尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・大江健三郎ー大江文学の評価をめぐって

2023年03月14日 23時16分28秒 | 追悼
 大江健三郎が3月3日に亡くなっていたことが公表された。1935年1月31日生まれなので、享年88歳となる。多くの人に何がしかの感慨を呼び起こした訃報だったろう。誰しもが永遠には生きられないので、いずれの日にか訃報が報じられるのはやむを得ない。しかし、何となく予感していた人も多いのではないか。常に社会的発言を行ってきた大江だが、最近のウクライナ戦争、日本の防衛、原発政策の大転換などに何の発言もしていない。どうもかなり弱ってきているのかもしれないと感じていたのである。

 大江健三郎の創作活動はすでに大分前に終了し、作品は講談社から「大江健三郎全作品」全15巻として2018~19年に刊行された。これは小説だけで、他にも小説と同じぐらい多くの評論や対談などがあるが、取りあえず小説家としての全貌は振り返って見ることができる。もっとも大江文学は今ではどのくらい読まれているのだろうか。1994年にノーベル文学賞を受賞したのだから、名前ぐらいは多くの人が知っていただろう。しかし、中期になって方法的に難解さが増し、作中に外国文学の引用が多くなった。

 世の中全般が「軽い文化」になってしまい、「純文学」そのものが縁遠くなっている文化状況がある。世界最先端とも言える大江文学は、なかなかサラッと読むわけにいかない。読者にも粘り強く読み抜く努力が必要とされるのである。しかし、僕は今のうちに大江文学を振り返っておく必要性を強く感じていて、ようやく2年前に取り掛かった。だがそれも中途で途切れている。文庫本3巻に及ぶ『燃えあがる緑の木』三部作を読み終えたところで、読後の充実感に満ち足りてしまって間を置くことにしたのである。

 その時のまとめは「大江健三郎を読む」として11回も書いている。当時はあまり読まれなかったが、今になってヒットしている。
大江健三郎を読まなくなった頃ー大江健三郎を読む①」(2021.6.25)
「万延元年のフットボール」、性と暴力と想像力ー大江健三郎を読む②」(2021.6.27)
「懐かしい年への手紙」、壮大な人生の総括ー大江健三郎を読む③」(2021.6.28)
「洪水はわが魂に及び」、終末論と自閉症の世界ー大江健三郎を読む④」(2021.6.29)
「新しい人よ眼ざめよ」、障がい児と生きるー大江健三郎を読む⑤」(2021.7.22)
「静かな生活」と「二百年の子供」ー大江健三郎を読む⑥」(2021.7.28)
「遅れてきた青年」、悪漢小説の可能性ー大江健三郎を読む⑦」(2021.7.29)
「セヴンティーン」2部作、テロリストの誕生ー大江健三郎を読む⑧」(2021.8.23)
「叫び声」、性と犯罪時代ー大江健三郎を読む⑨」(2021.8.24)
「燃えあがる緑の木」三部作①ー大江健三郎を読む⑩」(2021.9.12)
「燃えあがる緑の木」三部作②ー大江健三郎を読む⑪」(2021.9.13)

 いや、我ながら良く書いたと思うが、これでも半分以上残っているのである。大江健三郎は当初『燃えあがる緑の木』で小説を終わりにすると言っていた。確かにそれだけの力作、問題作だが、その後武満徹の葬儀で新作を書いて捧げると弔辞を読んだ。そして『宙返り』に始まる8冊の小説が書かれた。それを大江自ら「レイト・ワーク(後期の仕事)」と呼んでいる。僕はそれらの小説は一つも読んでないのである。持ってはいるから今後読んで行くつもりだが。
(ノーベル賞受賞時の大江健三郎)
 日本のマスコミもあてにならないことが多くなり、予想したように「ノーベル賞作家」「社会的発言を行ってきた作家」としてしか報道していない。毎年秋になると、村上春樹がノーベル賞を取るかなど面白半分に報道し、『ノルウェイの森』や『風の歌を聞け』を代表作とか書いてる日本のマスコミである。多分ちゃんと文学作品を読んでる記者など少ないんだろう。半世紀前なら大江健三郎を読まずに、政治や社会を論じることなどあり得なかっただろう。僕も『ヒロシマ・ノート』や『沖縄ノート』を大江健三郎の大きな業績だと思っているけれど、でもちゃんと小説作品を読んで論じて欲しいと思っている。

 毎月読んでいる故見田宗介氏は戦後日本を「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」と三つに区分した。大江健三郎はその中の「理想の時代」に深くインスパイアされてきた作家だった。政治的にも「戦後の理想」を手放さず、いくら世の中が変わってしまおうと「戦後民主主義」を擁護し続けた。それが次第に左右両翼から攻撃されるようになって、何だか大江文学そものまで古くなったようなイメージを与えてしまったが、それはとても残念なことだった。大江文学の魅力を知る「真の文学ファン」は、この間もずっと大江文学の魅力に惹かれ続けていた。

 大江文学には確かに理想社会を目指していく登場人物が多い。だが現実との格闘を経て挫折していく様をじっくり見つめて、永遠に忘れられないイメージとして定着させる。『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』から『同時代ゲーム』を経て『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』に至る道程は、戦後に生き理想に燃えて闘ったことのある人の心に深く突き刺さる。特に「理想に燃え」たりしなかった人でも、その熱くたぎるエネルギーには圧倒されるだろう。

 特に中期以降の作品には自らの家族と思われる人物が多く登場する。だが日本伝統の「私小説」ではない。まるで「私小説」やエッセイのように思える作品でも、巧妙にフィクション化が施される。リアリズムのように書かれていても、実は何層もの重層的構造になっていることが多い。(そうじゃない作品もある。)グロテスクな、あるいは魔術的な発想の作品が多く、それは誰の影響というものではなく大江独自のものだったが、結果的に当時大きな評判になっていたラテンアメリカ文学と共通性が多かった。まさに世界最先端だったのである。
(大江健三郎の若い頃)
 だけどまあ、今まで大江文学を読んで来ていない人が、突然先に挙げた大長編にチャレンジしても挫折必至かもしれない。やはり若い時代の短編、『セヴンティーン』や『空の怪物アグイー』『アトミック・エイジの守護神』等、あるいは最初期の『奇妙な仕事』『死者の奢り』『飼育』などから読むべきだろう。これらを読んで、合わないと思った人はそこで終わって良い。でも何人かは登場人物の孤独、焦燥、希望、挫折などを我が事と感じるだろう。何よりも物語的に面白いし。大江文学はむしろこれから「発見」を待っているのだと思う。
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