リンカーンが大勢に囲まれながら孤独でいる、あるいは孤高でいながら周囲に人をひきつけてやまない姿に、たとえば「若き日のリンカーン」を撮ったジョン・フォードや、タスクフォースを率いていた頃の黒澤明の姿がだぶる。スピルバーグ自身がそういうレジェンドを果たすべき立場と自覚してると思しい。
ダニエル・デイ=ルイスはうまいというのを通り越して途中からリンカーンその人を見ている気分になる。
ゲティスバーグの演説を直接見せず、聴いていた兵士たちが思い出して暗誦するくだりから、言葉を一方的に伝えるだけでなく「伝える」ことの大切さを端的に示す。
リンカーンの奴隷制廃止に対する強い意志がすべてのドラマの推進力になってはいるわけだが、映画が切り取ったドラマの葛藤を担うのはもっぱら周囲である構造は、たとえば「赤ひげ」の新出去定が不動の強固な意志のシンボルとしてありドラマは若い保本が担う構造をちょっと思わせる。
奴隷制が廃止されたことは誰しも知っていることだが、その議会での採決を議員たちが一斉に挙手をするといったはしょった描き方でなく、ひとりひとりの名前を読み上げ、それぞれが賛成反対を表明するという長丁場にして、これがだれずに大きなうねりをもっているあたり、演出力の見せ場になっている。
オープニングで黒人兵が白人兵とまざって泥まみれになって戦う姿が当然のように描かれるが、「グローリー」(1989)までは南北戦争での黒人部隊の存在自体描かれたことはなかったと思う。
それが当然の前提になっているのだから、時代の変化は早い。
議会全員が当然のように男で、女に選挙権を渡すことがまるで宇宙人に選挙権を渡すように考えの外になっているあたり、いったん変わるとそれまで当然だと思っていたことがいかにその場限りのものだったかわかる。
日本で「伝統」なんて言われていることの大半にもいえることだろう。
南軍の司令官ロバート・E・リー将軍が出てくるシーンで英語字幕が出ていないところに日本語字幕が解説的に出てくるが、あれだけでアメリカ人は誰だかわかるのだろうか。
マイケル・サンデルの番組で知ったのだが、リー将軍はもともと合衆国連邦の軍人でありリンカーンに北軍の指揮官就任を要請されたのを南部ヴァージニア州の出身であることを優先して南軍の司令官になったのだという。
究極の選択もいいところで、それで敗軍の将になったのだからこれ以上ないくらいドラマチックなキャラクターで映画にならないのが不思議みたいなものだが、やはり扱うにはデリケートな問題があるのだろうか。
(☆☆☆★★★)
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