星のひとかけ

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死生観として読んでしまう… 『ウッツ男爵: ある蒐集家の物語』ブルース・チャトウィン著

2020-02-21 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
前回、 若手美術批評家が主人公のミステリ『炎に消えた名画(アート)』を読んで、ブルース・チャトウィンと美術界のことを思い出した、と書きました(>>

それで チャトウィンが書いた、マイセンの磁器コレクターの物語『ウッツ男爵: ある蒐集家の物語』を読むことに、、



『ウッツ男爵: ある蒐集家の物語』 ブルース・チャトウィン著 池内紀・訳 白水社
『どうして僕はこんなところに』 池央耿, 神保睦・訳 角川書店


チャトウィンが書いた小説では、 『黒ヶ丘の上で ON THE BLACK HILL』を前に読んでいます(>>) 〈小説〉というスタイルとしては、 『黒ヶ丘の上で』のほうは双子の兄弟を主人公として三人称で語られる正統派の小説でした。 でも、『ウッツ男爵』のほうは、 ライターである〈私〉がかつて取材で出会った蒐集家ウッツのことを回想する形で物語は語られていきます。 
取材する側の〈私〉については殆んど書かれておらず、私が出会った〈ウッツ氏〉の生涯についてが主題ですので 確かにタイトルの通り 『ウッツ男爵: ある蒐集家の物語』なのですが、 果してそうなのか…?

チャトウィンは物書きになる前は サザビーズの美術鑑定士でした。 オークションにかける美術品を入手するチャトウィンもまたコレクターでした。 その後は各地を旅し、さまざまな人に逢い 物語を収集してはあの〈モレスキン〉の手帳に記す 話のコレクターになりました。 その人生の途上で病に冒され、 自分の死期をつきつけられます。 『ウッツ男爵』は 死の前年の作品、、 ウッツの物語は ウッツの死、 ウッツの葬儀の場面から始まります。

冷戦時代のチェコ、 プラハに住むウッツ氏は、 西側から来た物書きの〈私〉に最初は少し警戒しながらも、 次第に マイセン磁器の歴史やその魅力について 熱く語り始めます。 その話の展開のされ方は 読んでいてもとても興味深くて マイセンについて何にも知らなかった私でも 17世紀のマイセン磁器の誕生の経緯や、 錬金術と陶磁器の関係??

なんと、 神さまが土くれから〈アダム〉を創られたという〈創世記〉と、 土を捏ねて白く艶々した器や人形を創り上げる陶磁器とが結びついて、 白磁は錬金術のごとく(実際 錬金術師が製造の研究をした) 神聖で永遠の命を有するものとして皇帝らに崇められた、、 などという話には引き込まれました。。 (調べたら Wikiの陶磁器や錬金術の項目にも書かれていました)

チャトウィンは このように人に語らせる能力がとても優れていたのだろうな、、と思います。 そうして美術品をコレクトし、 面白い話をコレクトし、 男爵や画家たちやコレクターたちに愛され 世界をめぐっていたのだろう、、と。
だからどうしても コレクターであるウッツ氏にも 取材する〈私〉にも、 両方にチャトウィンの影を見てしまう…

 ***

さきほど、 物語はウッツ氏の死から始まると書きました。
詳しい内容は書きませんが、、 土くれから生み出される磁器の〈生命〉について語りながら、 ウッツ氏は同時に陶磁器の〈死〉についても語ります。 

膨大なマイセンのコレクションを所有しながら、 ウッツ氏はそれらを残して祖国を出て行こうとしたことも描かれます。 
ウッツ氏は本当の(本物の)コレクターだったのだろうか…? 皇帝ルドルフのような驚異の収集熱に生涯を費やしたコレクターとは明らかに異なる、 ウッツ氏の〈むなしさ〉 収集するということ、 所有するということの快楽や満足がやがて行き着く先は…? 
本文では〈道化〉と書かれていましたが、 ウッツ氏の人生は喜劇だったのか、 結局は空虚だったのか、、 それとも ウッツ氏が本当に欲しかったものは マイセンなどではない永遠性(例えば 愛?)だったとか…? 

いろんな読み方が可能な物語です。 そして、 ウッツ氏の背後に見えるチャトウィンの影、 ウッツ氏の実像を探る〈私〉に見えるチャトウィンの影、 〈私〉は果してウッツの実像をつかめたのだろうか…? 〈私〉はなぜ 20年近くも前に取材したウッツ氏の実像を探そうとしたのか…? 失われたマイセンの行方を求めて…? それを解き明かすことだけが目的ではないはず、、 ウッツを語るチャトウィンの影に対しても、 いろんな読み方が可能だと思えます。

ウッツ氏を襲ったチェコの政変、 そして死を意識させた病、、 蒐集の人生が途絶される〈終末〉のあり方にもまた チャトウィンの影に重ねることも、、 深読みのようではあるけれど 可能だと思います。 

 ***

最初から ウッツ氏の物語をチャトウィンの想いと重ねて読んでいたわけではありませんでした。 でも 読んでいくうちに、 そして あの〈一文〉を読んだ時に、 やっぱりチャトウィンと重ねて読まざるを得なくなってしまったのです、、

ウッツ氏がチェコを出て暮らしていた時に 自問する言葉、、

 「おまえは、ここで、何をしている?」 (池内紀 訳)

原語でも確かめました。 What am I doing here?

そうです、、 チャトウィンが最期に自ら編んだ本 『どうして僕はこんなところに』、、 素敵なタイトルですが 原題は What am I doing here  (俺はここで何をしているんだ?)

はっと我に返るような、、 そして 自問し、 自嘲とも 焦燥ともとることが出来るようなこのひとこと。。 『どうして僕はこんなところに』の最初の一文もこのひとことから始まります。 ベッドから身を起こし、 「ここでいったい何をしてるんだ?」(池央耿, 神保睦・訳)

『ウッツ男爵』には もう一ヵ所、 ほぼ同じ言葉が使われます。 ウッツの死後、 その足取りを探っている〈私〉に ゴミ収集の男がかける言葉、、 「いまごろ、こんなところで何をしている?」


マイセンを収集したウッツ、、 話を収集した〈私〉、、 その最後のほうで 私に声をかける 〈ゴミ〉を収集する男、、  What am I doing here?  なんだか、、 胸がつまってしまいました…  


土くれから生まれ、 塵芥に還る…… 

マイセン陶磁器の聖性や永遠性とともに 一度壊れたものは決して元には戻らない儚さ、、 What am I doing here? という自問とともにこの物語を書いたのは、 達観なのか、、 自嘲なのか、、 悔しさなのか、、


そのつづきは 『どうして僕はこんなところに What am I doing here』を再読する時に、 ゆっくり考えていこう、、

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チャトウィンについての映画ができたそうです。 

Nomad - In the Footsteps of Bruce Chatwin (2019) IMDb

チャトウィンとも親交のあった ヴェルナー・ヘルツォーク監督の映画。 
BBCのサイトで昨年の秋に公開されていたようですが 残念ながら今は観れません。 trailerにはチャトウィンの妻エリザベスの姿も写っていました、、 

チャトウィンの遺した言葉、 チャトウィンが集めた物語、、 それらについてはまだこれからも追っていこうと思っています。