みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

なぜ自分たちか、まず胸に刻め(山口二郎さん)~政権交代 民主党で大丈夫か(朝日新聞)

2009-09-06 05:00:00 | ほん/新聞/ニュース
出先にいるので、予約投稿です。

9月3日の朝日新聞の「09政権交代 民主党で大丈夫か」に、
政治学者の山口二郎さんの長文の寄稿が載っていました。

紹介したいと思っていたら、山口二郎さんのブログに
全文がアップされていましたので、転載させていただきます。


09政権交代 民主党で大丈夫か 
なぜ自分たちか、まず胸に刻め


 国民自身の手によって政権交代が実現した。民主党が結成されてから十数年、この党が軸となる政権交代こそ日本の民主政治に不可欠だと主張してきた者としては、個人的にも感慨深い。
 民主主義とはそもそも革命の制度化であり、昨日の少数派が今日の多数派になるというダイナミズムこそ、民主政治の本質である。政策選択以前に、国民の手によって権力の担い手を入れ替えることは、それ自体が民主政治にとって不可欠である。自民党が時には権力から離れる普通の政党になれば、メディアも国民ももっと自由にものが言えるようになり、社会の風通しはよくなるに違いない。
 政策の全体的な方向付けについても、多様な観点からの議論が活発になり、国全体として環境変化に対する感受性や対応力が高まるはずである。
 しかし、無邪気に喜んでいる場合ではない。この勝ち方を見ていると、民主党政権について様々な不安が湧いてくる。
 最大の疑問は、民主党の議員が、国民が一票に託した思いを的確に理解しているかどうかである。国民は、自民党を罰するために民主党に投票したのであって、民主党に全面的な支持をしたのではない。その判断の根底には、単なる自民党政治に対する飽きではなく、過去数年の改革路線に対する否定的評価が存在している。
 親の経済的事情で学業を断念した若者の無念。介護に疲れて親を殺すことまで考える人の絶望。まじめに働いてきたにもかかわらず職を奪われた人の怒りと不安。
自民党政権時代に人間の尊厳を無視して顧みない社会が現れたことへの怒りが、責任などという言葉を平気で使う恥知らずの自民党を完膚無きまでに打ちのめしたのである。民主党の議員は、自分が誰を代表するのか、政治活動を始めるに当たって深く胸に刻むべきである。
 もし民主党政権が国民の窮状を救うことができなければ、国民はたちまち民主党に幻滅するであろう。そうなれば、今回の選挙に表れた国民の不満や怒りは、政党政治そのものへの拒絶に向かうであろう。メディアにおけるパフォーマンスだけが得意な怪しげな政治家が、既に出番をうかがっているのかもしれない。政権交代という好機を逸すれば、日本の民主政治はたちまちもっと大きな危機に陥ることを、
民主党は銘記すべきである。

    ■   ■
 政権交代の機会を生かし、政治の可能性を広げていくために民主党が何をすべきか、いくつかの提言と注文をしたい。
 第1は、統治システムの刷新である。民主党は、政治主導を唱え、政治家を100人以上、行政府に送り込むと言っている。その点に関して、私は形から入る政治主導の危うさを感じる。初めての与党経験に舞い上がった民主党の政治家が各省の指導的地位に就き、これ見よがしのパフォーマンスを行って大きな混乱を生む情景が目に浮かぶようである。機構や手続きをつくれば、ひとりでに政治主導が実現するわけではない。
 政治主導を実現するために何よりも必要なのは、政治家の意思である。更に、その意思の根底には、これから自分が取り組もうとする社会の不条理に対する怒りと憤りが存在しなければならない。かつてマックス・ウェーバーは官僚について、「怒りも興奮もなく」仕事を淡々とこなすところに本質があると評した。その官僚を使いこなす政治家には、逆に怒りや興奮が必要である。何かを実現したいという意思があって、初めて組織や人事における政治主導は意味を持つ。
 政治主導は行政官の排斥と同じではない。行政官はそもそも自分の持ち場で必死に仕事をする習性を持っている。今までその能力が無意味な事業に浪費されたのは、政治家が行政官に対して的確な役割をあてがってこなかったためである。
 また、行政官、特に中堅以下の人々は、自分の組織の問題点を理解しており、個人的に変革の志を持った人も多い。たとえば職員から大臣あてに手紙を書かせ、問題点をえぐり出すとともに、現場からの提案を募るなど、行政官の貢献を引き出すことも政治的手腕である。
 民主党は実体的な政策転換を急ぐべきではない。その前に情報公開によって統治システムを刷新することこそ、あらゆる政策形成の大前提である。
今、非核三原則をめぐる密約の存在が話題になっている。この種の二重帳簿を暴くことは、政権交代をテコにすることでしか実現できない。公共事業など予算が大きく動く分野には、様々な伏魔殿が存在する。昨年の道路特定財源をめぐる議論で、その一端が明るみに出たが、野党側からの追及には限界があった。
 あの時に鋭い追及をした有能な政治家をそのまま各省の要職につけ、その権力を行使するならば、伏魔殿の実態を明らかにすることができるはずである。最初の100日を集中的な情報公開期間と定め、積年の腐敗をえぐり出すことができれば、民主党政権に対する期待も高まるであろう。
 第2は、実体的な政策論議についての注文である。私は、今回の選挙においてマニフェストが大きな役割を果たしたとは思わない。国民がマニフェストを読み比べて民主党を選んだなどという神話を信じてはならない。世論調査によれば、民主党の政策各論について、必ずしも国民が高い評価をしているわけではない。
ということは、律義にマニフェストの項目を実現し、自分で合格点をつけるなどという発想をするべきではないのである。政権運営と試験勉強は違うのだ。
 数値目標だの財源だのを過度に強調すれば、政治家が本来持つべき構想力がしぽんでしまい、官僚の発想に近づくことになる。官僚批判が売り物の民主党にとって、何とも皮肉な現象ではないか。
 今の閉塞感を打破するためには、大きな社会ビジョンを提起することこそ、政治家の使命である。たとえば、従来の日本の社会保障制度や税制は、自民党政治家の保守的な家族観を反映し、父親が一定水準の給与を得て、母親は専業主婦として家族の世話をするというモデルを前提としてきた。経済の現実はこのようなモデルから離れて動いており、たとえば保育所不足という形で、実態と政策の乖離に多くの人々が苦しんでいる。
 政治家の仕事は、政策の前提となる家族像を転換し、多少賃金は下がっても夫も妻も働いて、家族の生活を支えるというモデルを示し、それを具体的に支えるような税制、社会保障制度、さらに介護、保育などの社会サービスの整備を構想するという点にある。
 社会保障に限らない。国土の姿、環境政策のあるべき方向。多くのテーマについて、21世紀にふさわしいビジョンを語ることが求められている。

    ■   ■
 この種の社会像を理解可能な形で提起するためには、政治家が生きた言葉で自らの理想を語らなければならない。新政権への期待が高いうちにビジョンを語ることはできるはずである。
 そのためには、少なくとも国会や国際会議での演説の原稿を政治家自身、および政治家が個人的に任命したスタッフが書くという原則を譲るべきではない。従来の政策との整合性、継続性などと官僚が口出しをしても、聞く必要はない。そもそも、この政権は政策を転換するためにつくったのである。政治家が遠慮してはならない。
 今回の政権交代を契機に、日本に本当の意味での競争的政党政治を確立する必要がある。民主党が単に自民党に取って代わって永続与党を目指すのでは、意味はない。大勝したばかりの民主党に
とって、自らが再び野党になった時のことを視野に入れて新しい政党政治の慣行、いわば21世紀の「憲政の常道」を作り出すことが、むしろ急務なのである。
 新しい「憲政の常道」は、次のような原理から成るべきだと考える。
 第1は、多数の専制に対する自制である。民主党が野党時代に、政府を追及しても、まともに質問に答えないまま審議時間だけが過ぎていく、という不満をしばしば聞いた。ならは、民主党政権の下では、野党のまともな質問には丁寧に答え、論戦を復活させなければならない。
 第2は、第1の点とも関連するが、野党を尊重することである。たとえば比例代表部分の定数削減という公約はむしろ棚上げにして、与野党で新たな議会政治の慣行づくりに取り組むべきである。
 第3は、批判的なメディアの自由な活動である。そもそもメディアは権力を監視し、批判することが本来任務である。権力を取れは、メディアの厳しい批判を受けることが運命だと、民主党は覚悟しなければならない。
 自民党が、深い反省の上に再び政権奪還に取り組む態勢を整え、政治の世界で多事争論が花開く時、日本の政党政治はようやく本物になるのであろう。選挙だけが民主政治ではない。国民の多様な参加が政党政治を鍛えていくのである。
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山口二郎 
北海道大学教授(政治学)
58年生まれ。93年から現職。民主党を中心とした政権交代を訴えてきた。
日本政治学会理事長。
最近の著書に「内閣制度」「若者のための政治マニュアル」「政権交代論」など。
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(朝日新聞2009.9.3)



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前にも山口さんのことは紹介しましたが、
関連で、山口二郎さんの著書の書評です。

ポスト戦後政治への対抗軸 [著]山口二郎
[掲載]2008年02月10日
[評者]小林良彰(慶應大学教授・政治学)

■透明なルールで「平等」の理念を再び
 小泉政権以降、国内の政策では平等の崩壊が進む。著者は、英国の政治学者クラウチが命名したこのような「ポスト・デモクラシー」という現象のなかで、なぜ西欧左派が政権を奪取でき、日本では政権交代が起きなかったのかという問いに答えようとする。
 19世紀から20世紀初頭の一定の要件を満たした少数者による議会政治という「プレ・デモクラシー」の時代を経て、20世紀後半には社会福祉や社会保障による平等化が進み、デモクラシーの最盛期を迎えた。
 しかし、90年代以降、経済のグローバル化による競争激化で終身雇用や企業年金などの企業内福祉が見直され、政府の財政悪化もあって社会全体が小さな政府へ向かった。その結果、平等よりも自己責任という名の「リスクの個人化」が横行している。
 英国労働党に代表される西欧左派は、公共事業で雇用を作り出す従来の方針を転換し、教育政策や労働政策で個人の能力を強化する方針に移行した。また、右派以上に経済競争や成長を重視し、英国保守党のような右派から政権を奪い返した。
 一方、日本では自民党が支持率を減らし続ける中でも、社会党が旧来型政策から転換できなかったと批判する。自民党主流派も社会党も「大きな再配分政治」という点では共通し、共にグローバル化や財政悪化という時代状況への対応が遅れたことになる。
 このため、市場原理を重視する新自由主義を指向した小泉改革だけが、旧来政治に対する唯一の対抗軸となり、一世を風靡(ふうび)した。
 これに対し、著者は新自由主義の結果、セーフティーネットや安定した老後設計が崩壊すると共に災害や環境破壊へのリスクが増え、民のモラルハザードも起きていると指摘する。そして、今こそ明示された財源と透明なルールを伴う再配分や公共セクターの信頼回復を目指し、「平等」の理念に立脚した対抗軸を創(つく)るべきであると訴える。
 小泉改革から距離を置きつつある福田自民党や小沢民主党の本質を考える枠組みを与える洞察力溢(あふ)れる書である。
    ◇
 やまぐち・じろう 58年生まれ。北海道大学教授。著書『大蔵官僚支配の終焉』など。 



で、民主党でほんとに大丈夫なのか?
~『政権交代論』山口 二郎著(評者:山岡 淳一郎)岩波新書、780円(税別)

nikkeibp 2009.6.2

 バクゼンと「政権交代したほうがいい」と感じている人は多いだろう。
 「小さな政府」を至上命題として規制緩和、市場開放路線を突っ走った小泉政権の負の遺産(医療崩壊、貧困の固定化、地方と中小企業の衰え、公教育の質の低下など)を清算するのは、小泉純一郎という「勝ち馬」に乗ってきた自民党には無理だろうとわたしは思う。自民党は、反小泉路線を明確に掲げた瞬間、変節漢の集団になってしまうからだ。
 しかし、現実にはリーマンショック後、小泉流の新自由主義は破綻した。「小さな政府」の権化だった米国にオバマ政権が誕生し、凄まじい財政出動をしている。この半年で、世界は変わった。
 日本は、環境や資源対策を前面に出した産業政策と、食糧と国土の安全保障に係わる農林水産業、人的資産を支える医療、介護、教育などの分野に集中的に資本投下し、社会の底力を鍛える段階にあると思うが、117億円もの「アニメ美術館」(お台場)建設費用を今年度補正予算に計上するなど、麻生政権はピンボケ状態である。自分の趣味でハコモノを造るのは、晩年にさしかかった政治家がよくやるパターンだ。
 なので、政権交代、と言いたいのだが……反射的に「民主党でほんとに大丈夫なのか」と懐疑の念も膨らむ。憲法、経済、社会保障、外交、どれをとっても民主党がまとまっているとはいえない。民主党が政権を取れば、「政党再編」は必須だろう。
 その結果、米国の共和党と民主党、英国の保守党と労働党のように政策の違いが対立軸として見える二大政党が生まれるのか、それとも烏合の小党分立となるのか……。
 本書は、著者が小沢体制での民主党への政権交代を支援した政治学者であることを割り引いても、頭を整理するのには、恰好のテキストだった。

「選ばれた独裁制」が社会を閉塞させる
 そもそも政権交代は、なぜ必要なのか? 一般には長期化した政権は腐敗し、官僚組織と一体化して暴走しがちになるので、それを防ぐため、といわれる。
 著者は、日本や英国のように下院(衆議院)で多数を占めた政党が内閣を組織する「議院内閣制」では、与党に立法と行政の権力が融合し、権力分立が働きにくいと記す。英国では〈議院内閣制がしばしば「選ばれた独裁制(elected dictatorship)」に陥ると言われている〉と紹介したうえで、本来、政党間で中立でなければいけない官僚機構をチェックするためにも政権交代が必要だと説く。
〈一九五五年以降の日本の場合、本格的な政権交代を経験していないので、官僚機構が異なった政治指導者に従順かどうかという意味での中立性が試されたことはほとんどない。しかし、官僚機構が自民党の持つ政治的志向性を内面化し、それを維持するために権力を振うという意味で中立性を自ら否定することは起こりうる〉
 わかりやすく言えば、官僚は自民党の族議員のもとには「ご説明」と称して、情報をせっせと届けにいくが、野党議員に対しては「呼ばれたら行く」程度である。明らかに自民党の「政治的志向性」に忠実だ。この自民党よりの権力意識は、検察や警察などが「権力を振う」とき、市民との衝突をも招くという。
〈……同じデモ行進でも、その主張の中身に応じて、戦争反対や貧困に抗議するといった現政権に批判的な運動であれば、厳しく規制されしばしば逮捕者が出る一方、燃油の高騰に抗議する漁民のデモのように自民党の支持者によるデモ行進は放任される〉
 著者は、日本流の「選ばれた独裁制」を批判しつつ、〈政権交代がない状態が当たり前となれば、その社会は社会主義国のように閉塞していく〉と警鐘を鳴らす。
 ここで「西松問題」が、ふと頭をよぎる。話はそれるが、考えてみてほしい。東京地検特捜部は、ある種の内部告発をきっかけに政治資金規正法違反(虚偽記載など)で小沢前民主党代表の公設秘書を逮捕、起訴した。検察の捜査は、政権をめぐる権力闘争と無縁といえるだろうか。この捜査には、いくつもの疑問符がつけられている。
 まず、本件は裏献金ではなく、政治団体からの寄付の事実が収支報告書に記載されている点。政治資金規正法で収支報告書への記載が求められているのは寄付行為者であり、資金の拠出者ではない。秘書がカネの出所が西松建設と知っていたからといって、それだけで「違反」と決めつけられるのか。
 違反とされても、罰則を適用するほど「悪質」かどうかは意見の分かれるところだ。同じ政治団体から多くの自民党議員にもカネは渡っており、収支報告書には西松建設が団体の所在地になっていた例もあったという。これを意識してか、漆間官房副長官は「自民党側は立件できない」といち早く予防線を張った。政治団体と西松建設が「一体」だったことは、政界では「周知の事実」ととらえる関係者も少なくない。公然の秘密を法律どおり処理していたとしたら、その悪質性をどう問うのか?
 今回の捜査は検察OBからも「検察の横暴」や「見込み違い」を指摘する声が上がっている。小沢前代表は、かねがね政権を取ったら与党議員を100人以上、行政府に入れると主張していた。そこには当然、検察も含まれる。民主党が政権を取れば、霞ヶ関に激震が走りそうだ。検察官僚に組織防衛の本能が働いたとしても不思議ではない。官僚にとっても、政権交代は驚天動地なのである。
 話を本題に戻そう。著者は英米の政権交代を解説し、1955年以降、なぜ日本に本格的な政権交代がないのか、と問いかける。(以下略)



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