とにかく口立てで話を丸暗記して喋る、という落語の覚え方は「型」優先のようでいて、というかだからこそ、本心が伝わるのがありありとわかる。「型」というのが形式主義ではなくて、お互いの意思を了解できる場になっているみたい。
あまり人間関係に器用でない各登場人物の性格と悩みと成長をきめ細かくオーソドックスに描きこんでいるのが魅力。
浅草のほおずき市・都電荒川線(これは本当は都電=市電ではなく、郊外の私鉄・王子電車が戦時統制で統合されたもの)など、ちょっと古めかしい東京の風景をふんだんに見られるのもいい。
落語というのは「生」ものだと思うので、映像にしてしまうと缶詰になって別ものになってしまう。
だから芸そのもので笑わせたりする、というのとは違ってくる。単純なところでは笑うべきところがスベッたり、スベっているところが受けたりするところで笑わせている。
それでいて大詰めの「火焔太鼓」で国分太一は、リクツでどううまくいったのか納得させるのではなく、とにかく見せて聞かせて納得させなくてはいけないのだから、すいぶんハードルは高かったが、乗り切った。
無愛想の国から無愛想をひろめに来たような美人・香里奈のお世辞にもうまくない喋りをカバーする使い方もうまいもの。
(☆☆☆★★★)