尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

傑作『フェイブルマンズ』、スピルバーグの自伝的映画

2023年03月12日 23時05分21秒 |  〃  (新作外国映画)
 映画『フェイブルマンズ』(The Fabelmans)はスティーヴン・スピルバーグ監督が作った「自伝的映画」で、素晴らしい傑作だった。151分もあって長いから、時間が合う時に早めに見ることにした。決して楽しいことばかりじゃない映画だが、非常に満足度が高い。スピルバーグの数多い映画の中でも、『E.T.』や『シンドラーのリスト』などを見た時に匹敵するような気がする。スピルバーグ作品として13回目のアカデミー作品賞、監督部門では9回目になるノミネートを受けている。
 
 題名だけでは意味不明だが、これは登場人物の名前である。監督自身に当たるサム(サミー)・フェイブルマンのラストネーム。Theを付けて複数にすると、「○○一家」になると習ったはず。つまりフェイブルマン一家である。僕には全く判別できないが、この名前を言っただけで高校では「ユダヤ系だな」といじめられる。だから、判る人には判る意味が込められた題名なのである。

 この映画を見ると、映画はやっぱり「編集」だなあと思った。次にはこういう場面を見たいなあと思うシーンに素早く切り替わる。登場人物をカットバックで見せたり、自由自在に編集されたリズムの素晴らしさ。映画の中のサミーも編集機を買ってと頼み、家族や友人たちで撮影した映像を切ってはつなぎ直している。さすがに今ではスピルバーグが自分でやってるわけじゃない。
(撮影しているサミー)
 編集は『未知との遭遇』以後ずっと組んでるマイケル・カーンで、この人は『レイダース/失われたアーク』『シンドラーのリスト』『プライベート・ライアン』とスピルバーグ作品で3回アカデミー編集賞を受賞している。今でもスピルバーグ作品に限ってはフィルムで編集してるんだという。撮影は『シンドラーのリスト』以後ずっと組んでるヤヌス・カミンスキーで、もう見たい映像の撮り方、つなぎ方が了解されている感じ。観客のツボにハマるような映像リズムが心地よいのである。

 ある日両親が5歳のサミーを映画『地上最大のショウ』を見に連れて行った。1952年のアカデミー作品賞を受賞したセシル・B・デミル監督のオールスター映画である。怖いんじゃないかとグズる少年に対し、父は映画は1秒間に24コマの映像を映し出し残像現象がどうのこうのと説明し始める。子どもが理解不能になってるときに、母が優しく説得してようやく映画館に入った。そして列車が衝突脱線するシーンに激しく魅せられてしまったのである。父親がおもちゃの電車を買ってくると、レール上で衝突させて楽しむようになる。今度は8ミリカメラを買い与え、サミーは家族を撮るようになってアマチュア映画作りに夢中になった。
(客席で映画を初めて見る)
 映画の中の両親の設定はほぼ事実じゃないかと思う。父親はコンピュータ技術者で、GEに引き抜かれ次にIBMに転職する。母はピアニストで優しく情緒的だった。母役のミシェル・ウィリアムズは繊細な演技が高く評価され、アカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。今までに主演2回、助演2回ノミネートされた。今回は助演賞有力とされながら、会社側の意向で主演賞に回ったという。僕はやはり主演ではなく助演だろうと思うし、それが映画の正しい理解じゃないか。父はポール・ダノで、いかにもそれらしい感じが出ている。映画の終わりに「リアに」「アーノルドに」と出る。両親に捧げられた映画である。
(監督と両親役の二人)
 その後の展開は書かないが、「映像の両義性」とも言うべきものが彼を苦しめると共に、映像の持つ力を感じさせる。「何か」を写したいと思ってカメラを回すが、フィルムには写す目的以外のものも入り込む。だから、昔の映画を見るとロケで残された思いがけぬ昔の風景に感動することがある。人間の場合でも映像で見ると、本人も思ってなかったような「自分」が写っていることがある。そのような映像の力が現実生活を変えてしまうこともある。幸福な少年時代にはただカメラを回すことが楽しい。だが青年期を迎えると、映像の持つ「魔」の力が大きくなる。しかし、高校生活最後の場面は、映画の力への讃歌だろう。
(高校時代の恋人と)
 ところで、この映画は「自伝的」だが、「自伝」ではない。スピルバーグ(1946~)やジョージ・ルーカス(1944~)が70年代初期に登場して、「アメリカン・ニュー・シネマ」の時代は終わることになる。この二人は「ヴェトナム戦争世代」なのに、なぜ「社会派」じゃなかったんだろうか。当時は世界中で新しい文化運動が起こり、映画、演劇、文学などが革新された。しかし、スピルバーグは自分では演じず、友人たちに西部劇や戦争映画を演じさせて、その映像を編集してプロ並みの映画を作る。

 世界の映画青年たちがフランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」だの、アントニオーニの「愛の不毛」ベルイマンの「神の沈黙」などを熱く語っていた時代に、彼は何をやってるんだろう? しかし、彼は上手に編集して特殊効果を出すような事が好きだった。やはり父親の技術者的資質を受け継いでいるのだ。さらに実は彼は学習障害の一種「ディスレクシア」(識字障害)だったから、難しい議論をやり取りするような政治的、文学的青年には成れなかった。そこが隠された点なんだと思われる。

 日本で言えば時代劇や怪獣映画が大好きで、親が金持ちでカメラを買ってくれたから、友だち集めてチャンバラや特撮映画を作ってたような少年だったのである。だから、最初はただ楽しい映画、見てワクワクするような映画をたくさん作った。ユダヤ系として差別経験もあって、社会に発言したいことももちろんあったけど、それを自ら語れるようになったのは映画界で成功して自信を付けてからだった。娯楽映画専門かと思われ、アカデミー監督賞をなかなか受賞できない悔しさもあっただろう。だが、スピルバーグが作る社会派的テーマの映画は、映画としては皆判りやすい作り方になっている。それが彼の特徴であり、長所でもあり短所でもある。
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