田中泯の、そこにいること自体が踊り、みたいな、誰でもできそうでしかしおよそ真似できる者はいないであろう踊り。
学校を作って教えれば成功しますよといった甘い誘いがあったが、バカ言うなといった感じで断ったらしい。
すべてが一回こっきり、唯一無二であると共に、縁起でもないかもしれないが、この踊りだったらたとえ寝たきりになっても、あるいは亡くなってからですら存在しえるのではないかと思った。
踊りそのものもだが、それを見ている外国人たちのなんともいえない目のみはり方が面白くて飽きない。
言葉の壁を最も突破しているというより言葉以前のコミュニケーション、そして言葉を否定するのではなくそこから言葉が新しく湧き出す体の踊り。
スーザン·ソンタグが見にきていたのがちょっと写り、モーリス·ベジャールも来ていたらしいが写ることはない。特にベジャールにはどう映ったのか興味を引かれる。
参道みたいな場所の踊りを周囲を大勢が集まって見ている中、急ぎ足で通りすぎる人もいる情景に、子供の頃の記憶と照らし合わせて虫たちはヒトとは違う時間を生きているといったナレーションが、かぶさるのがアイロニカル。
3.11で消失し人っ子ひとりいなくなった町で残った生き物たる蜘蛛を真似て踊りだすのにびっくり。人がいなくなったことには、ほぼ感慨を持つことはないのだね。生き物に区別なしというのは見ようによっては人間中心主義の否定でアンチヒューマニズムともとれる。
自分の子供時代のことを「私の子供」と呼ぶあたり、ちょっと水木しげるが自分のことを水木サンと呼んでいるみたいな他人事感がある。
汎生命的世界観というか、ヒトや自分が中心というのとは違うのかもしれない。
その「私の子供」を山村浩二のアニメーションで表現しているのがまた面白い。
抜粋で出てくる「たそがれ清兵衛」の絶命シーンの動きもまた踊りというのが納得いく。