尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

凄いな「ヒッキーヒッキーシェイク」ー津原泰水を発見せよ③

2019年07月15日 22時39分50秒 | 本 (日本文学)
 津原泰水ヒッキーヒッキーシェイク」(ハヤカワ文庫JA)は凄い本だ。今こそ多くの人に読まれるべきだ。この本が例の本。幻冬舎から2016年に刊行され、文庫化が予定されていながら、津原氏が「日本国紀」を批判して(かどうか)企画が流れた。それを早川書房で文庫化したわけである。帯には「この本が売れなかったら、私は編集者をやめます。」と早川書房の「塩澤快浩」名の「宣言」が書かれている。前代未聞の帯だが、なかなか売れてるようだから、塩澤さんも辞めないで済むだろう。

 この本の「ヒッキー」というのは、「引きこもり」のことである。著者はあとがきで「みずからのヒキコモリ時代を僕に語り、あるいは書き送ってくださいました、元ヒッキーズ、現ヒッキーズ諸氏に、最大限の敬意と感謝を捧げます」と書いている。「引きこもり」を描いているからと言って、決して社会問題や教育問題の本じゃない。すごく面白いエンターテインメントだが、ジャンル不明。狭い意味ではミステリーでもSFでもない。視点がどんどん変わるから、読みやすいとも言えない。判りにくいわけじゃなくスラスラ読めるんだけど、全体構造が不明なのである。
 
 ちょっと裏表紙を引用するとー。「人間創りに参加してほしい。不気味の谷を越えたい」ヒキコモリ支援センター代表のカウンセラーJJは、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムという、年齢性別さまざまな4人の引きこもりを連携させ、あるプロジェクトを始動する。疑心に駆られながらも外界と関わろうとする4人だったが、プロジェクトは予想もしない展開を見せる。果たしてJJの目的は金か、悪意か、それとも? 現代最高の小説家による新たな傑作。

 これでも判らないけど、それは要するに作品内部でも登場人物には判ってないという設定なのである。ラストになれば全部判る。途中までは、ヴァーチャルなアイドル創造みたいなプロジェクトかな、パソコンの話が結構面倒くさいなという感じ。途中で「架空の動物」を故郷の「猿飛峡」に創り出すという「ふるさと創生」みたいな話も出てきて。さらに「ジェリーフィッシュ」なる謎の「ヒッキー」の創ったウィルスの話になって。これは一体どうなるのと思うが、話がスピーディで面白いからどんどん読んでしまう。そしてラストになって「現代の黙示録」とでもいう構想にまとまって驚いてしまう。 

 題名だけど、これは「ヒッピーヒッピーシェイク」という歌から取ったと書いてある。イギリスのバンド、スウィンギング・ブルー・ジーンズによる1963年のヒット曲だというけど、僕は全然知らない。津原氏も1964年生まれなんだから、同時代的には知る由もない。またクラウス・フォアマンという人の装画「Hikky Hikky Shake」の制作と「同時進行」だったとも書かれている。フォアマンはザ・ビートルズの「REVOLVER」のジャケットを描いた人で、また解散後に「ジョン・レノン氏やジョージ・ハリスン氏の活動を支えたエレクトリック・ベース奏者としても名高い」ということだ。
(フォアマン装画による単行本)
 このJJという謎めいたカウンセラーは、本名「竺原丈吉」という。姓は「じくはら」と読む。「天竺」の「竺」だと説明してるけど、こんな名字あるか。(慣れるまで、目がつい「笠原」と読んでしまう。)ヒッキーたちも「乗雲寺芹香」(じょううんじ・せりか)、「刺塚聖司」(いらつか・せいじ)、「苫戸井洋佑」(とまとい・ようすけ)とトンデモ名前ばっかり。ところが、途中であるエピソードが出てくる。竺原の高校時代の友人で作中で重要な役割を果たす「榊才蔵」の娘「径子」(みちこ)の話だ。「径子」という主人公が出てくるホラー小説が評判となり映画化もされた。そのため「径子」という名前に負のイメージが付いてしまった…。

 この本の中には現実に起こった事件を思い起こす出来事がいろいろ出てくる。最後になると「ポスト3・11」小説の様相も現れてくる。「径子」の話も現実の出来事を思わせるが、そのとこで傷ついた人がいただろうとは気が回りにくい。この小説の遊びのようなネーミングも、つまりその名前で傷つく人がいないだろう突飛な名前を付けたんだと途中で気づく。凄く深い配慮があったのだ。

 竺原はカウンセラーとして「引きこもりがいなくなったら失業しちゃう」などホンネなのか偽悪的な挑発なのか判らない言動をする。そんな竺原の過去はどんなものだったか。それが明かされるとき、この小説の深いたくらみに感動が湧き起こる。僕にはなんだかよく判らない部分も多いんだけど、「凄い」ということは判る。まあ映画「2001年宇宙の旅」みたいなもんか。(なお、登場人物の「パセリ」「セージ」「ローズマリー」「タイム」は言うまでもなく「スカボロ・フェア」である。僕がサイモン&ガーファンクルの歌で知った時には、ハーブの名前だとは全く知らなかった。)
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非拘束式名簿の実情、そして「特定枠」とはー参院選比例区考②

2019年07月14日 20時36分29秒 |  〃  (選挙)
 1回目は参議院選挙の「比例代表」が「非拘束名簿式」になったところまで書いた。制度の移り変わりを見ると、かつては「全国区」(1947~1980)があり、それが「拘束名簿式比例代表」(1983~1998)に変わり、2000年に「非拘束名簿式」になったわけである。2001年から現在まで、今のところ7回行われている。有権者は「政党名」または「候補者名」のどっちかを書く。その票を合計して「党の得票」として、その票数をもとに各党に議席を配分する。各党の候補者は、個人得票の多い順番に当選となる。

 そこで一見すると、おかしなことも起こる。有名人候補が一人でたくさん得票すると、同じ党の個人得票の少ない候補者まで当選になる。一方、一人だけたくさん取っても、他の候補者や党名票が少ないと、合計した場合当選に届かないことがある。下の図表には「同じく100万票を獲得して、3議席が当選となった」という例が出ている。A党は有名候補が一人で96万票も取ったため、1万票しか入ってないC候補まで当選する。一方、B党は20万、18万、15万、14万と得票したが、14万票のD候補は落選。

 候補者名か党名かどっちかを書くと言っても、やってみたら「党名得票」が圧倒的に多かった。これは意外な感じがするが、タレント候補が少なくなった今、組織に所属していない有権者には候補者がよく判らないということだろう。前回2016年参院選を見てみると、自民党は約2千万票を獲得したが、そのうち1500万票が党名だった。2位の民進党(当時)も1175万のうち、875万が党名。共産党が一番党名得票度が高く、600万票のうち560万票近くが党名である。これは「党名投票」を呼びかけているのである。一方、公明党は個人得票度が高い。750万票ほどのうち、党名票は388万票で約半数が個人票。

 公明党は毎回「重点候補」を地区別に決めて個人名投票を徹底している。しかし、それは堅い支持者で、その周りに党名を書く「弱い支持層」がいるんだろう。21世紀の参院選比例区で、公明党は6~8議席を獲得している。ここ2回ほど7人が当選しているが、確実に当選を期すために「重点候補」は6人となっている。全部で17人が立候補しているが、公明党ホームページを見ても6人しか出てないという徹底ぶりだ。そのため、毎回のように個人名の最多得票は公明党である。(過去6回のうち、2001年は舛添要一が最多で、その後は全部公明党。)2016年は94万から38万で6人の重点候補が当選し、7議席まで当選となったため、次は1万8千票の候補に議席が回ってきた。

 その逆もあって、2010年は公明党が6人当選に止まったため、重点候補のうち得票が最少だった浮島智子が44万5千票で落選した。この年は民主党政権の与党だった国民新党が当選に届かず、40万票を取った長谷川憲正が落選した。これが最多個人得票落選者の1位と2位になっている。そういう事例は毎回のように起こっていて、2013年は緑の党の三宅洋平が17万6970票、2016年は新党改革の山田太郎が29万1188票の個人票があったが落選した。そのたびに「おかしい」と声を挙げる人が出てくるが、まあ制度上は仕方ない。(山田太郎は今回は自民から出たから当選するかもしれない。) 

 ところで、参議院の比例代表は2001年から定数が2つ減って48議席となった。それが2019年から50議席に戻された。そして各党に2議席分の「特定枠」なるものが作られた。「特定枠」は個人票の得票に関係なく、最上位にある。だから自民党の「特定枠」2人は、もう当選したのと同じである。その二人は島根県と徳島県出身者。前回2016年から、有権者数が少ない県が合区され「鳥取・島根」「徳島・高知」の両選挙区が出来た。2016年は鳥取、高知で自民党議員がいなかったので、島根、徳島の現職議員がスムーズに選ばれた。しかし、2013年は自民党が圧勝したので、4県すべてに自民党議員がいた。

 2019年は前回と逆に、鳥取、高知選出議員を合区の候補者とすることになった。そうなると、島根、徳島から2013年に当選した現職議員の処遇が問題となる。それが比例区の「特定枠」なのである。今回の自民党「特定枠」候補者は、島根と徳島の候補だ。(島根県の現職議員は選挙直前に死去したので、衆議院の比例当選者が候補に選ばれた。)もともと「合区」に反対が強い。しかし、日本は連邦制ではないのだから、人口をもとに「国民の代表」を選ぶのは憲法上の要請だ。今後、もっと「合区」が多くなれば、「特定枠」も増やすんだろうか。こういう訳の判らない仕組みを作るぐらいなら、「事前に順位を付ける」が「同率順位にして個人得票で決めてもいい」という方がいいんじゃないか。

 この「特定枠」候補にも個人名で投票してもいい。しかし、ほとんど個人の選挙運動はしてはいけないという。もちろん個人票の数に関係なく、優先して当選である。どうも変な制度だ。この制度導入に反対した野党各党は「特定枠」を使わなかった。選管へ「特定枠」を届け出たのは「れいわ新撰組」と「労働者の解放をめざす労働者党」だけだった。「れいわ新撰組」というのは、ネーミングが変だけど例の山本太郎新党である。「特定枠」を障がい者の候補2人に割り充てたから、山本太郎本人は3人目以下になる。話題にはなっているようだが、正直言って三人当選は難しいだろう。山本太郎が今回の最多個人得票落選者になる可能性が高い。それをどう考えるかはいろいろあると思うが。

 参議院の選挙方法は、衆議院以上に問題が多い。特に選挙区の方が変だ。1人区がいっぱいあって、2人区、3人区、4人区もあり、東京は6人も当選する。自民2人、公明1人だから、野党内の配分だけが焦点。人口が230万ほどの宮城県までが1人区で、260万の京都府、280万の広島県が2人区というのも納得しにくい。「合区」以前にもう都道府県ごとの選挙が無理だろう。僕は地区ブロック別に「非拘束名簿式」の比例選挙一本にするべきだと前から書いている。
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「非拘束名簿式」になった理由ー参院選比例区考①

2019年07月13日 23時23分12秒 |  〃  (選挙)
 参議院選挙へ行くと「選挙区選挙」と「比例代表選挙」の2回投票する。「比例代表区」という「区」は法的にはないんだけど、まあ普通「比例区」なんて言うことが多い。この「比例代表選挙」の方法が判りにくい。前から判りにくかったけど、今回さらに判りにくく改定された。政治に関心がある人でも案外ちゃんと知らないで、間違ったことを言ったり書いたりする人がいる。だからここで説明しておくことにする。前にも書いてるんだけど、今回から出来た「特定枠」については書いてないから。

 画像検索したら上の図が出てきた。これを拡大してみれば判るわけだが、もう少し詳しく書いておきたい。まず、参議院がなぜあるのかがよく判らない。大日本帝国憲法では「貴族院」だった。現在の国会議事堂は1936年に完成したもので、二院制にふさわしいように作られている。世界には「一院制」の国も結構ある(スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、トルコ、韓国など)が、連邦制を取る国(アメリカやロシア)、身分制議会の歴史から続く国(イギリス)など二院制の国の方が多い。日米英など皆二院制だから、あまり深く検討されずに「貴族院を廃して選挙で議員を選ぶ」ことだけ考えたんだろうと思う。

 憲法で参議院議員は「任期6年」「3年ごとに半数改選」が決められている。しかし「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」と選挙の方法は憲法には書いてない。当初は、「地方区」(150人)と「全国区」(100人)で行われていた。「地方区」は都道府県ごとに選ぶ。今の「選挙区選挙」のこと。「全国区」は全国を一つの選挙区として50人を選ぶという選挙だった。(50人ずつ改選する。1947年の選挙だけ、100人を当選とし51位以下を任期3年とした。)

 全国区はよく「残酷区」「銭酷区」などと呼ばれた。全国一つというのは広大すぎて、お金も体力も大変だというのである。選挙運動で知名度を高めるのは困難だから、初めから知られている「タレント候補」か、有力な支持団体がある「組織内候補」(自民党は医師会、遺族会、宗教団体など、社会党は労働組合)が圧倒的に有利だった。最後になった1980年の全国区では、市川房枝(無所属、女性運動家)がトップ当選、続いて青島幸男(無所属)、鳩山威一郎(自民、鳩山一郎元首相の長男、元大蔵次官)、宮田輝(自民、元NHKアナウンサー)、中山千夏(革自連、女優)、山東昭子(自民、女優)、大鷹淑子(自民、女優山口淑子の本名)と当時の日本人なら全員が知ってる超有名人がズラッと並んでいた。

 そこで制度改正の動きが起こり、1983年の参院選から「比例代表制度」が日本で初めて取り入れられた。日本では明治時代に選挙が始まった時から、「候補者名を有権者が自分で書く」やり方を取ってきた。これは世界的に非常に珍しい。「識字率が高い」からだと自慢げに言う人も多いけど、障がい者を選挙から遠ざけている。今後外国出身で日本国籍を取得する人も増えるだろうから、「○を付ける」「チェックする」といったやり方に変えることを真剣に検討した方がいい。それはともかく、1980年に初めて「政党名」を書く選挙が行われたわけである。(それにしても、有権者が自ら書くことは同じ。)

 これはどの政党を選ぶかを有権者が決めるという意味では判りやすい。でも、例えば自民党が18人当選する分の得票をしたとして、その18人はどう選ぶか。当時は「政党が順番を付けて届け出る」方式だった。つまり、その届け出に書かれていた順番で決まる。18位なら当選で、19位なら落選。どこかで当落が別れるのは仕方ない。でも自民党のような大政党で、順番が1位や2位なら絶対に当選する。もうそれは間違いない。まあ1位、2位じゃなくても、一桁台なら安心だろう。では15位だったら?16位は? フタを開けて見ないと判らないけど、自民党の支持率が低いと危ない。安心してはいられない。

 じゃあ自民党はその順位をどう付けたのだろうか。比例順位で当落が別れるんだから、候補者としても納得できる付け方じゃないと困る。比例トップで優遇して知識人を擁立したこともある。しかし、大方の場合、あまり文句が出ないような指標を作って、それを基に順位付けをする方式を取った。こうして候補者が有権者じゃなくて、順位を決める政党幹部の方ばかり気にするようになってしまう。「党員をたくさん獲得する」というのは指標の一つだ。確かに党勢を大きく伸ばした人ほど、順位が上になるというのは納得しやすい。でも、ここで大きな問題が起きた。支持者を名前だけ党員にして党費は候補者が出しておく。こういう「幽霊党員」が大量に存在するようになり、大問題になったのだ。

 2000年に当時の久世公堯(くぜ・きみたか)国務相(金融再生委員長、参議院議員、ちなみに作家の久世光彦の兄)が、この幽霊党員の党費をマンション会社に肩代わりしてもらっていた事実が発覚。一ヶ月足らずで大臣辞任に至るというスキャンダルがあった。そこで「拘束名簿式」(順番が最初に決まってる方式)は問題が多いとなった。代わりに「非拘束名簿式」、つまり順番は決まってなくて、選挙をやった後で得票の多い順で順位を決めるという方式に変わったのである。ただし、有権者は政党名でも投票できる。これはこれで問題もあるが、長くなったのでここで一回切ることにする。
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「みんなの党」参議院議員はどこへ行ったか

2019年07月12日 23時06分00秒 |  〃  (選挙)
 「政党」は「私的結社」でありながら、日本でもっとも影響力の大きな組織(の一つ)である。近現代の歴史は政党が基本となる。前から政党の盛衰を書いてみたかったけれど、長くなりそうで書く気にならなかった。自民党から共産党まで、いろんな歴史がある。自民、公明、共産などはまだしも、10年前に政権を取った民主党がどういう経路をたどって「立憲民主党」と「国民民主党」(及びその他の人々)に別れていったのか。1993年に自民党を離党して以来、小沢一郎氏が順番に何という政党に所属していたのか。知らなくてもいいかもしれないが、自分はそういうトリビアに興味があるわけだ。

 今回は「みんなの党」を取り上げる。「みんなの党」に特別な関心があるわけじゃない。ただ、「今はもうない」から書きやすい。6年前の参院選の時はまだあったから、その時に「みんなの党」から当選した議員は今回どうするんだろう。そんなことを思ったのも、調べてみたきっかけだ。2009年の民主党政権が出来た衆院選直前に、自民党の渡辺喜美(わたなべ・よしみ)が離党して、無所属議員の江田憲司とともに新党を結成した。それが「みんなの党」の発足である。自民から山内康一、民主から浅尾慶一郎が参加した。準備不足だったが、東京で柿沢未途が比例区で当選して、5議席を獲得した。
(川田龍平が入党、左から江田、川田、渡辺)
 2010年参院選では、なんと10議席を獲得した。選挙区で3、比例区で7である。公明党が9議席で、つまり「みんなの党」の方が多かった。比例区票でも民主党、自民党に続き、第3党。公明党が第3党じゃなかったのは非常に珍しい。この時点が「みんなの党」の短い絶頂期である。2013年参院選では、選挙区4、比例区4の8議員が当選して、計18議席となった。しかし、比例区の得票は第6位。共産党よりも少ない。理由は簡単で、2012年末に結成された「日本維新の会」が比例区で6議席を取ったからだ。

 「日本維新の会」は、地方政党「大阪維新の会」が国政に乗りだし、石原慎太郎らの「太陽の党」と合同して作られた。2012年衆院選で一躍54議席を獲得し、第3党となった。「みんなの党」を含めて、もう誰も覚えていないような経過をたどって分裂を繰り返した。「結いの党」とか「維新の党」とか、もう誰も判らないだろう。「みんな」と「維新」は協力と対立を繰り返した。そもそも2012年衆院選の前に、「維新」から出馬したいと「みんな」の参院議員3人が離党を表明したのである。2013年12月になると、渡辺代表と江田幹事長の対立が激化、ついに江田グループが離党するに至る。

 2014年3月に、渡辺代表が参院選前に化粧品会社DHCの社長吉田嘉明から3億円を借りていたことが発覚した。2012年衆院選前にも5億円を借りていた。政治資金として届け出ていないため、違法ではないかと追求された。結局「個人的な借り入れ」として法的には不問になったが、政治的ダメージとなり代表を辞任した。浅尾慶一郎が代表となったが、2014年末の衆院選を前に路線対立が激しくなり、解党するに至った。「自民党でも民主党でもない」という位置取りに意味があるように見えた時代は短かった。民主党政権下で、「立ちあがれ日本」とか舛添要一の「新党改革」などが結成された。渡辺喜美や舛添要一が自民党に残っていたら、彼らが首相だったのかもしれない。

 衆議院議員全員を見ていると長くなるから、最初に当選した5人だけ見ておきたい。
渡辺喜美 2014年衆院選で落選、2016年参院選比例区に「維新」から当選。2017年都議選で「都民ファーストの会」を支持して除名。「希望の党」には参加せず、現在、無所属の参議院議員
江田憲司 2013年に離党、「結いの党」結成。2014年「維新の党」、2016年「民進党」、2017年衆院選には無所属で当選。「無所属の会」を経て、院内会派「立憲民主党・無所属フォーラム」。
浅尾慶一郎 2014年衆院選に無所属で当選。2016年自民党の院内会派に入会、2017年自民党入党。2017年衆院選は自民党は山本朋広を公認し、無所属で立候補して落選。
山内康一 神奈川9区の自民党議員から、離党して「みんなの党」比例北関東ブロックで2009年、2012年に当選。解党後、民主党に入党、2014年衆院選に埼玉13区から出馬し落選。2017年衆院選に福岡3区で立憲民主党から立候補して比例区で当選。
柿沢未徒 2009年衆院選で「みんなの党」から比例区で当選。2012年は「みんな」、2014年は「維新の党」で東京15区から当選。一時は「維新の党)幹事長を務めるも解任。民進党を経て、2017年衆院選は「希望の党」から比例区で当選。「国民民主党」に参加せず無所属。現在、院内会派「社会保障を立て直す国民会議」所属。

 四分五裂状況がよく判る。こうやって詳しく見ると大変すぎるので以下は簡単に。
2010年参院選当選、2016年の政治行動
松田公太(東京)  「日本を元気にする会」を経て、2016年は出馬せず政界引退。
水野賢一(千葉)  「無所属クラブ」を経て民進党。2016年は民進党から出馬して落選。
中西健治(神奈川) 2016年は自民党推薦の無所属で当選。追加公認を受けて自民党参議院議員

柴田巧(比例)  16年民進党から比例で落選。17年衆院選「希望の党」で落選。19年維新から比例区立候補
江口克彦(比例) 16年は立候補せず政界引退 
上野宏史(比例) 12年参院辞任、維新から衆議院比例当選。14年落選。17年自民党から比例区当選
寺田典城(比例) 16年立候補せず。17年秋田知事選に立候補して落選。
小野次郎(比例) 16年民進党から出馬して落選。
小熊慎司(比例) 12年参院辞任、維新から衆院当選、14年維新の党、17年希望で当選。国民民主党衆院議員
桜内文城(比例) 12年参院辞任、維新から衆院当選。14年次世代の党、17年希望から出馬して落選。
真山勇一(比例) 12年繰り上げ当選。16年民進党から神奈川で当選。立憲民主党参議院議員
藤巻幸夫(比例) 12年繰り上げ当選。14年死去。
山田太郎(比例) 12年繰り上げ当選。16年「新党改革」から立候補して落選。19年自民党比例区で立候補。
田中茂(比例)  14年繰り上げ当選。解党後、自民党会派入会、16年立候補せず。

2013年参院選当選、2019年の政治行動
松沢成文(神奈川) 次世代の党、希望の党を経て、19年「日本維新の会」から立候補中。
行田邦子(埼玉)  解党後は無所属、希望の党を経て、19年は立候補せず。埼玉県知事選立候補予定。
薬師寺道代(愛知) 無所属クラブを経て、19年は立候補せず、自民党から次期衆院選出馬予定。
和田政宗(宮城)  次世代の党を経て、自民党入党。19年は自民党から比例区立候補中。

川田龍平  結いの党、維新の党、民進党を経て、19年は立憲民主党から比例区立候補中。
山口和之  「日本を元気にする会」を経て、維新の会入党。19年維新から比例区立候補中。
渡辺美知太郎 無所属を経て、自民党会派入会。19年、那須塩原市長選に出馬して当選。
井上義行  「日本を元気にする会」を経て、自民党会派入会。19年は自民党から比例区出馬中。

 大分細かな話になって、選挙、政治家ウォッチャー以外は関心がないかと思う。以上を総計してみる気もないけど、結局「自民党に戻った」が一番多いように思う。「維新」に居場所を求めたものが次ぐ。江田憲司グループは「結いの党」「維新の党」「民進党」を経て、立憲民主党に属する人も多い。「希望の党」から「国民民主党」入りしているのは小熊慎司だけだろう。「みんなの党」に関わって、分裂を繰り返したあげく議席を失った人も多い。まあ渡辺喜美を「改革者」だと錯覚したことが「人を見る目」がなかった。ブームはあっという間に去るものだ。今回の参院選で何人が当選することやら。
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中野量太監督「長いお別れ」

2019年07月10日 21時57分39秒 | 映画 (新作日本映画)
 中島京子原作、中野量太監督の「長いお別れ」は、5月31日公開だから上映は終わりつつある。「旅のおわり世界のはじまり」より前に見てたけど、書くかどうか迷っていた。まあ不満はあるものの、よく出来ているのは間違いなから記録しておきたい。中野監督は前作「湯を沸かすほどの熱い愛」が素晴らしかった。今まではオリジナル脚本で作ってきたけど、今回は原作もの。話も割と淡々と進む。前作ほどの「爆発」がない。前作の宮沢りえは確かに「湯を湧かすほど」の熱量を発揮していたけれど。

 この映画は東(ひがし)一家の物語だ。元中学校長の東昇平山崎努)の70歳の誕生日に久しぶりに二人の子どもが集まる。アメリカで夫と子どもと住む長女の麻里竹内結子)。料理店を開きたい次女の芙美蒼井優)。二人に妻の曜子松原智恵子)が告げたのは、最近父の様子がおかしいということだ。認知症の兆候があるという。他の病気ならともかく認知症は早いなと思ったが、そういうこともあるんだろう。でも中学校長だから年金は安定しているだろうし、まだ妻は元気。次女が独身で不安定なのが問題だけど、だからこそ非常時には頼ることも出来る。

 話は2年ごとに語られる。大震災を挟んだ7年間の記録である。アメリカに住む孫は大きくなり、異文化の中で苦労している。一方、父はどんどん認知症が進んで行く。この二人は大きく変動するが、他の家族の変化は少ない。いや、細かく見れば、長女一家に波があり、次女の生活にもいろんな変化があった。でも「まあ、そういうことも人生にはあるさ」で済むかもしれないのに対し、老病人と子どもにとって7年間は長い。この一家は先に書いたように、経済的にも家族的にも、今の日本の中では恵まれすぎだと思う。そこがどうしても不満を感じるところだ。

 だが見方を変えると、そのことは「老い」にまつわる外的な悲惨さをあまり描かずに済む効果もある。つまり、山崎努演じる父親の「老い」だけをテーマとして見つめてゆくことになる。国語辞典を娘に貸し与えるところなどを見ると、この父親は国語教師だったのだろうか。いつも本を読んでいるんだけど、次第に岩波文庫「相対性理論」を上下逆さまに握るようになる。そういう成り行きを経て、人は老いてゆく。あるいは「帰る、帰る」と言うようになる。ここが家ですよと言っても帰るという。生家のことだと思い、小田急に乗って実家に連れてゆく。しかし、もちろん建て替えられているから、そこでも「帰る」と言う。

 冒頭に遊園地のシーンが出てくる。ラスト近くにその場面がまた出てくる。そこでやっと判る。回転木馬に女の子と乗っている父親こそ、子どもが小さかった時代に戻っていた父親の姿だった。山崎努の存在感の大きさが映画を支えている。案外賞にも恵まれていないんだけど、山崎努の今までの日本映画に対する貢献は非常に大きい。そろそろ「主演男優賞」を贈ってはどうだろうか。

 久しぶりの松原智恵子は若々しいが、若すぎる気もする。山田洋次映画なんかで同じような役柄を演じている蒼井優は、この映画でも儲け役。多くの主演賞を受賞した「彼女がその名を知らない鳥たち」のような「壊れた女」の方が似合うだろうが。岩井俊二の「花とアリス」で初めて見たときから何年経ったのだろう。こういう映画を見ると、実生活でも幸せになって欲しいなと思ってしまいますよね。
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黒沢清監督「旅のおわり世界のはじまり」

2019年07月08日 22時06分06秒 | 映画 (新作日本映画)
 世界的に評価されている黒沢清監督の新作「旅のおわり世界のはじまり」をちょっと前に見た。最近も映画は見てるけど、古い映画の方が多いかな。内外の新作もあまり納得できないことが多かった。この映画もちょっとどうかなと思うシーンがかなりあるが、舞台となるウズベキスタンの風景が美しい。主演の前田敦子が素晴らしいし、いろいろ考えさせされることも多いから取り上げておきたい。

 俳優はほとんど5人だけ。日本からテレビのヴァラエティ番組の取材でウズベキスタンを訪れた4人と現地の通訳。リポーターの葉子(前田敦子)、カメラマンの岩尾(加瀬亮)、ディレクターの吉岡(染谷将太)、ADの佐々木(柄本時生)、そして通訳のテムル(アディズ・ラジャボフ)。テムル役はウズベキスタンの国民的俳優だと言うけど、全然話せない日本語のセリフを一生懸命こなして不自然さを感じさせない。終盤に日本語を勉強した理由を感動的に語る。

 それはシベリアに抑留された日本兵が作った劇場の話である。シベリアから中央アジアのタシケントに移され、建設工事に従事させられた。しかし日本兵は今でも使われる立派な建築物を残した。撮る予定のものがうまく撮れずに困っていた時に通訳が紹介したのだ。実はシベリア抑留史に有名な出来事だけど、ディレクターはうちの視聴者は関心ないと全然取り合わない。その前に葉子が劇場に紛れこんで、夢のようにさすらう美しいシーンがある。同じ劇場ではないかと葉子は乗り気なんだけど。

 冒頭から「湖にいるという怪魚」が全然見つからない。漁師は女がいると魚は寄ってこないという。街中にある小さな遊園地では、ひたすらグルグル回る遊具で葉子は疲れ切る。遊園地の係は「未成年の女の子を何回も乗せれば死んでしまう」と忠告するが、ディレクターは「未成年じゃないし、自分で判ってやってる」と取り合わない。実際、気持ち悪くなった葉子だが、撮影になると笑顔に変わってレポートする。日本側スタッフはいつも時間に追われていて、何でもお金で解決しようとする。そしてウズベキスタンの悪口を言ってる。でもなんだか日本人の方が変である。

 葉子は異国で戸惑い、孤独である。スタッフとも離れて、現地をさまよう。ある日、町をさまよいながら山羊を見る。翌日撮るものがなくなったときに葉子は「山羊を解放する」というアイディアを出す。山羊を買い取って、原野に放すというんだけど、野生動物じゃない家畜を何もない原野に放してどうするんだろう。こういうように、「日本」と「ウズベキスタン」のカルチャーギャップを描かれる。その中で葉子は自分がやりたいことは何なのか、見つめ直してゆく。そして自分は「歌うこと」を求めているんだと判る。日本に帰ればミュージカルのオーディションで「愛の讃歌」を歌うという。大自然の中で歌いあげる前田敦子の姿をとらえて、映画は終わってゆく。前田敦子にとってエポックメイキングな作品だろう。

 黒沢清はホラー映画が多いが、この映画は一応ホラー色が全然ない。一応というのは、地元の警察に追われて逃げ惑う葉子の姿など、ある種のホラー映画的な要素もあるから。でも黒沢映画に多い超現実的な恐怖は出てこない。だけど、日本の現実と切り離され、言語的な理解が不可能な環境に投げ入れられること、それは本質的な意味で「ホラー」なのかもしれない。作りとしては、ドキュメンタリータッチ。ほとんどバラエティ番組のメイキング映像だ。それが作られたものだから、劇中劇的な面白さがある。それにしても、ヴァラエティ番組がくだらないことには驚いてしまう。

 ウズベキスタンは旧ソ連の中央アジア地域の政治的、文化的な中心にある国だ。大昔のシルクロードの道筋でもあり、有名なサマルカンドはこの国。葉子は最初にサマルカンドのバザールで迷い歩く。タシケントのバザールでも猫を追いかけて警察に追われる。このバザールという迷宮が映画の一番大きなテーマと言ってもいいだろう。それはどこの国でもいいんだろうが、黒沢監督に機会が与えられ自由に撮影できた。映画の中のテレビスタッフはウズベキスタンを世界の辺境にように見ている。でもタジキスタンやキルギスの山奥ならともかく、タシケントやサマルカンドはむしろ世界の中心だろう。日本を顧みるためにも面白い映画だった。
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高島忠夫、田辺聖子、千家和也等ー2019年6月の訃報②

2019年07月07日 22時46分32秒 | 追悼
 俳優の高島忠夫が6月28日に死去した。88歳。高島忠夫はよくテレビに出ていて、テレビの印象が強いけど、もともとは「新東宝」の「ニューフェース」(新人俳優の公募)だった。だからたくさんの映画に出ているけれど、東宝に移籍してミュージカル俳優として開花した。舞台の「マイ・フェア・レディ」が評判になったが、もちろんそれは話でしか知らない。日本製ミュージカル映画の傑作「君も出世ができる」に当時の様子が残されている。「嵐を呼ぶ楽団」(1960)もいいなと思う。「がめつい奴」(1960)は舞台で評判になった三益愛子、子役の中山千夏と同じキャストで映画化されている。

 1963年に宝塚のトップスターだった寿美花代(すみ・はなよ)と結婚して「おしどり夫婦」として知られた。1964年には長男が17歳の家政婦に殺害される事件が起こった。有名だけど、僕は9歳だから同時代の記憶はない。その後、芸能界で活躍する次男、三男が生まれたが、当然夫婦には大きな傷が残っただろう。それを隠すように、生来の明朗快活や役柄そのままに夫婦でテレビの料理番組「ごちそうさま」などで共演していた。高齢になって「うつ病」を発症したのも判るような気がする。病気を家族とともに乗り越えてうつ病への啓発活動を行った。そういう晩年を送ったことも忘れられない。

 作家の田辺聖子が6月6日に死去、91歳。女性作家は長命である。文化勲章を受賞しているけれど、僕は芥川賞受賞作品「感傷旅行」(センチメンタル・ジャーニー)しか読んでない。軽妙なエッセイなんかは、新聞や週刊誌で時々読んだ気もするが、ちゃんとした単行本を読んでない。関西で活躍し、恋愛小説や日本の古典に基づく小説が多いから、どうも縁遠いままになっている。だからあまり書くことがない。きっと面白い作品がいっぱいあるんだろうなと思うが、読む日がくるかどうか。

 作詞家の千家和也(せんけ・かずや)が13日に死去、73歳。奥村チヨが歌った「終着駅」でレコード大賞作詞賞。麻丘めぐみ「私の彼は左きき」、キャンディーズ「年下の男の子」、山口百恵「ひと夏の体験」など70年代アイドルの歌をたくさん手がけている。「そういう歌もありか」と多くの人に知らしめたのは功績だ。演歌系ではメガヒットを記録した殿様キングス「なみだの操」や内山田洋とクールファイブの「そして、神戸」など。僕が好きだったのは、三善英史「雨」平浩二「バス・ストップ」などである。
(千家和也)
石坂照子、4日死去、92歳。免疫学者で、夫の石坂公成とともに研究し、アレルギーの仕組みを解明した。
14代沈壽官(ちん・じゅかん)、16日死去、92歳。薩摩焼宗家で、司馬遼太郎「故郷忘じがたく候」の主人公。薩摩焼はもともと豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、島津家が連行した朝鮮陶工が始まり。日韓親善活動にも貢献した。
菅谷文則、18日死去、76歳。考古学者、前橿原考古学研究所所長。
小池和男、18日死去、86歳。労働経済学者。文化功労者。「地的熟練が日本の競争力を支えている」と論証。
松本善明(まつもと・ぜんめい)が24日死去、93歳。共産党の衆議院議員としてロッキード事件などで鋭く追及した。弁護士として松川事件などを担当、67年に旧東京4区で初当選し、2003年まで11期当選。国対委員長を長く務め知名度が高かった。画家のいわさきちひろの夫としても知られる。
 (沈壽官)  (松本善明)
 前エジプト大統領ムハンマド・ムルシが法廷で倒れてそのまま亡くなった。2011年のエジプト民主化を受けて、2012年に選挙で当選した。しかし、その選挙ではムスリム同胞団系の有力者は立候補が認められず、ムルシは有力者ではなかった。政権運営は宗教色が濃く、反大統領デモが起こり軍によるクーデタで失脚した。以後はずっと拘束され、刑事裁判で死刑が宣告されたものの破棄されて審理が続いていた。拘禁中の処遇には疑念が寄せられている。
(ムルシ)
・金大中元韓国大統領の妻、李姫鎬(イ・ヒホ)が10日に死去、95歳。夫ともに韓国民主化運動を支えた。
グロリア・ヴァンダービルト、17日死去、95歳。アメリカのデザイナーで、70年代、80年代のニューヨーク社交界の象徴的人物だという。レオポルド・ストコフスキー(指揮者)やシドニー・ルメット(映画監督)など4回の結婚をした。カポーティの「ティファニーで朝食を」のモデルとも言われているそうだ。
(イ・ヒホ)(若き日のヴァンダービルド)
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フランコ・ゼッフィレッリ、自伝を読むー2019年6月の訃報①

2019年07月06日 23時17分10秒 | 追悼
 フランコ・ゼッフィレッリ(Franco Zeffirelli)の訃報が伝えられた。1923年2月12日~2019年6月15日、96歳イタリアの映画監督、演劇・オペラの演出家である。若い頃に見て大きな影響を受けた「ロミオとジュリエット」(1968)や「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972)を思い出した人も多いんじゃないだろうか。僕らの世代ならテーマ曲を口ずさめるだろう。そう言えば、僕は「ゼッフィレッリ自伝」(創元ライブラリ)を持ってるんだった。1986年に原著が出て、1989年に翻訳された。1998年に文庫化され、2003年に再版されたのが、僕の持ってる本。600頁もある長大な本で、今まで存在も忘れていた。
(フランコ・ゼッフィレッリ)
 この機会を逃せば読まずに終わりそうだから、読んでしまうことにした。ずいぶん掛かったけれど、これはものすごく面白い本だった。20世紀後半の有名人が綺羅星のようにたくさん出てくる。ビックリしてしまうぐらい。またイタリアのパルチザン運動の実情がよく判る。今では「創元ライブラリ」という文庫自体がなくなって、新本では入手できない。Amazonを見たら、文庫版の古書が1万3千円もしていた。

 まず驚いたのが「出生の秘密」。自伝の表記に従いゼッフィレッリと書くが、当然のことだけど僕はゼッフィレッリ家に生まれたんだと思ってた。それが違ってた。彼は「私生児」だったのだ。でも父も母も判っている。フィレンツェに住んでいた仕立屋の父は、足のケガで第一次大戦に出征しなかった。その間に父は多くの人妻に子どもを産ませていた。そして戦争後に39歳のデザイナーと愛し合い、生まれたのがフランコ。父方は母親が激怒し、母方は夫が結核で死の床にあり、どっちも子どもの届け出に反対した。「名無し」になってしまった子どもは市役所がAからZまで順番に名を付ける慣習になっていた。そして、フランコはZで始まる姓を付ける番だった。マジか、この話。

 いろいろあって、結局は父の妹のリーデ叔母さんがフランコを育ててくれた。父とのつながりもあり、英語の家庭教師を付けられた。フィレンツェには長く住み着いた高齢の英国夫人がたくさんいた。それは後に自身で監督した「ムッソリーニとお茶を」(1998)という映画に描かれた。またモームの小説「女ごころ」にも出てくる。この英語体験が彼の人生を決めた。パルチザンを生き抜き、英軍に助けられ通訳となった。後には舞台や映画でシェークスピアを何度も取り上げた。これすべて、英語を通したイギリスとの関係が生きた。もっとも、戦時中に助けられた軍隊は、フランコが「English?」と聞くと沈黙した。そして俺たちは「サイテーのイングランドやろうじゃないよ。」彼らはスコットランド人だったのだ。

 フランコは建築の勉強をしていたが、戦争末期にパルチザンに参加した。1943年にイタリアは降伏し、ムッソリーニも解任されたが、ドイツ軍がムッソリーニを救出して北イタリアを支配した。ファシズム軍に徴兵される前に、多くの若者が山に逃げた。戦時中にフランコはファシズム勢力にも殺されかかるが、教条的な共産党系パルチザンにも殺されかかった。彼は生涯に何度か、死の危機に見舞われたが、生き延びたフランコは信心深くなった。自伝以後になるが、フランコはベルルスコーニ派から出馬して国会議員を務めたという。それは知らなかったが、政治意識は右派的だったらしい。パルチザン側も多くの住民を殺害したのを見て、反共的になったのだと思う。

 戦後になって、フランコはフィレンツェに公演に来たルキーノ・ヴィスコンティに気に入られる。照明助手の仕事に潜り込んでいただけの若者が、どうして有名人に近づけたのか。ヴィスコンティはミラノ公爵家の跡継ぎで、誰もが知る人物だった。その生活ぶりは興味深い。戦時中に作った映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす」が「ネオ・レアリズモ」のさきがけとして評価されていた。しかし、シチリアで撮影した大作映画「揺れる大地」は興行的に失敗した。その内情の批判も出てくるが、「赤い貴族」ヴィスコンティは本気で革命を支持していた。映画を作る資金がなくなり、ヴィスコンティはシェークスピアの「お気に召すまま」を演出する。しかし新味を出すため舞台美術をサルバドール・ダリに依頼した。

 そのため美術や衣装がてんてこ舞いになるが、ある日彼らの衣装が後回しにされていた。直さないと今日の公演で歌わないと言い張る歌手がいるのだという。それは一体誰だとヴィスコンティはチケット取りを命じる。舞台美術に忙殺されていたフランコは、寝るだろうと思いつつ聴きに行くと、圧倒的な歌唱力に寝る間もなかった。それが彼の人生を大きく変えるマリア・カラスとの出会い。そしてテネシー・ウィリアムズの舞台を手がけた後、ヴィスコンティは再び映画を作ろうとする。今度はフランスで作ろうと企画し、フランコは準備でパリを初めて訪れる。ヴィスコンティが書いてくれた紹介状は3通。ジャン・マレージャン・コクトーココ・シャネル。シャネルとは生涯の付き合いとなる。

 こんな調子で書いてると永遠に終わらない。やがてヴィスコンティと決別し、そのため演劇、映画ではなく、オペラ演出が中心となった。マリア・カラスの絶頂期はフランコの演出。そしてオナシスとの出会いと別れ、揺れるカラスを見続ける。そこら辺の人間関係は複雑だ。アンナ・マニャーニローレンス・オリヴィエなどの他、ちょっとの出会いだけど、マリリン・モンロービートルズと仕事をする可能性さえあった。そして、映画「ロミオとジュリエット」で世界的に知られた。主演はレナード・ホワイティングオリヴィア・ハッセー。すぐに言える。忘れられない。ニーノ・ロータの音楽も素晴らしい。

 僕はアッシジの聖フランチェスコを描いた「ブラザー・サン シスター・ムーン」がものすごく好きで何度も見た。これはヴェトナム戦争に傷ついた若者の映画だなと思ったけど、実際監督はそういう意識で作っていた。「ロミオとジュリエット」がアカデミー作品、監督賞にノミネートされた時期に、フランコはジーナ・ロロブリジーダが運転した車の事故で死にかけていた。それが彼を信心深くしたが、同時にフランコの深層意識にはかつてヴェネツィア映画祭で見た市川崑の「ビルマの竪琴」があった!エッと驚くが、そう書かれている。世界的にはあまり評価されなかったが、日本での高評価が嬉しかったとある。
(ブラザー・サン シスター・ムーン)
 まだまだ映画でもオペラでも面白い話が満載だが、もう終わりにしたい。仕事の話もすごいが、家族や友人との関わりも感動的だ。書かれていないことも多いが、20世紀後半のヨーロッパ文化界の貴重な証言。ウィキペディアには彼が同性愛を公言していたと出ているが、セクシャリティに関する記述は少ない。若い頃に女性を妊娠させた体験がちょっと出てくるだけ。(田舎で出会って、都会で多忙なフランコに妊娠を知らせられず、結局流産したとある。)イタリア映画界でもフェデリコ・フェリーニは一言も出てない。まあ1986年で出た本だから、まだ書けなかったことも多いだろう。でも素晴らしく面白く、心に刻まれる本だ。この本を読んで、フランコ・ゼッフィレッリは天国に召されたのだと実感した。
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ガリン・ヌグロホ、「サタンジャワ」と映画

2019年07月03日 22時39分14秒 |  〃 (世界の映画監督)
 いま国際交流基金アジアセンター主催で「響きあうアジア2019」という催しが行われている。東京を中心に、演劇、映画などの興味深い企画をやっている。それらの中でも、僕が一番見たかったのが「サイレント映画+立体音響コンサート」の「サタンジャワ」。7月2日(火)の昼夜2回公演で、この日は仕事があったので夜のチケットを買ってあった。「ガリン・ヌグロホ×森永泰弘×コムアイ」とチラシにある。

 もっと細かく書くと、インドネシアの映画監督、ガリン・ヌグロホの無声映画、日本の森永泰弘の音楽・音響デザインによるコンサート、コムアイ(水曜日のカンパネラ)のダンスで構成されている。音楽はジャワのガムランなどの民族音楽、日本人奏者の弦楽アンサンブルなどが演奏し立体音響システムのエンジニアがいる。詩・マントラの朗読も行われている。というジャンル・ミックスの試みで、すでにベルリンやメルボルンで公演された。この作品は明らかにガリン・ヌグロホが中心の集団アートである。記事のカテゴリーに迷うけど、やはり映画監督も含めてガリン・ヌグロホのことを書いておきたい。
 (ガリン・ヌグロホ)
 アジアにはジャンルを横断して活躍する映画監督がいる。タイのアピチャッポン・ウィーラセータクン、台湾のツァイ・ミンリャンの名前がすぐ思い浮かぶ。インドネシアのガリン・ヌグロホ(1961~)もその一人だ。スハルト独裁時代から映画を作ってきた人で、日本では「枕の上の葉」(1998)が岩波ホールで1999年に上映された。ジャカルタで生きるストリート・チルドレンを描いていて、子どもたちが慕う女性を演じたクリスティン・ハキムが印象的だった。この映画の記憶が強いので、何となく社会派的なイメージを持っていた。しかし最初の頃から、多彩なインドネシア各地の文化がテーマになっていた。

 「サタンジャワ」は判りやすいとは言えない。正直言って僕にはよく判らなかった。上映される無声映画は美しい映像で心を揺さぶられる。20世紀初頭のオランダ植民地時代と字幕に出るが、その後は章の題名しか字幕がない。ジャワ島の民俗の古層に残る「神秘主義」がテーマらしい。入場時に配られたパンフに「あらすじ」が書いてある。植民地時代の貧しき村人は、サタン(悪魔)に頼るようになった。貧しい青年が貴族の娘と結婚するため、サタンと契約を交わすが…という「愛と悲劇の物語」だという。別にストーリー理解が必須というわけじゃないだろうが、途中でなんだか判らなくなったのも事実。

 会場が寒すぎて、冷房よけのシャツは持ってるけど、どうも気がそがれた。暑くても寝ちゃうけど、夏になると会場の冷房は大問題。それはともかく、音楽はいいけどマントラの朗唱が続くのでどうも眠くなる。昔ブータンやインド・ケララ州の伝統舞踊を見に行ったときの、なんだか判らないうちに眠くなった。まあ、そういうもんかと思う。映画は80分ほどで、案外短かった。真ん中で踊ると映画に差し支えるだろうから、ダンスはどうしても目の端になる。日本で初めてダンスを取り入れたというが、効果の判定は難しい。しかし、一番の問題は作者の「神秘主義」で、神秘主義の伝統が日本とつながると言ってたけど、今ひとつ理解できない。日本は神秘主義というより世俗的な社会だと思う。

 今回ガリン・ヌグロホの映画作品もかなり上映された。新作の「メモリーズ・オブ・マイ・ボディ」は4日、7日の夜に有楽町のスバル座で上映される。ジャワの女形ダンサーを描くという。「地域の芸能に根付くLGBTの伝統」とチラシに出ている。ベースとしてはイスラム教であるインドネシアで、なかなか取り上げにくいテーマだろう。今までも政治だけじゃなく、文化的、地域的にも危険なテーマをずいぶん取り上げて来たという。娘のカミラ・アンディニ(1986~)も映画監督で、東京フィルメックス最優秀作品賞の「見えるもの、見えざるもの」が上映される。

 僕はガリン・ヌグロホの初期作品をを2作見た。デビュー作の「一切れのパンの愛」(1991)は川崎市民ミュージアムまで見に行った。これは親子間のトラウマで妻とセックスできない青年が、モデルの妻、写真家の友人とインドネシア各地を撮影旅行してゆく。まだまだ手法的には初期という感じだが、テーマがインドネシアとしては大胆だったんだと思う。ロード・ムーヴィーとしても新鮮で、ジャワ島やバリ島の自然や民俗も面白い。写真家の友人も幼なじみで、同じ女性に思いを寄せていた。危うい夫婦関係を描いていて、東南アジア映画には珍しい。直接の性描写はもちろんないけど。

 その前に「サタンジャワ」のプレイベントで、第2作「天使からの手紙」(1993)を見た。ガリン・ヌグロホの映画はは東京国際映画祭に12本上映されているそうだ。この映画は第7回東京国際映画祭ヤングシネマ部門ゴールド賞を受賞した。かなりファンタジックな作品だが、中身は重い。古い習慣の残る村に住む少年ルワは、両親を失ってから天使に手紙を書くようになるが、ある日返事が来る…。イスラム教はコーラン以前の新旧聖書も認めるから、天使も信じている。でも古い伝統的な慣習も強い。この映画はこの前見た「マルリナの明日」に出てきたスンバ島で撮影された。少年の素朴な行動が村どうしの戦争に発展してしまう様を淡々と描いている。スンバ島の奇妙なとんがった家がフシギである。
(スンバ島の村)
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庭園美術館で「キスリング展」を見る

2019年07月01日 23時03分19秒 | アート
 港区立郷土歴史館を見たあと、白金から目黒に下る道を10分程度、自然教育園庭園美術館が近い。自然教育園は山手線内には珍しい昔の自然を残す場所だ。その一角に旧朝香宮邸、今の東京都立庭園美術館がある。アールデコ様式の華麗な建物は、前に多くの写真で紹介した。そこで「キスリング展」(7月7日まで)が開かれている。僕はすごく好きな画家なんだけど、あまりよく知らない。いろんな美術館で、あの絵いいなと思うとキスリングだった。だから気になるんだけど、まとまったキスリング展は一度も行ったことがない。この機会に是非見てみたいと思ってたら、もう会期末が近いじゃないか。
 
 今回一番驚いたのは、チラシにも使われている絵だ。題名は『ベル=ガズー(コレット・ド・ジュヴネル)』。それだけじゃ判らないけど、解説を読んだらこの絵のモデルはコレットの娘だった。この間読んで記事を書いたフランスの女性作家コレットである。その一人娘は映画などに関わっていたとある。この絵を見て、妻は伊勢丹の袋だと言った。今調べると、現在は変わっている。紙袋の旧デザインを探してみると、2枚目の写真。うーん、確かに似ている!

 モイズ・キスリング(1891~1953)はポーランドのクラクフで生まれたユダヤ人である。フランスで活躍した「エコール・ド・パリ」派の画家だし、名前だけだと日本人には判りにくい。今まで知らなかったけど、ポーランド生まれだったのか。だからこそ、色彩にあふれた音楽のような美しい絵を書き続けたのか。画題は花や果物が多い。裸婦や肖像画、風景画ももちろん多いが、印象に残るのは様々な色だ。
『サン=トロペでの昼寝(キスリングとルネ)』
 『サン・トロペでの昼寝』と題される絵はその代表。コートダジュールの幸福と倦怠感が画面いっぱいから伝わってくる。花の絵も色彩にあふれていて、見ていて楽しい。エコール・ド・パリはモディリアーニユトリロなど破滅的、悲劇的なイメージがあるが、キスリングはちょっと違う。パリへ来て、キュビスムやフォーヴィズムに触れいろいろな影響を受けたが、次第に描き方は古典に回帰していったという。だけど、ポーランドのユダヤ人出身ということで、第二次大戦中はアメリカに亡命している。画面上はあまりそういう不安を感じさせないけど、やはり20世紀の悲劇を背負っている。

 上の絵は『モンパルナスのキキ』。このモデル女性はパリの最底辺を生きて、10代でカフェの歌手、モデルとなった女性である。モディリアーニ、ユトリロ、藤田のモデルとしても有名で、写真家・映画作家のマン・レイの愛人でもあった。本名はアリス・プラン。この絵でも赤と青の色彩が心に残る。

 庭園美術館は庭も素晴らしいが、洋風庭園の奥に日本庭園茶室がある。今まで未公開だったように思うんだけど、今日歩いていたら開いていた。この茶室も重要文化財。
   
 4枚目の写真、庭の池には緋鯉がいっぱい。木陰の中に赤がくっきり。最近はまさに梅雨という感じの天気が続き、庭園美術館もなんかどんよりしていた。それはそれで趣もある。
 
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港区立郷土歴史館ー壮麗な「内田ゴシック」

2019年07月01日 21時17分41秒 | 東京関東散歩
 東京メトロ南北線白金台駅からすぐの「港区立郷土歴史館」に行った。大阪では「東京は特別区だから二重行政にならない」とか思ってるようだが、実際には各区ごとに歴史館のような施設がある。区が基礎自治体だから、学校教育、社会教育に使える郷土意識向上施設がいるわけである。特に港区に関心があったわけじゃなく、元々の建物が見たいのである。元は「公衆衛生院」という施設で、2002年に国立保健医療科学院として埼玉県和光市に移転した。その建物を港区が取得してリニューアル、2018年秋から「郷土歴史館」の他「がん緩和ケアセンター」や「子育てひろば」も入った「ゆかしの杜」として再生された。カフェもある。建物見学だけなら無料。一度は見る価値がある。
   
 とにかく壮麗な外観で、入ったところのホールも圧倒される。これは「内田ゴシック」なのである。内田ゴシックというのは、東大総長を務めた建築家、内田祥三(うちだ・よしかず)の設計した建物のことで、一番有名なのは東大安田講堂。東大に今も残る格調高い校舎は内田ゴシックである。東京を中心にかなり残されているが、ここほど建物を自由に見られるところはないだろう。特に面白いのは4階の旧講堂。残念ながら座ったりできないんだけど、昔の映画に出てきそうなムードがある。
   
 3階には旧院長室旧次長室がある。また旧書庫は今も図書館として利用されている。そういう部屋もいいけど、廊下や階段なんかも面白い。戦前の映画かなんかに紛れ込んだ気分になる。この前見た「明治生命館」もいいけど、ここは医学の研究機関で雰囲気が違う。公衆衛生院は公衆衛生に関する調査研究機関で、関東大震災後にロックフェラー財団の援助で建設された。1940年建築
   
 郷土歴史館は3階、4階の北部分を利用している。小部屋ごとに原始から近代まで展示されているが、港区というだけあって海との関わりが深く、貝塚や漁業などの展示が印象的。また大名屋敷も多くて、幕末の英国領事館焼き討ちも薩摩藩邸焼き討ちも、そう言えば今の港区だ。薩摩藩に飼われていたという犬や猫の墓が興味深かった。でも歴史ファン以外は建物だけでもいいかもしれない。

 設計者の内田は麻布笄(こうがい)町の自邸に住んでいて、この建物が見えたという。気に入っていたらしい。隣にある東京大学医科学研究所も内田の設計。内田ゴシックはウェブ上で調べられるが、主に東京に集中している。できれば他のものも見てみたいと思う。そこから自然教育園庭園美術館も近い。今日はその後庭園美術館に行ったが、それは別記事で。
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