてゆきます。

「一人でいると、まだ水曜日か~と思うけど、皆といると一週間なんてすぐに過ぎちゃうよ」そう言い残して娘は空港行きの電車に乗って行きました。

 ふと暦を見ると、8月ももう半ばになり小中学生の夏休みも残り少な。

 子供の時の夏休みも早かったけれど、大人になっても夏休みは早いものです。

 おまけに、子供の時の夏休みって案外覚えているものですが、大人になってからの夏休みはその年に何をしたかなんてほとんど覚えているまもなく過ぎてゆきます。

 「人生は二度ない。やりたいことがあったら今このときにやっておいた方が良い」なんて、子供の時からよく説教されていましたが、そのことが身にしみてわかるようになる時にはもう人生も半ばを過ぎてしまっているのですね。


       ◆  


 二歳になった孫の成長を見ながら、わが娘たちの2歳の時をどう過ごしたかを思い出していました。

「今を覚えておかないと、すぐに忘れちゃうよ」というのは、実感のこもった娘夫婦へのアドバイス。

 吹く風もすっかり涼しくなり、ひと夏が過ぎようとしています。
 
 今年の休みは天候に恵まれずにキャンプを断念。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人は誠実と見識の両方面で見よ~「修身教授録」より

2014-08-14 23:45:12 | Weblog

 森信三さんの『修身教授録』という本は実に熱い本で、心に火が着くような導きに充ちています。

 元々は、ひょんなことから天王寺師範学校で哲学の教鞭をとる傍ら、講義時間が余るというので週に1時間ずつ、修身=道徳の講義を学生たちにすることになったもの。

 元々教科書もないような講義のこと。毎回森信三さんがその日のテーマを黒板に書き、生徒たちに講義ノートを取らせたのですが、やがてその写しを森先生が恩師に見せたところ大いに感ずるところ多く、戦時中で紙のない時代だったにもかかわらず出版されることになったのでした。

 講義ノートなので、森先生が話す内容に加えて生徒がその日の授業風景をメモする場面があり、そこにまたある種の臨場感を湧き立たせる趣きがあるのです。


       ◆   


 そんなある日の講義テーマが、『偉人のいろいろ』だったときの授業風景です。

 講義の前に森先生が、「皆に読書か何かの感想文を書いてもらおうと思う」と言いました。そして級長のT君に「君はどう思いますか」と訊かれましたがT君は、「先生の講義の感想でも…」と答えました。

 先生は「ハア」と少し考えておられましたが、「ではそうして戴きましょう」と言われ、一同はしばらくどよめきました。
 さらに先生は「なおついでにノートも見せてもらいます」とおっしゃられ一同は目を見合わせます。

 すると先生は「人間は常に誠実と見識との両方面から見ていくことが大切です」と言います。

 しばらくしてクラスのK君が起立して「ノートも出すんですか」と尋ねる。
「そうです。もっとも君のような人は困るでしょうが」と笑われながら「君の様な人は感想の方が得意でしょう。しかし人間はまじめに黙ってコツコツやる人の努力を見ることも大切ですから」と笑われました。

 一同が顔を見合わせていると、「もちろん偉い人は君のようでも良いのですが、また毎日コツコツと励んでいる人も見てやるべきです。毎日よくやっていると、たとえその人の素質はそれほどなくても、堅実な道が開かれます。そこで教師としては、どうしても才能と勤勉、まじめと見識という両方面を知らねばならぬのです。

 世の中へ出ても、まじめでコツコツやっていれば間違いはないのですが、才能のある人は、うっかりすると踏み外しやすいのです。私が採点に当たっても、ただノートだけとか、または感想だけとしないのはそのためです。

 私としては、諸君の在校中だけでなく、少なくとも諸君らが私の年頃になるまでは考えているつもりですが、しかし若い諸君にその気持ちを察せよと言っても、それは無理というものでしょう」
 と言って、先生特有の微笑をせられた。


       ◆   


 いかがでしょう、感じるところが多くあるエピソードです。

 森先生が生徒たちになにか感想文を書いてもらおうと思ったのは、生徒たちの学力、見識を計ろうとするものに違いありませんが、そのときに先生は生徒たちのノートも見せよ、と言います。

 それは、『人間は常に誠実と見識との両方面から見ていくことが大切』だから、というわけで、頭の良い生徒だったら感想文などすぐにそれなりのものが書けるでしょうが、それだけでは普段まじめに授業を受けているかどうかがわかりません。

 学力の結果だけではなく、そこにいたる過程もしっかりと見てあげるというこの両方の視点が教師としては必要なのだ、という価値観がそこにはあるのです。

 今日企業などでも成果主義などと言って、成果さえ出せば人間性や努力の姿勢などは評価されないような風潮がありますが、我々が社会の中で暮らしていくときには成果、結果、ということだけではなく、そこにいたる努力の姿勢もちゃんと評価してあげることが必要だ、と言う言葉には実に説得力がありますね。


       ◆   


 そして最後に、『私としては、諸君の在校中だけでなく、少なくとも諸君らが私の年頃になるまでは考えているつもりですが…』という下りがあります。

 森先生にとって"生徒たちの成長を見守る"ということは、自分の授業を受けている間だけのことではなく、生徒たちに影響を与えることで、より良い教師として活躍してもらうということまでを見守るということ。

 このとき森先生は40代前半の頃ですが、自分と接している時期を終えてなお相手に影響を与えなくては、自分自身も生きている意味は半減する、という強い覚悟のほどがうかがえます。

 言葉の端々に生徒たちへの愛情と同時に、君たちを確かな教師にせずにはおかない、と言う強い信念があります。


「修身教授録」 読めば読むほどに力の湧く本です。

 この日のテーマの「偉人のいろいろ」についてはまた次回。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老朽ビルはやがてなくなる~都市の新陳代謝

2014-08-13 23:16:30 | Weblog

 お盆に入り、夏期休暇の一日を墓参りに行ってきました。

 わが家ゆかりのお墓は道内各所にありますが、行ける範囲にあっていつも行くのは岩見沢のお墓と、虻田町のお寺さんの納骨堂。

 両親と私の兄弟とその家族が一堂に集まって、車三台で移動しながらお参りを済ませてきました。

 来年には新しい墓が札幌市内にできるので、今日お参りした納骨堂に納めてある御骨もこちらに持ってくることになり、今日の様な行程での墓参りは今日が最後になりそう。

 一年ごとに同じ道をドライブしていると、何となく店が無くなったり新しい建物が建ったりするのが分かりますが、そんなドライブ途中の景色ともお別れです。


      ◆  


 いつも行く格安な理髪店での会話。

 頭を刈ってくれる従業員の40歳くらいのお兄さんは、私が椅子に座るなり憤慨した様子で、「今入っているこのビルの設備が動かなくなっちゃうかもしれないんですよ」と言います。

「何それ?」
「このビルの管理を引き受けるはずだった金融機関が、改めてビルの財務状況を調べたところ、未納の債権が多いというので匙を投げかけているんだとか。それで朝ここに着くなり、私が管理人に呼ばれて、『来月からビルは止まるから』って言われて目を白黒ですよ」

「それはお兄さんじゃなくて、オーナーに言うべき話ですよね」
「仕方ないから私が電話しましたよ。でも『いまお寺にいるので後にして』だって!いくらお盆だからって、優先しなくちゃいけないことってあるでしょうに」

「このビルって、一階には大手コンビニが入ったばかりだし、内科や歯科のお医者さんだっているじゃないですか。どうするの?」
「わたしゃ知りませんよ。でもお医者さんが中心になって組合を作って対抗するという噂も聞きました。なんだかもうどうなるんだか…」

「こっちも困ったなあ。せっかくいい床屋さんを見つけたと思ったのに。どこかへ行くんだったら、『○○へ移りました』って張り紙くらいしておいてくださいよ」
「やれやれ、それどころじゃないですよ」

 そこから先の話題の矛先は、ぐだぐだな管理会社とオーナーに向けられつつ髪を切ってもらいました。


「頭は洗います?」
「んー…、いいわ、混んできたし、家でシャワー浴びるから」
「そうすか、すいません」

 こういうところはなんだか下町っぽい感じ。「やってもらわなくちゃ損だ」というよりも、周りの方がつい気になります。
 

      ◆   


 老朽化したビルでは設備が老朽化して魅力を失い、テナントがいなくなって売り上げが減少して経営を圧迫し始めています。

 一方で安定した経営をしているテナントとの差が付き始めて、まだまだやれるテナントが追い出されて他の場所に移らなくてはいけないという事態も始まりそう。

 空き家・空きビルの問題は次第に社会問題化していますが、その前段階で老朽ビルの問題はビルの経営とテナントの問題としてクローズアップされそうです。

 そうしてビルが消えて新しい建物になれば、それはまたマチの新陳代謝と言えるのかもしれませんがなんとなく寂しさもつきまといます。

 さて、来月はおなじ理髪店さんでやってもらえるのかどうか…。

 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネットの利便性と凶器性~リンチの道具になるネット

2014-08-12 22:42:52 | Weblog

 漫画やレトログッズの中古販売店「まんだらけ」が、店内の商品を万引きされたことに対して、万引き犯と見られる男性の顔写真を公開する、という対抗措置に出ようとしていることが話題になっています。

 ニュースによると、8月4日にまんだらけ中野店で、ショーケースに置かれていた「鉄人28号」のブリキ人形(販売価格25万円)が万引きされたとのこと。

 警察に対して被害届を出す一方、店側では店内の防犯カメラに万引きの動画が捕えられており、ここから映し出された犯人と思しき男の顔をモザイクでネット上に公開し、「一週間以内(8月12日まで)に返しに来ない場合は顔写真のモザイクを外して公開する」という警告をネット上に掲載しました。

 このことに対して法律家からは、「脅迫罪や名誉棄損罪にあたる恐れがある」という指摘がある一方、「警察からも捜査に支障が出る恐れがあるため公開を取りやめるよう申し入れた」という報道がありました。

 

 

 これって、店側の公開内容が事実ならば名誉棄損には当たらないのだと思いますが、まず何を持って「事実」とするか、というところで確たるものがない状態。

 もしその動画の主が犯人でなかったらこれは大変なことになります。

 またもう一つ気になるのは、「リンチ(私的制裁)の禁止」ということ。あくまでも犯罪は法によって裁かれるのが近代法の原則であり、法が裁けないからと言って被害者自らが恨みを晴らすことはやはり法律違反となります。

 私的制裁がスカッとするのは、犯人が絶対悪でありそれを裁けないという状況で恨みを晴らしてくれる「必殺仕掛人」のようなドラマの世界でしかありません。

 「法が裁くというのなら、年間何万件も発生している万引きをちゃんと捕まえろ」という警察に対する批判もありそうですが、だからといって私的制裁を行うことは、犯罪に犯罪で対抗することになり、決して認められるものではないように思います。


       ◆  


 そしてもう一つ現代社会を感じさせるのは、私的制裁の手段として「ネットで公開する」ということが可能な時代だということ。

 女性に振られた男が、付き合っていた女性の裸の画像をネットに流出させる「リベンジポルノ」なる単語も世間を騒がせましたが、まさにネットに流出させるということはとてつもない被害を相手に与えることができる力だ、ということです。

 嘘であれば直の事、たとえ本当のことであっても一度ネットに拡散すればそれをこの世から消すということはもはや不可能なのが現代の情報社会。

 怒りにかられた一瞬の感情的高ぶりが、被害者にも加害者にも大きな傷になる危険を秘めています。

 ネットに対する正しい利用の仕方、正しい立ち向かい方というものをネットデビューする前には十分教育した方が良いと思うのですが、子供でもスマホを持つ時代、親としてもしっかりと子供を監督し、初心者マークを付けたネット民が道を誤らずにいてほしいと願うばかり。

 便利なネットの裏返しは、犯罪の道具であり人を破滅させる凶器でもあるのです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする