気ままに

大船での気ままな生活日誌

隅田川の橋を撮る

2010-10-14 18:40:58 | Weblog
一度、河口から吾妻橋までくらいの、隅田川に架かる橋を全部、写真におさめておきたいと思っていた。先日、日の出桟橋から、浅草の吾妻橋までの”隅田川ライン”コースの遊覧船にのったとき、永年の夢を果たした(汗)。天気も良かったし、屋根もガラス窓もない、船尾の椅子に陣取り、船が橋をくぐったときに、撮った。勝開(かちどき)橋から始まり、12ほどある。橋だけに目を向けて、このコースをゆくのも、なかなかいいものである。橋の形、そして色がイロイロでとても面白い。では、隅田川クルーズはじめます。

勝開(かちどき)橋

佃大橋

中央大橋

永代橋

隅田川大橋

清洲橋

新大橋

両国橋

蔵前橋

厩(うまや)橋


駒形橋




吾妻橋


ついでに、もうひとつ上流側の言問橋も。


スカイツリーのスカイ(ちょっとなまっていますが視界のことです)は、吾妻橋と言問橋の間が、一番かと思います。
芭蕉庵をみたい人は、新大橋当たりで古池でなく川に飛び込んでください、右岸に向かってください。相撲をみたい人は、両国橋をくぐるときに、ふんどし姿でもぐってください、ここも右岸です。でも、終点の吾妻橋まで行き、浅草の神谷バーあたりで、生ビールと電気ブランで、いっぱいやるのが無難かとおもいます。

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スカイツリー 七変化

2010-10-14 10:18:38 | Weblog

今日の午前中にも、チリ鉱山作業員全員の、奇跡の生還が完了するとのこと、本当に喜ばしいことだ。こちらは、地下700メートルからの救助が世界の人々に希望を与えてくれたが、隅田の東京スカイツリーもまた、世界一、634メートルの天空に向かう姿が日本人に希望を与えてくれている。現在488メートルで、2011年春には完成する。

先日、日の出桟橋から浅草までの隅田川船旅を楽しんだ。そのとき、隅田川に架かる全部の橋の写真を撮り(汗)、降りてからは隅田川沿いからと、浅草観音さま側から、みえるスカイツリーの写真を撮りましたので、ここに載せたいと思います。みたくない人は、パスして、次に記事にする予定の、”隅田川の橋”をみてください。それにも関心のない方は、そのあと書く予定の美術館関係の記事をお読みください。暇な人や、会社で仕事するふりして、人のブログみる人は、是非みてください。”傑作”が一枚だけ入っています。あとは、ゴミ箱入りの写真ばかりです。


竹芝桟橋からみたツリー


吾妻橋からみたツリー(アサヒビールを飲もうとするツリー)


じゃまものがいないツリー(左)
隅田川に影を落とすツリー(右)
全裸のツリー



アサヒビールに影をおとすツリー
アサヒビールを飲み干すツリー
これが傑作です


浅草寺からのツリー
ちょうちんもちのツリー


浅草寺五重の塔からのツリー
五重の塔より高くなり、先輩社員にいじわるされる有能社員ツリー



来年の、三社祭りのお神輿とツリーが入るスポットをみつけてきました。これは秘密情報なので、現在は、公開しません。尖閣ビデオの公開とバーター取引しているところです。

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チリ鉱山作業員、奇跡の生還

2010-10-13 20:47:22 | Weblog


当初、ほぼ絶望視されていた、チリ鉱山作業員が、日本時間午後12時10分に、無事、生還した。ぼくは、この生還の様子をNHKテレビの生中継で、固唾をのんで観ていた。第1号の作業員、アパロスさんが地下700メートルから、救出カプセルに乗って、地上に現れたとき、サイレンが鳴り、NHKの画面に、生中継しているのにかかわらず、その画面に”速報”の文章が入った。この瞬間、ぼくも、チリの家族の方々、チリの国民、そして、全世界の人々が、そうであったように、目頭があつくなり、胸がいっぱいになってしまった。

事故が起きて、埋められ、もうだめかと思われていたのに、事故17日後に、まだ全員生きているとのメッセージが、掘削ドリルの先につけられていた。でも救出には4カ月かかるとの判断、ほぼ絶望と考えられていた。それが、なんと、チリ政府の懸命な救出作業により、予定よりも2カ月も早く、70日目の今日、奇跡的に救出されたのだ。午後7時現在で、7人が地上に戻り、2日間かけて、全員の救出が予定されている。


70日もの間、あの狭い空間で、生き続けてきたチリ作業員の人々には、本当に頭が下がる。ぼくなど、今はもちろん駄目だが、若いときでさえ、とても無理だったと思うし、今の日本の若者でもここまで、頑張れるだろうか。

事実は小説より奇なりという言葉があるが、まさにその通りだった。実際、映画化しようとする構想もあるらしい。それほどの奇跡だった。まだ、救出は続く。最後の人が地上に戻ってくるまでは安心できない、全員救出まで祈っていよう。



お月さまも、祈ってくれているだろう。

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浅草で落語を

2010-10-13 11:32:37 | Weblog

久しぶりに、浅草演芸ホールに落語を聞きにいった。とっても運よく、たぶん、コインの表を10回連続出すくらいの確率(笑)でも、めぐりあえないかもしれない噺家の落語を聞くことができた。その日は、仲入り後、三遊亭鬼丸の真打襲名披露があって、その席に、今ではめったにおめにかかれない大御所、鬼丸の師匠、円歌、金馬、そして馬風がおられ、それぞれ、お祝いの口上を述べられたのだ。

それだけではなく、口上のあと、膝を悪くして正座ができず、前に釈台を置いて、うしろに座布団を背もたれにして、金馬師匠が、名演目”目黒のさんま”の噺をしたのだ。落語会の最長老で、もう80歳は越えているだろう。相変わらずの名調子でおもしろく聞かせてもらった。”目黒のさんま”も寄席で聞いたのは初めてだと思う。とてもうれしかった。こんな機会はめったにない。

そして、円歌師匠。地方に行くと、まだ歌奴だ、やまのあなあな、の男だ、と言われるんですよ、と笑わし、昭和天皇の前で噺をしたのは、自分が最初で、たぶん常陸宮さまに似ていることで呼ばれたんだとおもうけど(爆)、あとは円生と円楽の3人だけですよ、でも皆、もう呼ばれても行かないって言うんだ、だって天皇さまはじめ皇族の方は一度も二コリともしてくれないんだもの、と観客を大笑いさせる。本当に、歌奴時代の名演目”授業中”は面白かった。”山のあなあな、あなたもう寝ましょうよ”のオチもおかしくって腹の皮がよじれた。今回の出演は正月公演以来だという。こんな幸運も、めったにないことだ。

そして馬風、志ん輔のとぼけた噺、”のいる、こいる”の漫才(そ、そそうだ、そうだな、うんうん、・・の;爆)、和楽社中のすばらしい曲芸、粋曲の柳屋紫文(長谷川平蔵がいつものように両国橋のたもとを歩いていますと・・・都都逸風に三味線で)のとぼけた味、等々、面白ろ三昧、明星中華三昧(?)だった。

トリは、新真打、三遊亭鬼丸。信州は上田の出身だそうだ。上田市関係からの幕やら花束が飾られていた。真打襲名披露に偶然、出会った落語家ということで、お見知りおきをという挨拶があったが、憶えておこう。鬼丸は180年振りの襲名だそうである。本当のトリをとれるような落語家に育ってほしい。

寄席はいいな、また、出掛けてみよう。これでは時間がいくらあっても足りない(大汗)

金馬と円歌

三遊亭鬼丸と、ごひいきのお姉さん(笑)
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確率

2010-10-13 09:34:52 | Weblog

ぼくらは昨日、日の出桟橋から、サンライズでなくてサンセットクルーズにのって、宮崎牛でなくて佐賀牛のステーキを食べながら、雲にかくれて、あまりたいしたことなかった赤い夕陽をみて、おいしいボルドー産の赤いお酒を飲んで、いい気分になって、桟橋近くのインターチンコ(爆)に泊った。

その晩は、ホテルの部屋の窓の外の隅田川をときどきながめながら、ここに来る前に買ってきた週刊朝日をみていた。驚いた記事があった。例の、平均30.9歳の素人審査会のことである。数学者の芳沢教授が、計算したところによると、69歳から20歳までの(70歳以上は断る権利があるので除く)平均年齢は、43.6歳で、今回のような、こんな低年齢になる確率は、なななんと、0.12%なんだそうである。コインが10回連続して表を出す確率なんだそうだ。それも、前回のオザワ審査会の平均年齢も34歳だった。因みに、鳩山さんのときは52歳、宝塚線事故のとき53歳だったそうだ。

数学者からこう説明されると、いくら政治オンチのぼくでも、こりゃあ、おかしいと思う。たとえていえば、科学論文を学術雑誌に投稿したとき、どんな三流雑誌の三流レフリーでも、”材料と方法”の項目を読んだだけで、こんな方法でつくりだした結果などは信用できず、ただちにリジェクトとするだろう。

”割り屋”のエースといわれた検事が、実は捏造書類をつくっていたというくらいだから、自分らに都合の悪い被疑者に対しては、検察庁はこれくらいのことは平気でやるだろう。三流レフリー以下ということだ。それにしても、大新聞は何故、このことを追求しないのだろうか。三流レフリー以下の以下というところだろうか(爆)。
。。。。。

ホテル近くの、浜離宮の花畑のコスモスは、盛りを過ぎて、平均年齢50歳くらいだった。

0.12%の確率で平均年齢30歳の、今は盛りのコスモスもいた。


人間社会の光と影はうすぎたいけど、自然の光と影はうつくしかった。

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皇室の文庫/書陵部の名品

2010-10-11 10:47:37 | Weblog

東御苑内にある三の丸尚蔵館はいつになく賑わっていた。薩長同盟の龍馬の裏書の展示があることにもよるだろう。龍馬好きなぼくにとっても、やはりこれは、見逃すことはできない。達筆な朱色の文字が、歴史に残る薩長同盟の裏面に踊る。”表に記載されている六条は、小(小松)、西(西郷)氏および老兄(木戸)、龍(龍馬)等も御同席にて談論せし所にて毛も相違い無之候・・・丙寅二月五日 坂本龍馬”とある。

薩長同盟裏書(慶応2年、龍馬)


皇室の文庫(ふみくら)の書陵部には、奈良時代以降の貴重な図書、文書が40万点も所蔵されているという。その選りすぐりが40点ほど展示されている。日本書紀、源氏物語、古今和歌集の古い写し本、五箇条御誓文等、どれもこれもめったにみられない貴重本、貴重文書ばかりで、展覧会で、めったに買わない図録を買ってしまった。龍馬に連れてきてもらって、本当に良かった。図録からの写真で、以下に、ミニ展覧会を開きます。細かい説明は省きます(これから一泊で遊びに行くので;汗)。

(古典と絵巻)

日本書紀 (12~13世紀写)

竹取物語(17世紀)


伊勢物語(17世紀)

古今和歌集(1278年写)


百人一首(定家選)1445年


(貴族社会と日記)
玉葉 (13世紀写)

琵琶符(11世紀写)


(明治維新期の文書)

五箇条御誓文 有栖川宮幟仁親王御筆 原本控

憲法発布式図 明治時代製作


(考古品)
囲・家形埴輪 (百舌鳥陵墓参考地出土)


和本は、紙が呼吸して、虫や鼠に食われなければ、1000年もつと言われているが、管理が悪いと、劣化する。書陵部では、それらの修繕もしていて、その様子もわかる展示がなされていた。レンボウさん、国会内で写真撮るくらいどうでもいいことだけど、こうゆう地道な、大切な仕事は事業仕分けしないでね。

東御苑内にある、宮内庁書陵部



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伝説のジャズ喫茶”ちぐさ”

2010-10-11 07:17:09 | Weblog
今年も、横浜のジャズフェスティバル(ジャズプロムナード2010)に行ってしまった。有料(4000円)の会場を回ろうかとも思ったが、チケット売り場で、500円の”ちぐさアーカイブ展”があることを知り、まずそれをみようと、野毛方面に向かった。

いつかも紹介したことがあるが、野毛町1丁目にあったジャズ喫茶”ちぐさ”は、3年前に閉店してしまったが、歴史的なというか、伝説的なジャズ喫茶だった。吉田護さんがここで、開業したのは1933年で、6000枚ものレコードを保持していたが、横浜大空襲ですべて焼失し、戦後、復活させた。当時のジャズレコードは高価なこともあり、秋吉敏子、渡辺貞夫や日野皓正ら、日本のジャズ界の礎をきづいた、若き日の、錚々たるジャズミュージシャンがここで、レコードを聞いて、勉強したのだという。

今回、この伝説的ジャズ喫茶”ちぐさ”が、当時の姿に復元され、公開されているというのだ。当時の”ちぐさ”があった場所には、マンションが建ってしまっているので、そこから、そう遠くないところに、その復元”ちぐさ”があった。もちろん、ぼくは現役”ちぐさ”に行ったことはない。ただ、横浜ウオーキングのガイドさんに、その話を聞いて、感動したのだ。是非、復元してもらいたいと、当時のブログにも書いたが、それが実現したのだ(営業するわけではないが)。

”ちぐさ”には、すでに多くの人が集まっていた。わずか9坪で、椅子だって20席あるかどうかだから、満席で、外側の展示室でしばらく、展示品をみていた。クレージーキャッツも、横浜で活躍していたから、吉田さんと親しく、植木等や犬塚弘の吉田さんへの手紙、先日、亡くなられた谷啓のビデオも映っていた。ハナ肇らが仕掛けた、昭和29年7月27日の深夜、横浜のジャズクラブ”モガンボ”の伝説的なジャムセッションは、ジャズフアンでは有名らしい。そのとき植木等や谷啓は切符売りをしてたそうだ。

そして、ぼくは9坪の喫茶店の席が空いたので、コーヒーを飲みながら、大きなスピーカーから流れてくるジャズを聞いたのだ。カウンターにはたくさんのレコードが並び(5000枚のレコードは近くの横浜市中央図書館に保管されている)、壁一面にはレコードジャケットが貼られ、なべさだや秋吉のサイン入りのもある。それらを見ながら、若き日の秋吉や、なべさだや、皓正らの面影を追い、そして、ジャズ喫茶ではなかったけど、若き日のぼくもよく行った、音楽喫茶のことなどを思い出していた。

復元ちぐさ




在りし日のちぐさ

関係者



当時のちぐさのあった場所のマンション脇にこのような記念タイルが、つくられている。


これをみてから、あちこちで行われている無料の街頭ライブをみて、1日、楽しんだのだ。
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堀文子展 平塚市美術館

2010-10-10 10:10:36 | Weblog

平塚市美術館で”堀文子展”が昨日から始まり、初日に行ってきた。平塚駅前の蕎麦屋さんで大ザルをいただき、雨が降っていたのでバスをつかった。午後1時頃だっただろうか、展示室に入り、すぐに、うしろから、5,6名のグループが。そして、あっと驚いた。な、ななんと、その中に、作者の堀文子さんがおられるではないか。写真で知っているのですぐ分かった。もうたしか、92,3歳のはず。お若い、それに、色白で上品な顔立ちで、おきれいだ。近くのご婦人が、写真でみるよりも、素敵ね、と小声で話していた。

もちろん、堀文子さんのあとをついて行った。それぞれの絵をみながら、感想を述べられている。この猫の絵は、うちの物置から出てきたのよとか、若いときの絵をみて、上手ね、どうやって描いたのかしら(笑)とか、この絵は、思い出のある絵なのよ、どこで所蔵しているの?とか、画家自らの”ギャラリートーク”だから、こんなぜいたくはない。30分くらいで、出られてしまったが、そのあと、またじっくり、はじめから観賞した。

去年、箱根の成川美術館で堀文子展をみている。成川は、堀文子作品の所蔵、ナンバー1の美術館なのだ。そのときの絵もいくつか、ここに来ていたが、多くは初見のものだった。第1章は、”画業の始まり”で、女子美を出てから東大農学部で作物の形態を描く仕事を経て、画家としての途を歩き始めた頃の作品が並ぶ。八丈島や、各地の山々、高原、また猫の絵など。猫やフクロウ等は自分で飼っていたものをモデルにしたそうだ。ルソーの影響がみられる画風だった。

廃墟                    月と猫


第2章は”初の海外旅行とメキシコ・シリーズ”1961年から3年間、欧米やメキシコ旅行をする。とくにメキシコが気に入ったようだ。そのときの印象や写生をもとに、多くの作品が生まれた。紫の野、マヤの落日、うつろな神々等。

仮面と老婆

霧の野

第3章 ”絵本作家としての堀文子” 絵本作家としても活躍する。生活のためよ、と笑いながら言っていた。でも、色彩あり、物語あり、子供たちが喜ぶ仕事で楽しかったという。いい絵ね、どうして描いたのかしら忘れちゃたわ、と回りを笑わせていた。夫を亡くした、1960年代まで続けた。”こどものとも”創刊号の”ピップとちょうちょう”などの作品が多数展示されていた。


第4章は”大磯・軽井沢・トスカーナ。1967年に大磯に転居(逗子に住んでいたこともある)、この頃から湘南の明るい季節感を感じさせる絵が多くなる。軽井沢にもアトリエをもつ。そして、高度成長の日本をのがれるように、イタリアのトスカーナ地方にあしかけ6年も住む。自然が大好きで、そうゆう風景のところを転々としているのだ。晩年には、ヒマラヤまで行って、ブルーポピーを描いている。初秋、夕映え、トスカーナの花野、などいい作品が目白押しだった。

早苗の頃


流れゆく山の季節


春炎 (御舟の炎舞みたいですね)


そして最終章は”堀文子現在”。まだまだお元気。顕微鏡の世界まで眼を向けている。生き物が大好き。花から蝶、猫、犬、ふくろう、そして微生物まで。ぼくとそっくり(汗)。

極微の宇宙に生きるものたち ミジンコもいるのよと話しておられた。

ブルーポピー


展示室を出ると、壁に、大きな”葉切り蟻の行列”と堀文子さんの言葉が、かかれていた。堀文子さんが、一層、好きになった展覧会だった。




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赤とんぼ はねをむしれば 唐辛子

2010-10-09 19:48:28 | Weblog
芭蕉の弟子の其角が、”赤とんぼ ハネをむしれば 唐辛子”と詠んだら、芭蕉が、首を振ったので、今度は”唐辛子 はねをつければ 赤とんぼ”と直したら、OKがでたというエピソードがある。素人審査では、前者の方が面白いと思うが、プロは、”むしれば”という言葉が気になるのだろうか。

ぼくは素人なので、”赤とんぼ ハネをむしれば 唐辛子”



ついでに”赤とんぼ 墨をつければ クロトンボ”

”唐辛子 メタボにすれば 赤ナスビ”


”赤ナスビ 墨をつければ ボケナスビ”


”ボケナスが ひっぱる国に ノーベル賞
 

 
。。。。。

紅とんぼ ちあきなおみが しみじみと



紅とんぼ

吉田 旺 作詞
船村 徹 作曲
ちあきなおみ

空にしてって 酒も肴も
 今日でお終い 店じまい
  五年ありがとう 楽しかったわ
   いろいろお世話になりました
    しんみりしないでよ ケンさん
     新宿駅裏 紅とんぼ
       思い出してね 時々は

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再び、速水御舟展へ

2010-10-09 10:23:20 | Weblog
茅ヶ崎美術館で、速水御舟展が開かれていて、すでに一度みに行っている。そこには未完の遺作”婦女群像”が展示されているので、会期中にもう一度、訪ねてみようと思っていた。ワイフも是非みたいというので、昨日、出掛けてきた。

メイン展示作品は、”花の傍”で、そのモデルが御舟の親戚筋で美貌の誉れが高かった花子さんで、”婦女群像”のモデル5人の中の一人にもなっている。婦女群像は下絵と未完の本画が展示されているが、両方を見比べながら、しばらく佇んでいた。そこへ、二人の年配のご婦人が来られ、花子さんは美人だったわね、それに名前が花子なんて、ぴったりの人生をおくったわねと話していた。ご近所の方だったようだ。神田で生まれ、育った花子さんは、茅ヶ崎の氷室家にお嫁入りし、ご夫婦で生涯、椿の栽培、育種に取り組んだのだ。現在、氷室椿庭園として、花の季節には賑わっている。

前回、気付かなかったが、若くして亡くなった御舟の追悼文が載っている雑誌をみつけた。鏑木清方と安田靫彦だ。清方は、”かけがえのない人”というタイトルで、自分より若い画家だが、尊敬していた。近い将来に日本画をリードしてゆける、すぐれて重い重い、期待をかけていた画人だった、と記していた。靫彦も、彼はある年月を経ると、画風を変えるので、発展途上の画家だと思っている人が多いが、とんでもない。それぞれが、非常に完成度の高いもので、さらに高みを目指した天才画家だったという意味のことを述べていた。

未完の大作は、たしか個人蔵だったから、もう見る機会はそうないだろうと思い、もう一度、展示場所に戻り、しみじみとみた。




となりの展示室では、前回は、子供たちの絵画展覧会をやっていたが、今回は、様々なジャンルで活躍するアーティストの展覧会をやっていた。写真の部では、鎌倉のギャラリーでもみた石川真士の”北斎を想いて”(波の向こうの富士山の写真)があった。陶芸の部で、速水夏彦の作品があった。係の人に聞いたら、速水御舟のお孫さんで、茅ヶ崎の南湖の方に住んでいるらしい。ひょっとすると、遺作”婦女群像”も、彼が所蔵しているのではないかと思った。御舟の魂は茅ヶ崎にいるのかもしれない。
。。。。。

ここに来る前、ワイフが好きなイタリアンレストランでランチをした。壁に、昔のイタリア映画”甘い生活”のポスターが貼ってあった。


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