prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「長い散歩」

2006年12月09日 | 映画
元校長の老人が、虐待されている幼稚園児くらいの女の子を連れて旅に出る話。

基本的にいい映画だとは思うのだが、細かく見ていくとけっこうアラは見える。
たとえば、隣室で虐待が行われているのを感じたとして、いきなりさらってあてもなく旅に出るか? その前に公的機関に連絡すること考えないか、とか。
校長とはいいながら家庭的に失敗している分、何かしらの思い入れがあるのだろうと思うが、ロジカルに納得できるように描いているわけではない。もっとも、女の子に天使の羽が初めから生えているように一種のファンタジーとして見るべきなのだろう。
空を飛ぶように見えるところがクライマックスになりそうで、あとかなりシーンが続くのは長く思えた。

女の子の母親がまったく娘に関心がないのはありえることだけれど、老人と直接話す場面がないのはすっぽ抜けに思える。
(☆☆☆★)


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「徳川女刑罰史」

2006年12月08日 | 映画
公開当時、佐藤忠男がそれこそ砕け散れといわんばかりの酷評を浴びせたので、逆にどんなヒドいものかと期待したら、今の目で見るとエログロナンセンスのうち、エロとグロはどうってことないし、「徳川いれずみ師・責め地獄」ほどナンセンスが楽しめるわけではない。ちょっと、がっかり。
第三話のいれずみ師役の小池朝雄とサディストの代官の渡辺文雄の熱演のみ印象的。
(☆☆★)



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「幻の湖」

2006年12月06日 | 映画
1982年、原作・脚本・監督 橋本忍。
「シベリア超特急」「北京原人」と並ぶトンデモ映画ないし底抜け超大作としてやたら面白おかしく語られた映画。東宝50周年記念作品でもある。

どれほどのものかなと思って見ると、初めのうちやたらえんえんと続くジョギングのバックに琵琶湖畔の四季の風景を取り入れた大作らしい構えで、これだったらもっとチンケな映画がいくらでもあるぞと思っているうちにだんだん冷酒のようにデンパが効いてくる。

本筋はヒロインがいつも一緒に琵琶湖畔をジョギングしていた犬が東京の日夏という作曲家に殺されたのでジョギングでまかして仇をとり、その後出刃包丁で刺し殺すというもの(書いていても意味がわからん)。

わざわざ東京に出てきてその日夏に会わせろと事務所に押しかけて要求し(その受付では日夏に妊娠させられたらしい女の子が人前で泣いている)、容れられないと包丁をカウンターの上にどんと置き(布で包んだままだから見えないというのも妙)、追い返されると「東京中の人間が日夏をかばおうとしている」と呟くあたり、完全に電波が入ってます。

余談だが、日夏という名前は「七人の侍」のネタ本である「本朝武芸小伝」の著者日夏繁高からとったものではないか。

ヒロインは最初の方で誰も吹いていない笛の音が聞こえて、しかもその相手と運命のめぐり合わせを感じてしまうのだから、大丈夫かと思う。
「西鶴一代女」ばりに居並ぶ石仏のうちのどれかに今まで出会った相手が似ているなんていうセリフがあったと思うと、いきなり外人のソープ嬢(実はアメリカの情報機関員!)が、空の轟音を聞いて「ファトムか。いやイーグルはもう実戦配備されている」と唐突に言い出すのだからたまらない。それが字幕で出てくるのが、またなんともいえない味わい。
この外人が「白い犬」「白い犬」「白い犬」「走る女」「走る女」「走る女」と繰り返しタイプしているあたり、なにやら「シャイニング」みたいでホラーです。

笛を吹く相手(隆大介)は、東京から琵琶湖までわざわざ笛を吹くためだけに来ているらしく、しかもその後アメリカに渡ってペースシャトルに乗り込み、宇宙で琵琶湖の上に笛を置く(意味わかります? でもその通りなんですよ)。

雄琴のトルコ(今ソープ)嬢、ジョギング、愛犬の敵討ち、人気作曲家、浅井長政の妹のお市の方と笛を吹く地侍のロマンス、スペースシャトル、といったどこをどうやると結びつくのかわからない要素がディテールのリアリティというかもっともらしさ無視でぶちこまれている。

もう少しもっともらしく言うと、こういう変さ、というのはここでいきなり出てきたわけではないと思う。
仇を刺した後ギャグみたいなタイミングでスペースシャトルが発射されるあたりの飛躍は「八つ墓村」の戦国時代の落武者が村に逃げ延びてきた情景からいきなり現代のジェット旅客機につないだオープニングと発想は近い。
あれも原作はオカルト風の道具立てはあっても事件そのものは合理的に説明されるのを、強引に本物のオカルトを持ち込んでおかしくしてましたからね。

最近の橋本の著書「複眼の映像」で、「影武者」「乱」に至るまでの黒澤明の共同脚本システムの崩壊を、崩壊にも一定の順序があると書かれているが、御当人にも同じことが言えるかも。

「八甲田山」でシナノ企画(創価学会系)と組んだからおかしくなったのではないかというまことしやかな噂あり(いや、ただの噂ですよ)。


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「手紙」

2006年12月05日 | 映画
差別され迫害される主人公は同情を誘うが、見ている側は差別し迫害する側であることの方が多い。ひねくれた見方か知らないが、この手の泣けるといわれる映画を見る時は、あまり気持ちよく泣いてないで、そのことをできるだけ忘れないようにして見ようと心がける。

そのため恋人の父親役の風間杜夫の、君も人の父になることがあったら、私のこの(手切れ金をやるから別れろという)理不尽な申し出もわかってもらえるだろう、といったセリフに、主人公が差し出された金を持っていくのも含めてうなずいたりして、作品の作りに納得できた。
残念だが、自分があの父親の立場だったらああいう風に振舞わざるをえないだろう。社会や世間を悪者にして指弾するといった作りではない。

泣きはしなかったが、感心はした。いいところに目をつけたと思うし、考えさせる。
CBSドキュメントで犯罪者と被害者の遺族が対面するのがあったが、家族同士の対面というのは直接はまったく関係ないはずなのに、なぜかそう言いきれなくなってしまう。人というのは嫌でも拒絶を含めて「縁」を作らないではいらないらしい。

兄弟が手紙のやりとりだけで直接話す場面がまったくない、という趣向が、絆が切れそうで切れない、切りたくても切れないという距離をよく出した。

主人公をお笑いタレントにした設定はハードルが高いのではないかと思うが、よくクリアして、ラストで大いにものをいった。
(☆☆☆★)


「ヴィトゲンシュタイン」

2006年12月04日 | 映画
手近にあるヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」をめくったら、映画にも出てきたバートランド・ラッセルの「序文」が、「序文」にもかかわらず後半に収められている。
映画だと「序文のおかげで売れたんだ」なんて言われているのが、なんだかおかしい。

哲学書というのは難しいに決まってるのだけれど、これはもうなんだか高等数学の数式を見せられているようで、ひとっつも意味がわからない。それで伝記(?)映画を見ようっていうんだから自分でもなんでDVD借りたのかよくわからないくらいだが、黒バックに原色の衣装や装置を置いた活人画風の画作りにひっかかったのかなと思う。
フレドリック・ブラウンの「火星人ゴーホーム」に出てきそうな緑色の火星人なんて出てきて、口が悪くやたらと話をまぜっかえす。

「語りえないことについては、沈黙しなくてはいけない」という有名な結語に対しては、家族がナニわけのわからないこと言ってるんだか、とつっこんだりしているわけで、なんとなく、著書をえんえんと講義されるようなの想像していたが、別にヴィトゲンシュタインの思想の絵解き(なんてこと、できるのか)というわけではない。
わかる人が見れば別か知らないが。

監督はホモでエイズで死んだデレク・ジャーマン。



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「酔画仙」

2006年12月03日 | 映画
李王朝末期の朝鮮に実在した出身の放浪の天才画家チャン・スンオプの半生を描く。
ごひいきチェ・ミンシクの演技はいつもほどオクターブを高くせず、監督(これでカンヌで監督賞を得た巨匠イム・グォンテク)の体質のせいかいつも酒と女をそばに置いていた割に放蕩無頼という感じは薄いが、狂気がかったデモニッシュな迫力は相変わらず。

80分に及ぶメイキングがついていて、困ったことにこれが本編より面白い。
本編は、19世紀後半の李王朝末期の社会がどんなものなのか予備知識がこちらにないせいもあって、正直かなりわかりにくい。
韓国の四季の風景を追った画作りなど完全主義的に重厚な分、ただ拝見する感じになってしまってそこに至るプロセスを見る方が興味深かったりする。

20億ウォンを投じた巨大オープンセットをはじめ、当時の風俗・風景を再現するのに大変な手間がかかっている。若い俳優には当時の立ち居振る舞いがまったくわからず、日本で着物の生活を再現するような手間がかかるみたい。

朝鮮の山水画というのが中国のとどう違うのか言葉にしずらいが、日本のとも微妙に違う。
面白いのは日本の連歌のように何人もの画家が集まってそれぞれが描いた絵をつなげて大きな一つの絵を描く習慣があったということ。

日本に併合される少し前なので、スンオプを敬愛する日本人などが出てきたり、使われている文字がハングルではなく漢字だったりする。


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「SAW3」

2006年12月02日 | 映画
このシリーズ、ゲーム感覚で人を痛めつけるヒドい残虐場面が売りには違いないのだが、変なところで倫理的だったりする。

ここでは聖書でいう「復讐するは我にあり」、つまり人が人に復讐してはいけない、我(神)に任せろ、というモチーフがほの見え、犯人のジグゾーが人の生死を弄ぶ一方で当人が生死を賭けている分、神がかって見えたりする。
「セブン」のジョン・ドゥみたいね。

テレビで放映した一作目をちらっと復習の意味で見たら、観客をひっかけるツボの以外で忘れているところが多いのでびっくりした。今回、観客をひっかける仕掛けは、やや物足らず。
前二作とつながる場面がかなりあるのだが、はて、ここはどことどうつながるのだったっけと首をたびたびひねってしまった。キャラクターがやたらあっけなく殺されるために出てくるような描き方なので、馴染みのない役者を使うせいもあってよく覚えていないかららしい。

二作目でも思ったが、おんなにやたらと凝った仕掛けをたった二人、それも一人は半死半生で作れるのか、とか、自分で自分の足をノコギリで切断できるもんか、とか疑問多し。
(☆☆☆)


「デスノート the Last name」

2006年12月01日 | 映画
ライトvsエルのチェスのように何手も先を読んでの丁々発止の知恵比べぶりは、よくこれだけ考えたと思わせる一方で、できすぎじゃないか、とかそんなにうまくいくのかい、ともしばしば首をひねらせながらも、もともと荒唐無稽な話なのを盾に、最後までそれほど飽かさずひっぱる。

テレビでこんな報道やったらいくら視聴率とっても会社も担当者も命取りだぞ、と思うし、キラ信者などの群集や犯罪者の描写があまりに安っぽい。
あんまりほいほい簡単に人が死ぬので、なんだか人が死んでる感じがしなくなってくる。

ライトの本棚の世界文学全集とか法学部のテキスト、六法全書などの置き方が、あまりにそれらしい本を小道具さんが置きましたという形そのまんまなのは、いくら生活感を徹底して廃してゲーム的世界を構築している作りにしてもどうかと思う。使っている感じが全然しないのだもの。

本来、罪と罰の関係とか、人の命の軽重とか、法の存在意義といった倫理的なテーマにつながる話なのだけれど、こう軽いノリだとあまりマジメに考える気がしない。

出てくる女の子たちがまた、揃いも揃って生活感ゼロで美脚を競っている。
監禁シーンなど変態的になりそうであまりなっていない。「商品」としての線に従うとそうなるのかなという感じ。
(☆☆☆)