小さな幸せ。
電車の中の人々の、いつもとは違うやすらいだ表情。
お堀端を彩る新緑と花々。
上野公園前は、小さなリュックを背負った子供たちでいっぱい。
その一群と離れて、西洋美術館へ、、、。混雑を想像していたけれど、案外GWは遠くへ出かけてしまうものだし、それに明日の日曜美術館が、この「ジョルジュ・ラ・トゥール」の特集のはずだから、その後は急に混むかも知れない、、、そんな予想が当ったのか、とてもゆったり鑑賞できた。
私の知っている「ラ・トゥール」は、お花の絵をたくさん描いたファンタン・ラ・トゥールだけだった。でも、「ロウソク1本だけの光源に照らされた人物像を描いた画家」と教えられ、レンブラントや、カラヴァッジョのような光と闇の効果を思い浮かべて楽しみに見に行った。
・・・それはとても静かで、敬虔な祈りのような絵だった。
中でも、ラ・トゥールが多く描いたという「マグダラのマリア」をテーマにした、物思いの姿の1枚や、そして、、、
私が最も心惹かれたのは、ほんの12年前に発見されたばかりだという、「荒野の洗礼者聖ヨハネ」(写真)
マグダラのマリアも、洗礼者聖ヨハネも、ポーズは似通っている。聖ヨハネの子羊に向けたまなざし。性差を超えたような、優しい表情。なめらかな胸や手にも、中性的な美しさがあるけれど、でも、堅い肩から首は、若々しい男性のもの。その美しさ。
総てを見終わって、もう一度この絵の前に立って、「あの膝頭は、右脚だろうか、左脚だろうか」と話をしていた。
ふと見れば、前屈みに子羊の方を向いているので右脚に見える。けれど、絵の左端に向かう影が、もう片方の脚を包む衣服であるから、膝は左脚のものだとわかる。そうすると、子羊の前に屈んでいるしなやかな身体が、両脚を大きく開いて上半身を大きく捻った、若々しく逞しい、凛々しい姿であることに気づく。
この絵のA4版のものを買ってきて、家に帰って、今までずっと飾ってあったオフィーリアの絵と交換した。オフィーリアの美しさももう充分に堪能したから。。「荒野の洗礼者聖ヨハネ」と、小さなポストカード版の「書物のあるマグダラのマリア」が、リビングの片隅に置かれた。。。いつまでも見飽きないその絵を見ていて、、、この美しさが何かに似ていると感じていた、、、、そう、、弥勒菩薩のお姿、、。前屈みの、なめらかな胸と腕の、、、半跏思惟坐像。、、半跏ではないけれども、その静かな思索と祈りのようすが、私たちの祈りの対象になるのだろう、、、そんな風に思った、、、。
、、、夜、、、、。
クルマの少なくなった街では、いつもより街灯りが、ずっとずっと遠くまで、キラキラと見渡せることに気づいた。空気がいつもより透明なのだ。地平のはるかまでずっとずっと、無数に散りばめられた街の光は、宝石のように輝かしい。でも、そのひとつひとつはちっぽけな人間ひとりの生活の明かり。それが集まっているだけ。。だから華やかなようでも、じつはとてもささやかな光なのだと思う、、、、1本のロウソクのように。
電車の中の人々の、いつもとは違うやすらいだ表情。
お堀端を彩る新緑と花々。
上野公園前は、小さなリュックを背負った子供たちでいっぱい。
その一群と離れて、西洋美術館へ、、、。混雑を想像していたけれど、案外GWは遠くへ出かけてしまうものだし、それに明日の日曜美術館が、この「ジョルジュ・ラ・トゥール」の特集のはずだから、その後は急に混むかも知れない、、、そんな予想が当ったのか、とてもゆったり鑑賞できた。
私の知っている「ラ・トゥール」は、お花の絵をたくさん描いたファンタン・ラ・トゥールだけだった。でも、「ロウソク1本だけの光源に照らされた人物像を描いた画家」と教えられ、レンブラントや、カラヴァッジョのような光と闇の効果を思い浮かべて楽しみに見に行った。
・・・それはとても静かで、敬虔な祈りのような絵だった。
中でも、ラ・トゥールが多く描いたという「マグダラのマリア」をテーマにした、物思いの姿の1枚や、そして、、、
私が最も心惹かれたのは、ほんの12年前に発見されたばかりだという、「荒野の洗礼者聖ヨハネ」(写真)
マグダラのマリアも、洗礼者聖ヨハネも、ポーズは似通っている。聖ヨハネの子羊に向けたまなざし。性差を超えたような、優しい表情。なめらかな胸や手にも、中性的な美しさがあるけれど、でも、堅い肩から首は、若々しい男性のもの。その美しさ。
総てを見終わって、もう一度この絵の前に立って、「あの膝頭は、右脚だろうか、左脚だろうか」と話をしていた。
ふと見れば、前屈みに子羊の方を向いているので右脚に見える。けれど、絵の左端に向かう影が、もう片方の脚を包む衣服であるから、膝は左脚のものだとわかる。そうすると、子羊の前に屈んでいるしなやかな身体が、両脚を大きく開いて上半身を大きく捻った、若々しく逞しい、凛々しい姿であることに気づく。
この絵のA4版のものを買ってきて、家に帰って、今までずっと飾ってあったオフィーリアの絵と交換した。オフィーリアの美しさももう充分に堪能したから。。「荒野の洗礼者聖ヨハネ」と、小さなポストカード版の「書物のあるマグダラのマリア」が、リビングの片隅に置かれた。。。いつまでも見飽きないその絵を見ていて、、、この美しさが何かに似ていると感じていた、、、、そう、、弥勒菩薩のお姿、、。前屈みの、なめらかな胸と腕の、、、半跏思惟坐像。、、半跏ではないけれども、その静かな思索と祈りのようすが、私たちの祈りの対象になるのだろう、、、そんな風に思った、、、。
、、、夜、、、、。
クルマの少なくなった街では、いつもより街灯りが、ずっとずっと遠くまで、キラキラと見渡せることに気づいた。空気がいつもより透明なのだ。地平のはるかまでずっとずっと、無数に散りばめられた街の光は、宝石のように輝かしい。でも、そのひとつひとつはちっぽけな人間ひとりの生活の明かり。それが集まっているだけ。。だから華やかなようでも、じつはとてもささやかな光なのだと思う、、、、1本のロウソクのように。