大江健三郎の文学に関する追悼を書いたけれど、書き足りない思いが残るのでもう少し書きたい。大江健三郎はある時点まで「新進作家」として注目され、そのうち大成してノーベル文学賞を取るまでになった。しかし、その頃には難解な作家とみなされ、むしろ社会的発言をする「進歩的文化人」として知られるようになっていたように思う。近年になっても元気な間は原発反対運動などに奔走して、集会やデモにも積極的に参加していた。
そのような生き方を全体としてどのように評価するべきだろうか。今振り返っておけば、大江健三郎は作家生活の早い頃から、ずっと政治的な課題と向き合って生きてきた。戦後の作家はまず「戦争体験」という空前絶後の体験から出発した人が多い。大岡昇平や野間宏などは、その壮絶な戦場体験、軍隊体験などと向き合うことから「作家」となったのだった。しかし、戦後10数年して若手作家となった世代(大江や石原慎太郎など)は、子ども時代に戦争を体験したとはいえ、軍に従軍したわけではない。今ではほぼ全国民がそうだけど、50年代末には彼らが「新世代」だったのである。
1958年に岸信介内閣が「警察官職務執行法」の「改正」を目論んだとき、野党(社会党)、労働組合を中心にした大きな反対運動が起こった。その時彼ら新世代の「若き文化人」は「若い日本の会」を結成して反対を表明した。ウィキペディアを見ると、この会は石原慎太郎、谷川俊太郎、永六輔らが中心だった。参加者には大江の他、開高健、寺山修司、武満徹など幅広い顔ぶれが集まっていた。そして注目されるのは、石原の他、浅利慶太、江藤淳、黛敏郎など後に保守派として知られる人々も参加していた。
そのことは前にも書いたが、50年代末には石原慎太郎と大江健三郎は政治的に同じ位置にいたのである。それがどうして、同時代人なら誰しもが知るように、全く正反対の立場になったのだろうか。石原慎太郎は現実に妥協して単なる保守派になったのではない。「保守」の枠組の中でも最右翼になって、日本という国家を強大にするべく憲法改正や核武装を主張するまでになった。一方、大江健三郎は晩年になって「九条の会」結成の呼びかけ人となり、あくまでも護憲派として終始した。
この違いはどこから来たのか。それぞれの個性もあるだろうが、「国家観の違い」が最大の理由じゃないかと思う。この世代は幼いときは「少国民」と呼ばれ、「鬼畜米英」と戦って天皇のために命を捧げるように教えられて育った。ところが一端戦争に敗れると、上の世代は昔から戦争に反対だったかのように振る舞い、「民主主義」を唱えたのである。この「裏切り」にどう対処したか。大江健三郎の『遅れてきた青年』では、あくまでも敗戦を認めずに戦い続けようとする少年が描かれている。
それは小説の設定だが、現実に「国(あるいは天皇)に裏切られた」という呪いのような感情は戦後日本の精神史に伏流として流れ続けてきた。このような感情は戦後社会の中でどのように処理されたのだろうか。例えば、戦争に負けたのはアメリカと戦ったからで、今度はアメリカに付くんだという立場もある。一方で、戦争を起こした軍部・右翼ではなく、「正しい考え」の持ち主が指導する日本を作るんだという立場もある。前者が自民党政権のホンネなら、後者が社会党や共産党支持者の考え方だろう。
では大江健三郎の思想はどのようなものだろうか。それは「国家」というものは間違うものであり、人々が監視していかないといけないというものではないか。その国家は日本だけでなく、アメリカや旧ソ連、中国なども同じである。「正しい勢力」が権力を持てば正しい国家に成ると思うのなら、大江はその党のために支援をしただろう。戦後の「進歩的文化人」の中には、選挙で革新政党を支援した人も多い。国政はともかく、一時は全国に多かった「革新自治体」(その多くでは社会党、共産党の「共闘」が行われた)を支持する運動には多くの文化人が関わった。しかし、大江は選挙の応援には関わって来なかったと思う。
大江健三郎においては、「国家」はいつも何か別の視点によって「相対化」されていると感じる。特に中期において展開された「四国の森」の喚起力は圧倒的だ。江戸時代の藩権力や近代の天皇制国家に表面的には従いつつも、もう一つの神話的世界が存在したという「オルタナティヴな歴史」を提示する。それは60年代、70年代に深化した民衆史や民族学、神話学などの成果と共通性もあった。それが実証的にどこまで現実に即していたのか、あるいは大江健三郎の想像力の産物なのかは、今の時点では見極めが難しい。
(1960年の初めて広島訪問)
大江健三郎は社会的発言を行ったイメージが強いかもしれないが、どんなテーマにも発言したわけではない。例えば、60年代に文壇でも大きな問題だった冤罪・松川事件の救援運動の先頭には立たない。65年に結成された「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)にも関わっていない。大きな理由としては、長男に障がい児が生まれたことによって、家庭外の活動に制約が出来たことがあるだろう。実際に関係者に会って関わりを持った「広島」や「沖縄」、そして戦争否定の象徴としての「憲法9条」護持、核兵器反対から続く「原発反対」などに限って注力したのだと思う。
そのような大江健三郎の「国家」(日本においては天皇制国家)に呑み込まれない生き方は、ノーベル賞受賞直後の文化勲章拒否に見事に示されている。そのような国家への向い方は広島との関わりから生まれた「核時代」という時代認識につながっている。核兵器が全人類の頭上にある世界で、一つの国家の「国益」というものは相対的なものでしかない。そのような核時代にどのように抵抗出来るのか。それこそが大江文学の目指すものだったと思う。僕もそのような大江健三郎の生き方には大きな影響を受けてきた。
先に読み直して感じたところでは、残された論点として「60年代と朝鮮」があると思う。『われらの時代』『遅れてきた青年』『叫び声』『万延元年のフットボール』と続く作品群では、作中で在日コリアンが大きな意味を持っている。実際に愛媛県にどの程度の朝鮮人が徴用(強制連行)されたのか確認していないが、実証的な検討が必要だろう。同時代では60年代の大島渚監督の映画にも、朝鮮人が出て来ることが多かった。比較検討されるべき論点だろう。
そのような生き方を全体としてどのように評価するべきだろうか。今振り返っておけば、大江健三郎は作家生活の早い頃から、ずっと政治的な課題と向き合って生きてきた。戦後の作家はまず「戦争体験」という空前絶後の体験から出発した人が多い。大岡昇平や野間宏などは、その壮絶な戦場体験、軍隊体験などと向き合うことから「作家」となったのだった。しかし、戦後10数年して若手作家となった世代(大江や石原慎太郎など)は、子ども時代に戦争を体験したとはいえ、軍に従軍したわけではない。今ではほぼ全国民がそうだけど、50年代末には彼らが「新世代」だったのである。
1958年に岸信介内閣が「警察官職務執行法」の「改正」を目論んだとき、野党(社会党)、労働組合を中心にした大きな反対運動が起こった。その時彼ら新世代の「若き文化人」は「若い日本の会」を結成して反対を表明した。ウィキペディアを見ると、この会は石原慎太郎、谷川俊太郎、永六輔らが中心だった。参加者には大江の他、開高健、寺山修司、武満徹など幅広い顔ぶれが集まっていた。そして注目されるのは、石原の他、浅利慶太、江藤淳、黛敏郎など後に保守派として知られる人々も参加していた。
そのことは前にも書いたが、50年代末には石原慎太郎と大江健三郎は政治的に同じ位置にいたのである。それがどうして、同時代人なら誰しもが知るように、全く正反対の立場になったのだろうか。石原慎太郎は現実に妥協して単なる保守派になったのではない。「保守」の枠組の中でも最右翼になって、日本という国家を強大にするべく憲法改正や核武装を主張するまでになった。一方、大江健三郎は晩年になって「九条の会」結成の呼びかけ人となり、あくまでも護憲派として終始した。
この違いはどこから来たのか。それぞれの個性もあるだろうが、「国家観の違い」が最大の理由じゃないかと思う。この世代は幼いときは「少国民」と呼ばれ、「鬼畜米英」と戦って天皇のために命を捧げるように教えられて育った。ところが一端戦争に敗れると、上の世代は昔から戦争に反対だったかのように振る舞い、「民主主義」を唱えたのである。この「裏切り」にどう対処したか。大江健三郎の『遅れてきた青年』では、あくまでも敗戦を認めずに戦い続けようとする少年が描かれている。
それは小説の設定だが、現実に「国(あるいは天皇)に裏切られた」という呪いのような感情は戦後日本の精神史に伏流として流れ続けてきた。このような感情は戦後社会の中でどのように処理されたのだろうか。例えば、戦争に負けたのはアメリカと戦ったからで、今度はアメリカに付くんだという立場もある。一方で、戦争を起こした軍部・右翼ではなく、「正しい考え」の持ち主が指導する日本を作るんだという立場もある。前者が自民党政権のホンネなら、後者が社会党や共産党支持者の考え方だろう。
では大江健三郎の思想はどのようなものだろうか。それは「国家」というものは間違うものであり、人々が監視していかないといけないというものではないか。その国家は日本だけでなく、アメリカや旧ソ連、中国なども同じである。「正しい勢力」が権力を持てば正しい国家に成ると思うのなら、大江はその党のために支援をしただろう。戦後の「進歩的文化人」の中には、選挙で革新政党を支援した人も多い。国政はともかく、一時は全国に多かった「革新自治体」(その多くでは社会党、共産党の「共闘」が行われた)を支持する運動には多くの文化人が関わった。しかし、大江は選挙の応援には関わって来なかったと思う。
大江健三郎においては、「国家」はいつも何か別の視点によって「相対化」されていると感じる。特に中期において展開された「四国の森」の喚起力は圧倒的だ。江戸時代の藩権力や近代の天皇制国家に表面的には従いつつも、もう一つの神話的世界が存在したという「オルタナティヴな歴史」を提示する。それは60年代、70年代に深化した民衆史や民族学、神話学などの成果と共通性もあった。それが実証的にどこまで現実に即していたのか、あるいは大江健三郎の想像力の産物なのかは、今の時点では見極めが難しい。
(1960年の初めて広島訪問)
大江健三郎は社会的発言を行ったイメージが強いかもしれないが、どんなテーマにも発言したわけではない。例えば、60年代に文壇でも大きな問題だった冤罪・松川事件の救援運動の先頭には立たない。65年に結成された「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)にも関わっていない。大きな理由としては、長男に障がい児が生まれたことによって、家庭外の活動に制約が出来たことがあるだろう。実際に関係者に会って関わりを持った「広島」や「沖縄」、そして戦争否定の象徴としての「憲法9条」護持、核兵器反対から続く「原発反対」などに限って注力したのだと思う。
そのような大江健三郎の「国家」(日本においては天皇制国家)に呑み込まれない生き方は、ノーベル賞受賞直後の文化勲章拒否に見事に示されている。そのような国家への向い方は広島との関わりから生まれた「核時代」という時代認識につながっている。核兵器が全人類の頭上にある世界で、一つの国家の「国益」というものは相対的なものでしかない。そのような核時代にどのように抵抗出来るのか。それこそが大江文学の目指すものだったと思う。僕もそのような大江健三郎の生き方には大きな影響を受けてきた。
先に読み直して感じたところでは、残された論点として「60年代と朝鮮」があると思う。『われらの時代』『遅れてきた青年』『叫び声』『万延元年のフットボール』と続く作品群では、作中で在日コリアンが大きな意味を持っている。実際に愛媛県にどの程度の朝鮮人が徴用(強制連行)されたのか確認していないが、実証的な検討が必要だろう。同時代では60年代の大島渚監督の映画にも、朝鮮人が出て来ることが多かった。比較検討されるべき論点だろう。