冒頭の津波に洗われた線路に魚がごろごろしている映像から、至るところで魚が通奏低音のようにモチーフとして顔を覗かせる。
牧師夫婦と娘が食べる魚の酢漬から、ラストの宮沢りえ⋅オダギリジョー夫妻が食べる回転寿司の上に乗っている魚の刺身に至るまで一貫している。
牧師が出てくるせいか、魚はキリストの象徴だという話を思い出した。ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ
<イエス キリスト 神の 子 救い主>この文章を構成する各単語の頭文字を順番に集めると、「ΙΧΘΥΣ」となり、これはギリシャ語で「魚」を意味する単語となるといった調子。
<イエス キリスト 神の 子 救い主>この文章を構成する各単語の頭文字を順番に集めると、「ΙΧΘΥΣ」となり、これはギリシャ語で「魚」を意味する単語となるといった調子。
「甘い生活」の冒頭はヘリコプターに吊られたキリスト像で始まり、海岸に打ち上げられた怪魚で終わる。
原作を読んでみるか。
「キリエのうた」にしてもそうだが、日本映画でもキリスト教的なモチーフが顔を覗かせることもあるみたい。「ガメラ2」みたいな例は前にもあったが、これだけ文化的なミックスが進んだ状態では不思議はないか。
宮沢りえがデビュー作以来書けない小説家という役で、線路にごろごろしている魚というのは311の大津波の被害の表象でもあるわけだが、その災害を作品にしてかなり大きな賞を受賞していて、その「ウソっぽさ」を内心忸怩たる思いを抱いている。
全体とするとやまゆり園での大量殺人をモチーフにしているわけだが、
ここに出てくるキャラクターは犯人を含めて小説なり絵なり人形アニメなりといった創作行為に関わっている。
磯村勇斗の絵の才能がありながら途中から障害者は役に立たないから殺していい、あるいは殺すべきだと言い出す役はどこかで見覚えがある。
芸人でも小説家でもいいが、ああいうヘンな具合に歪む人いませんでしたっけ。
表現行為というのは「役に立つ」という価値判断とはそぐわないところがあるので、ムリヤリこじつけると自分に返ってくるのだね。
宮沢と磯村、あるいは宮沢と二階堂ふみとの論争は相当に宮沢にとって弱みを抱えた状態で相対しているわけで、相手のそれぞれの「正論」をそんなことはわかっているわと宮沢が言葉にする以上に個人的に内心反論しながら見ていた。
ときどき特に意味なく人物をフレーム内で横倒しにしたりするカットが目につく。あれ何だと思ったのだが、こじつけじみるが三日月の象徴ではないかな。
三日月が血まみれの鎌と自然とダブルイメージになるラストから逆算するとそう思う
大量虐殺を画にしなかったのは正解。