
曇、11度、87%
私が育った街には映画館が3軒ありました。「松竹」「東宝」「東映」。「洋画」は繁華街の「スカラ座」や「シネマ座」に行きました。今と違って昭和の時代には日本の俳優は其々の映画会社に所属していて他社の映画には出られませんでした。映画館の入り口の両側にはその専属俳優の手描きの「顔絵」がかかっていました。そして入り口の上にはその時上映されている映画の「絵看板」がかかっていました。
何歳の頃でしたか?「絵看板」を高いハシゴにのって描いているおじさんを見ました。「すごい!」と子供心に飽きずにその様子を見ていました。外国の俳優だって上手く描きます。絵を描くおじさんをとても偉く思いました。
最近は映画館は商業ビルの中にあり、バーがあったりします。場内の空気は清浄、シートも広く楽ちんです。一つの映画館スペースで幾本もの映画を上映しています。この数年、新聞に地元の映画館情報が載らなくなりました。大きな看板もありません。ウェッブで上映情報を確認して、ウェッブでチケットを予め買って観に出かけます。
大きな「絵看板」がかかっていた頃の映画館は街の花でした。「赤ひげ」や「ゴジラ」「若大将シリーズ」を観たのは地元の映画館。入れ替え制でなかったので一日中映画館にいることもありました。銀幕の前にどこかのおじさんが吸っているタバコの煙がボワーンと漂っていることもありました。映画の上映前には白黒の「ニュース」フィルムが流れます。棒読みのような男性アナウンサーの声が耳に残っています。
絵看板を描いていたのは「看板屋さん」だと知ったのはつい最近です。映画館だけでなくどこの看板も人の手描きでした。今なら差し詰めシール状のフィルムを貼り付けて看板の出来上がり。
映画館の絵看板を最後に見たのは昭和の終わり頃だったように思います。映画「ET」だったでしょうか?「ET」を見たのは数寄屋橋の新しくオープンしたビルの階上でしたが、ビルの入り口に自転車に乗って月のある夜空を飛ぶ「ET」の大きな絵看板がかかっていました。地方や東京でも場末の「リバイバル映画館」ではその後も「絵看板」を見かけました。
小さかった私が見上げた「絵看板」いっぱいの夢が詰まっていました。
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