原作小説はかなり短いもので、ドラマ化はそれぞれアプローチの仕方が違う。
原作には仇役らしいキャラクターがおらず、まずコクトー版だとガストンという乱暴者を創作してこれを野獣を演じているジャン・マレーと一人二役で演じさせ、ラスト野獣の屋敷に殴りこんだガストンが矢を射られて絶命するとみるみる野獣の姿になる代わりに野獣が本来の王子の姿(もちろんマレー自身)に戻る。つまり、美醜において内面と外観が逆だったのがそれにふさわしく戻ることになる。
あと、野獣のメイクをしっぱなしだとせっかくトップスターにして超美男子を主演に迎えているのに全然顔が見えないという困ったことになるのを防ぐという事情もあるだろう。
ディズニー版だとガストンは出てくるが王子とはまったくの別の顔を持つキャラで、村人を煽動して野獣の屋敷を襲わせるただのあくどい乱暴者になっているのが、いかにもアメリカ的。(それにしても、ラストに野獣から戻った王子の顔はつまらなかった)あと、ガストンは明らかにコクトーの創作からもってきたのに何か断ったのだろうか。
で、今回はいわば本家フランスでのリメークになるが、ガストンは出てこない(フランス語の映画を新しくなったスカラ座で見たのは初めての気がする)。
代わりに美女ベルの父親が破産して息子(ベルの兄)がこさえた借金を取り立てにくる無法者の集団が仇役になるのだが、金絡みの話が多くておとぎ話としては殺風景だし、よく考えてみると結局兄は借金を返していないのだな。いくらムチャな借金でもスルーはないでしょう。
野獣と王子はヴァンサン・カッセルが演じているわけだが、王子として顔出しするのは過去の場面ということになる。ベルが鏡をのぞくと水面のように揺らいで過去が向こう側に再現されるというのは、コクトーの「オルフェ」の鏡の向こうの世界に入っていくシーンのオマージュ(というのか)だろう。
なぜ王子が野獣の姿になったのかというと森の精を殺したためというエコロジーに配慮したみたいな理由付けだが、困るのは出だしから森や野山が人工的なセットやCG製なもので、なんだかちぐはぐ。結局CGショーが見せ場になり、野獣の醜い姿になったコンプレックスや畏れ、ベルの姿形に惑わされない賢さといったドラマのポイントがお約束で終わってしまっていて、詩情や美意識も薄い。
絵本を母親が幼い子供たちに読み聞かせする内容が本編になるという趣向も底が割れている。
まったくの余談になるが、ジャン・マレーが来日した時に向田邦子がエレベーターで一緒になって至近距離で見て「顔立ちは気恥ずかしいほど端正だった。目じりに大きな目やにがついていた」などとエッセーに書いている。
(☆☆☆)
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