原作は初めの方を読んでストップしていて、この内容を実写でやられたら正視に耐えないかと思っていたら、逆に生身の肉体を持った役者がやることで思春期の生理的な生々しさが自然なものになって抵抗感が薄れた。
原作でもモティーフにしているルドンの画の目玉をCGで動かして空に浮かべたりしているのだが、そうなるとルドンをもとにした水木しげるの妖怪ベアードみたいに見えてくる。
自分はみんなとは違うという意識とそれでも周囲と調子を合わせてしまう齟齬を半ば自分から離れた外から見ている自意識を「目」として形にしたものといっていいだろう。
興味本位のSM劇にせず、この自意識過剰は実は主人公だけが囚われていて他の人間は無関係でいられているのかというとそうではないのがわかってくる一種の成長ドラマとして成立させている。
原作でもモティーフにしているルドンの画の目玉をCGで動かして空に浮かべたりしているのだが、そうなるとルドンをもとにした水木しげるの妖怪ベアードみたいに見えてくる。
自分はみんなとは違うという意識とそれでも周囲と調子を合わせてしまう齟齬を半ば自分から離れた外から見ている自意識を「目」として形にしたものといっていいだろう。
興味本位のSM劇にせず、この自意識過剰は実は主人公だけが囚われていて他の人間は無関係でいられているのかというとそうではないのがわかってくる一種の成長ドラマとして成立させている。
玉城ティナの「クソムシ」連発はショッキングだけれど、何度も繰り返されるうちに、日本語には罵倒や侮蔑のヴォキャブラリーが乏しいという説を思い出して、ちょっと残念にも思った。
先日の「HELLO WORLD」も文庫本を読むことに自分は特別感を持つキャラクターが主人公だったのが偶然の一致にせよ面白いが、実は昔からあったことだが、スマホ時代になるとなおさら効果的だろう。