尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『社会学の主題と方法』ー見田宗介著作集を読む⑨

2023年03月26日 22時32分17秒 | 〃 (さまざまな本)
 毎月見田宗介著作集を読んできたけど、今回が9回目。全10巻だから後は2冊である。最後は10巻目の短編集だから、今回はまとまったテーマの本としては最後になる。だけど、多分つまらないだろうなあと予想していたとおりで、読んでいてこんなつまらない本も久しぶり。それは「社会学の主題と方法」というテーマだからである。

 最後の「解題」に、「本書は、社会学の将来に向けて、関心をもつ若い人たちが主題と方法を学ぶにあたって、可能性の視界を広げるような方向で、参考になるかもしれないいくつかの論考を収録した」と書かれている。だから「社会学」に「関心を持つ若い人」じゃない人には読む意味がほとんどないと思う。まあ、僕は全部読むという目的のために読んだけど…。社会学の方法論に関する議論は退屈としか言いようがない。まあ、こう書いて終わりでいいようなもんだけど。

 見田氏さんにも、若い「社会学者」として地道な研究論文があったということがよく判った。もっともそれは多くの人には意味を持たない。歴史学にも歴史学の方法論みたいな分野があるが、それは単なる歴史ファンには鬱陶しいだけだろう。「社会学」は学問的な対象に出来る分野が幅広く、「○○社会学」と名付ければ何でも出来る気がしてうらやましい感じもしていた。だが、この本で見てみると、社会で起こった各現象をデータをもとに「分類」していく手続が厄介だなあと思った。

 最後の方に「社会意識研究の諸データ」「数量的データと「質的」なデータ」「「質的」なデータ分析の方法論的な諸問題」という3つの論文がある。これらを読むと、「社会学」は歴史学とはずいぶん違うなあと感じた。そもそも社会学では「データ」なんだと思った。これは心理学などにも言えることだが、「学問」として成立させるためのデータ処理が研究の中心になってくる。歴史学だと「史料」と呼ぶが、史料を自ら作り出すことは出来ない。だけど、社会学では適切な手続を経た世論調査などを自ら実施することで、研究対象のデータを自分で作り出すことが出来る。

 そう言われて初めてなるほどと思った。歴史学でも自分で関係者をインタビューするなど「オーラル・ヒストリー」の分野がある。だが、社会学にも言えることだが、それが恣意的に作られたものじゃないかどうかの検討がいる。これは自然科学にも言えることだろうが、データを自分が使いたいように無意識的にゆがめてしまわないように戒めていかないといけない。「社会学」の場合、研究対象が幅広いことから、恣意的な研究も作られやすいんじゃないか。

 もちろん「歴史学」はもっと恣意的な、政治的目的を持って史料をゆがめて使う人はいる。学界で相手にされなくても、自費出版的に本を刊行すれば「両論ある」などと持ち上げる人が出て来る。「史料批判」の方法論は他分野でも有効だろう。だけど、学問研究の裏にある方法論の問題は「学問研究」に無縁な人には意味がない。そもそも「社会とは」とか「価値論」「時間論」などもあるけど、特に「価値意識の理論」など全く理解不能だった。ただ字面を追っただけで、そういう読書をしたのも久しぶり。
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