prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「暗殺者のメロディ」

2007年01月20日 | 映画
坂本龍馬もそうだったが、暗殺された相手は有名でも暗殺した者は無名、というのが暗殺者の宿命らしい。
知名度があるかどうかというだけではなく、積極的に無名性を引き受けている感じで、映画の作り方もその線に沿っている。

トロツキーを暗殺した男はラモン・メルカデルという本名や素性も死刑にはならず服役後釈放されたあとの足取りもいくらかはわかっているのだが、ここではプロフィールの類はまったく描かれず、暗殺しようとするターゲットのまわりを目的意識や執念などを感じさせないままなんとなくうろうろしている姿をずうっと描いている。
こういう空っぽな感じというのがまた、アラン・ドロンに合うのだね。実生活でのドロンの元婚約者のロミー・シュナイダー扮する情婦が相手の男の素性をまったく知らない、というキャスティングのたくらみ。

ダビッド・アルファロ・シケイロスの壁画の前でスターリンの手先と思しき男と話すシーンがあるのだが、後でシケイロス自身が第一次トロツキー暗殺計画に加わっていたのを知ってびっくり。

それにしても、海外に亡命した政敵までしつこく刺客を送って殺す、という旧ソ連の体質(KGBは「手が長い」などと言われた)は、イギリスに亡命していたロシア連邦保安局の元幹部、アレクサンドル・リトビネンコを放射性物質ポロニウム210で暗殺したという最近の事件まで一貫しているよう。
(☆☆☆★)



「リトル・ミス・サンシャイン」

2007年01月19日 | 映画
負け犬loser一家が孫娘のミスコン行きのために黄色いバスを走らせるロードムービー。

一家のうち「役に立たない」知的活動にかまけている二人が、それぞれ傾倒しているのがニーチェとプルーストというのが、いかにもそれらしい。もっとも、セリフで言われるようにニーチェとプルーストの生活が「負け組」かというと、どちらも少なくとも前半生はかなり輝かしい生活を送っていたので、一概にそうとも言えないが。

各キャラクターのドラマの配置はまあそつがなく、小さな女の子のミスコン(いやでもジョンベネ事件を思い出す)をアメリカ的な愛嬌の振りまきようのグロテスクなまでにエスカレートした表れと位置づけているのは納得できるが、それに対抗するクライマックスがアレというのは首を傾げたくなる。アメリカ的無神経という意味では同類に思えるのだが。
女の子の可愛さで釣っているのはこの映画自体にも言えることだし。
(☆☆☆★★)


「犬神家の一族」

2007年01月18日 | 映画
脚本も演出も30年前のとほとんど同じで出演者もかなりだぶっている、という芝居の再演を見るようなリメーク。全体に細かい芝居で練れたところは増えた。

今でこそ市川崑の横溝ものは定番になっているが、どろどろして泥臭い横溝ものとモダニズムの塊のような崑タッチの取り合わせは、30年前ははなはだ意外だった。
その意外性を演出しさらに大宣伝と多角的なメディア戦略で客を動員する角川春樹のプロデュース感覚こそが旧作の存在意義だったわけだが、それが常識となっている今では当然それはすっぽり抜け落ちている。
純粋に映画としての出来という点では旧作はさほどのものではなかったわけで、正直どういう狙いのリメークなのか理解に苦しむ。
全体にキャストの年齢層が上がった分、華やかさにやや欠ける。

尾上菊之助が真っ白けで無表情なマスクをかぶっていても眼技や見栄を切るような表情の作り方でいろいろ工夫して見せているのは、さすがに歌舞伎役者。
(☆☆☆)


「あるいは裏切りという名の犬」

2007年01月17日 | 映画
とっぴなことを言うようだが、見ていて警察組織のとらえ方が「県警対組織暴力」(脚本・笠原和夫)に似ているな、と思った。

演出タッチはフランス伝統のフィルム・ノワールに今風のヴァイオレンス描写を加えたものだが、普段だと犯罪者を演じる顔が警察に越してきたような感じで、法の番人というタテマエとは裏腹の警察内部の妬み・嫉みや、情報屋との癒着がすごく強い。

加えて、ことなかれ主義、上にがっちり首根っこを押さえられている官僚主義、縦割り組織の風通しの悪さ、などの閉塞感が、いちいち日本でも思い当たる。
実話ネタだというが、もともと日本の警察制度はフランスを真似したわけだし、似ていて当然なのかもしれない。

ジェラール・ドパルデューが思い切ってダーティな役をやっているのが新鮮。「県警…」で梅宮辰夫がキャリアー警察官を演じているようなもの。
(☆☆☆★★)


「陸軍残虐物語」

2007年01月16日 | 映画
1963年の佐藤純彌の監督デビュー作。

題名通り帝国陸軍の内務班による新兵虐めの描写(汲み取り式便所の中を這い回るというとんでもないシーンあり)がメインなのだが、その新兵が三國連太郎なのだからイジイジしたところがなく、いつとんでもない噴火を起こすかと思わせ、実際その通りになる。
軍宿舎からの脱走シーンから始まるのだが、三國自身、戦時中軍隊を脱走して逃げてきたところを母親に密告されて捕まったという人だから、見ていてまた別の感慨あり。

内務班長役の西村晃がド迫力。
有力政治家の息子をえこひいきして取り入ろうとするところなど、アメリカ映画「攻撃」と同じで、国は変われど軍隊悪に違いはないみたい。
「こんな軍隊では、ろくな兵隊は育たない。せいぜい人殺しを作るだけだ」というセリフが皮肉。兵隊とは人殺し以外の何者でもないという意味と、殺すべき相手を殺していない、というのと。
(☆☆☆★★)


「鉄コン筋クリート」

2007年01月15日 | 映画
少し前の日本にアジア的な混沌を取り込んでデフォルメした街の風景が魅力的。
映像・音響ともにほとんどマニエリスム的なまでに高度。

もっとも、それが全体として何を表現してどこに向っているのか、というのがよくわからず、セリフがかみ合わずつぶやきが続いていくような作りなので時間の流れがもったりしていて、気持ちいい一方でちょっと眠くなってきた。
(☆☆☆★)


「砂漠の鼠」

2007年01月14日 | 映画
1953年、ロバート・ワイズ監督、リチャード・バートン主演。

第二次大戦中のトブルク戦線でロンメルに対抗した連合軍の奮戦を描くのだが、戦い方が物量にものをいわせたりゲーム的だったりといった余裕はなく、「鼠」と呼ばれるように苦心惨憺しながらゲリラ的にこまめにあちこち穴から出没してまわり、隊の中での対立や軍規の緩みとも戦う姿を描く。

どちらかというと地味な作りだが、最近の戦争もののようにやたらと生理的に締め上げてくるようなところはなく、戦闘シーンもほどほどにスペクタキュラーで、その程の良さが、ロバート・ワイズらしい。

夜の外景が多いから当然擬似夜景で撮っているが、ぼやっとしていないそれなりにくっきりした画調で見せるルシエン・バラードの白黒撮影が好調。

ジェームズ・メイスンのロンメルは「砂漠の狐」に引き続いての出演だが、顔見せ程度。
(☆☆☆)


本ホームページ

砂漠の鼠 - goo 映画

「オーロラ」

2007年01月13日 | 映画
うーん、ヌルい。

踊りを禁止している国、なんて出てくるから、芸術が表す人間の自由と権力との関係を寓話的に描こうとでもいうのか、と思うとそれほど組み立てがしっかりしていませんでね。

王様がしきりと踊り好きの娘を金のある殿様に嫁にやって国家の財政を立て直そうとするのだが、バレエの興行でもやって客集めるとか、美人の娘にかこつけて殿様から金を引き出すとかやった方がいいんじゃないかと思った。何もみんな頭からやっちゃうことはないのだ。

なんかそういう正面切ったテーマの立て方するのが今難しくなっているのはわかるけど、作ってる方もあまりちゃんと考えてないんじゃないかなあ。

肝腎のバレエ・シーン、衣装と背景が同じ色で統一されているもので、なんだかネムいのだね。
スモークをもうもうと焚いたもので足元がよく見えなかったり、フレーミングが曖昧だったりで、撮り方が緩い。
どういうわけか日本の暗黒舞踏風のバレエもあって、暗くて良く見えない。

それらのバレエが権力と対置するというわけではなくて、「かぐや姫」の求婚者が持ってくる宝物にあたる扱いなのだから、なんだかとんちんかん。
(☆☆★★★)


「摩天楼」

2007年01月12日 | 映画
絶対に信念を曲げない建築家ゲイリー・クーパーが、勝手に自分の設計を変えられた建築物を爆破するという凄い話。

映画の作り手(監督キング・ヴィドア)としては資本の論理に対抗しながらどこまで自分の意思を貫けるかという主人公に自分を重ねていたのだろう。
「天国の門」の製作で完全主義を貫いてユナイト映画を潰したマイケル・チミノ監督が夢見ていたのが、この「摩天楼」のリメイクだそうで、普通に考えてあまりに採算性や俗受けへの妥協を拒否していたら自爆するのは目に見えている。
妥協が即ち欠点になるとは限らないし、ヘタに権力と建築家の野心が一致したりすると、丹下健三設計の都庁みたいなグロい建物になるのではないか。

クーパーの風貌・演説ともに立派すぎてあんまり関係ないという気になるのは、如何ともし難い。

だもので、こちらとするとクーパーとパトリシア・ニールを挟んだ三角関係になるレイモンド・マッセイ扮する新聞社長の方が感情移入しやすいことになる。恋敵兼企業家代表として対立するのかと思うとまるで逆で助け船を出すというあたりが不思議と納得させられてしまう。企業家といっても同じ自主自立のセルフメイド・マンだからか。
マッセイの方は取締会で批判され失脚し、自殺するのだから、より劇的でもある。

ロバート・バークスのグレッグ・トーランド風にくっきりしたコントラストとディープ・フォーカスを多用した力強い画面が魅力。
(☆☆☆★)


本ホームページ

摩天楼 - goo 映画

「007 カジノ・ロワイヤル」

2007年01月10日 | 映画
なんでもないことのようだが、悪役を設定してそれをヒーローをやっつけるのをクライマックスにする、というボンド映画にとどまらない、ヒーローものの黄金の定石を破っている。
現代では悪役を設定すること自体が難しくなっているというよりムリになっているのを率直に反映して、悪者をやっつけるから正義のヒーローで、ヒーローだから美女が寄っているという論理の組み立てすら破棄されている。
描かれているアイテム自体はいつもとそれほど違わないが、組み立て方を変えたことで、主役を代えたという以上に、ちょっと驚くくらい本質的なリセットになった。

ダニエル・クレイグは「Jの悲劇」を見たあたりで次のジェームズ・ボンドと聞いて、悪役顔じゃないのと訝しく思ったが、ボンドのやっていることは大勢を殺すことで悪者といえば悪者に決まっているのだ。なんとなく「ロシアより愛をこめて」の殺し屋ロバート・ショーとか、最初の頃ボンド役の候補になったというパトリック・マクグーハンに顔だちや酷薄な雰囲気は近い。
タイトル・バックでもばたばた人を殺していたし。
筋肉の壁という感じの肉体美も凄い。

こうなると、ボンドが初めからかなりの程度女を平気で盾にしたりしている場面が多いのに気づく。女をやたらとっかえひっかえするのはモテるからというより、死ぬのが多いせいではないか。
(☆☆☆★★)