6日に書いた マイケル・オンダーチェの『ライオンの皮をまとって』を 土曜日(19日)に読み終わり、、 そのあと直ぐに 新刊の『戦下の淡き光』(作品社、田栗美奈子訳)に取り掛かり 読了しました。
『ライオンの皮をまとって』は 『イギリス人の患者』の前に書かれた作品で、 登場人物もふたつの小説中でつながりがある ということを6日に書きましたが、、 『戦下の淡き光』に関しても、 具体的な登場人物や設定に繋がりは無いとしても 彼らの生きざま、 背負っているもの、 記憶の断片、、 そういうテーマのなかに確かな結びつきがあるということを感じながら そして其処にこそ オンダーチェの文学の鍵があったのか ということを発見しながら、、 感動しつつ読み終えました。。
、、 今はまだ 感想をまとめられる段階ではありません、、 でも ただただ 素晴しい作品でした。
そして 自己満足ながら思うのは、 昨年から続けざまに読んできた 第一次大戦、第二次大戦期を背景にした小説、、 ミステリ作品などのエンターテインメント小説も含めた読書、、
… そのきっかけを作った元と言えば、、 リチャード・フラナガン『奥のほそ道』を読んだときの疑問やわだかまり、、 カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』の 小説という表現方法・手腕の限界、、 そこで感じた《失望》みたいなものが起点になって、、
でもそれは 自分が現代史をよく知らないからかもしれないし、 読書量の未熟さもあるからかもしれないし、、 と思って、、 なんとなくそれから二つの大戦にまたがる小説を追って読んできて…
一昨年になるけれど、M. L. ステッドマン『海を照らす光』も第一次大戦後の心に傷を負った人々の物語だったし、、 感想はここに書いていないけれど、ヘニング・マンケルさんの『北京から来た男』などからも 決して終わりの無い戦争という過去についての怖ろしさを学んだ。。
今、TV放送も続いている フォルカー・クッチャー著のベルリンシリーズでの時代の不穏さや、 ロバート・ゴダード著の《1919年 三部作》に出てきた英国諜報部の活動や、、 実話をもとにした マーク・サリヴァン著『緋い空の下で』のドイツ占領下のイタリアでのレジスタンスの活動、、
つい先月に書いた ユッシ・エーズラ・オールスン著『アルファベットハウス』と、 ピエール・ルメートル著『天国でまた会おう』の戦時下の友情の物語、、
それら全部の読書が このマイケル・オンダーチェの『戦下の淡き光』を読むための《訓練》だったんじゃないかと… そんな風に思えてならない、、 (ほんとうにこじつけのようだけれど…)
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『戦下の淡き光』には 出征する兵士も軍隊も出てきません。 時代が大戦下であるという以外にはごく普通の(そう見えた)家庭の子どもの物語、、 ただし ある日を境に 両親が《仕事》で旅立つ… 姉弟の子どもたちを残して…
あとは 残された少年の目に映る日常の《断片》、、 オンダーチェさん特有の詩的な、 時に謎に満ち、 時に鮮烈な、 その一瞬一瞬が記憶に鮮明に残る断片のコラージュ。。 でも その断片的なコラージュの外側にある《世界》と その世界に翻弄される人生がすこしずつ明かされてくる…
以前、 『ディビザデロ通り』の読書記のときに(>>)書いたように、、
「宙ぶらりんのように見える断片のパッチワークこそが、 人生を構成するかけがえのないパーツ」 なのだ。。
両親は消え、、 少年はやがて成長し、、 記憶のパーツをひとつひとつ繋ぎ合わせて 自分と、 自分を取り巻いていた人々の過去のパッチワークを紡いでいく…
そして たぶん、、 (驚いたことに)
オンダーチェさんの作品は 作品同士の間でも パッチワークをつくることが可能なのだ、、 (もしかしたら そこにこそ、オンダーチェさんが小説を書く理由というものが存在しているのかもしれないし… ご本人は作品を再読しない人だと解説にあったから、 無意識なのかもしれないし、 無意識ならばこそ よく文学批評の世界で言われる《通奏低音》みたいなものが作品同士の間には流れていることに気づかされる…)
10月6日のところで、 『ライオンの皮をまとって』から引用をしました(>>)。 あそこで引用したのはじつは物語の主筋の部分ではなかったのですが、、 あまりにもあの男と女の一瞬が鮮烈で、 小説を読み終えるまでずっとずっと あの一瞬の《その後》を考え続けてしまいました。。
オンダーチェさんの作品にはそういう所があるのです。。 さきほど『ディビザデロ通り』の感想のところで 「宙ぶらりんのように見える断片のパッチワーク」と書きましたが、 まさに《宙ぶらりん》で置き去りにされてしまった断片的な物語がいつまでも心に残り、、 でも、 今回気づいたのです、、 その《宙ぶらりん》のピースをオンダーチェさんの他の作品のなかで発見することが出来るのかもしれないと。。。 それは正しい読み方ではないかもしれませんし、、 具体的に物語が繋がっているわけでもないのは解っています、、
、、 でも、 (読み手としての)理解のヒント、 より深く理解するためのヒントには成り得そうだと思うのです。。
だから 『ライオンの皮をまとって』を読んで、 『戦下の淡き光』を読んで、 これから再び『イギリス人の患者』を読もうと思います、、 きっと気づくことがあるはず…
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もうひとつ、 面白い発見をしました。 オンダーチェさんの作品に出てくる《落下》というモチーフ。。 これは物語のネタばれになってしまうので例は挙げませんが、 「オンダーチェ作品における《落下》と《把握? 拾得?》の解読」 なんていう論考が誰か書けそうではないかしら・・・? ちょっとここにも注目すると面白いと思う、、 笑
「あれから何年も過ぎ、こうしてすべてを書き留めていると、ロウソクの光で書いているように感じることがある。 この鉛筆の動きの向こうにある暗闇で何が起こっているのかわからない気がする。 時の流れから抜け落ちたような瞬間に思える。 聞くところによると、若き日のピカソは、変わりゆく影の動きを取り入れるため、ロウソクの光だけで絵を描いたそうだ。少年の僕は机に向かい、世界中に広がっていく詳しい地図を何枚も描いた。…」
(『戦下の淡き光』より)
ロウソクの光の空間だけに浮かび上がった鮮烈な絵、、 ここではピカソと名を挙げていますが、、 思い浮かぶのはまさに「カラヴァッジョ」、、 (『戦下の淡き光』には出てきませんが)オンダーチェさんの作品になぜ「カラヴァッジョ」という名の人物が登場したのかもここからも想像されます、、
《記憶》というロウソクの光に浮かび上がった 過去という小さな断片。 しかし その断片をつないでいくと、 世界中に広がっていくほどの地図ができる… その時代に生きた人々をも内包した物語という大きな地図が…
それこそが 文学の秘める醍醐味。。 それを 『戦下の淡き光』では味わうことが出来ました。
さて、、 二十数年ぶりの 『イギリス人の患者』へ…
そして また戻って来ましょう…