大震災と原発事故から5年の今日、
いまも避難生活を続けている人17万人。
新聞社説はいっせいに、3.11のことを取りあげている。
購読している新聞以外の社説もwebで検索して読んでみたが、
現地からの距離によって取り上げ方の視点はいろいろ。
テレビは、朝から震災関連のニュースが流れている。
ニュースキャスターの「外にいる私たちに何ができるか」と
いう言葉が、耳に残っている。
けれど、
「わたしたち」はほんとうに震災の「外」にいるのだろうか。
原発事故の被害に「外」はあるのだろうか?
あの日を境に変わってしまったものはあるのではないか。
そんなことを考えながら、3月11日の新聞社説を読んでいます。
大震災から5年/「共に前へ」の思い 再確認を 2016年3月11日 河北新報 長い闘いになることを覚悟してはいても、この現状をどう評価すればいいのだろう。 東日本大震災から、きょうで5年。復興の姿はまだ見えない。暮らし、なりわいの基盤を整備する「まちづくり」は道半ば。胸突き八丁の局面にある。正念場を迎えているとの認識を共有したい。 もう5年、まだ5年。襲いかかる弱気を振り払い、必死の思いで復興に向けた日々を刻む被災地や被災者の受け止めはさまざま。もっとも、記念日的な感慨だけはない。 復興の進展のばらつきが顕著になってきている。 特需に恵まれた都市があり、新しい街の一端が姿を現した自治体がある。住宅再建を成し遂げ、事業や仕事が軌道に乗り始めた人がいる。 課題山積、後れを取る自治体もある。ついのすみかを決めかね、仮設住宅で疲労と失望を深くしている人もいる。復興から取り残されるわびしさが被災弱者をさいなむ。 被災の態様は千差万別。もともとの環境も異なる。時が解決の糸口になるはずだった。が、復興は想像以上に時間を要し、被災者の癒やしと再出発の道程を狂わせる。 原発被災地、福島の復興はなお遠い。帰還かなわぬ避難生活が住民の分断化と家族離散の固定化に拍車を掛ける。 遺族、特に行方不明者のいる遺族に区切りはない。「透明な喪失感」が沈潜し、歳月が寂しさを募らせもする。 事業の多くは計画通りに運んでいない。用地買収、合意形成の遅れや人手不足が要因とされるが、そもそも内容が適正で、執行への環境整備に手抜かりはなかったのか。 巨大な防潮堤建造に対する住民の不満がくすぶる地域がある。安全安心が原点と承知しつつ、かさ上げしたまちづくり用地や高台の住宅向け造成地の規模に圧倒される。「新しい町」が見通せぬまま人口流出や高齢化が進む。 政府などは「創造的復興」や地方創生のモデル事業にと勇ましい。予算の後押しを受け、現地のトレンドを脇に置き一発逆転にも似た発想でハード優先に向かわせた側面もあるのかもしれない。 ただ、過ぎたるは後々の重荷となるだけでなく、地域再生の遅れにつながり被災者の意欲をもそぎかねない。 仮設住宅ではコミュニティーの維持、新住区では連帯感育成という難題を抱える。心の復興は基盤の整備と同じ時間軸では測れない。見えにくいからこそ留意が要る。地域活性化は主役を担う住民が元気を取り戻してこそ。暮らしの再建に軸足を移し、再生の起点として人の復興を支える仕組みの充実に努めたい。 行政は被災者との連携を強化、思いに沿いながら取り組みを丁寧に総括し、過大と過小を見極めて必要な計画の修正を図らねばならない。5年の節目に意味があるとすれば、その好機ということだ。 未曽有の災害対応で見込み違いは避け難い。検証と見直しを通じて地域の永続性を高める、より効果的で現実的な事業推進に知恵を絞りたい。 未来を信じて、あらためて「共に前へ」の思いを強固に、あすにつながる、きょうの確かな一歩を重ねていこう。 |
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社説:震災から5年 心は一つ、じゃない世界で 2016年3月11日 朝日新聞 戦後最大の国難といわれた東日本大震災と福島第一原発の事故が起きた「3・11」から、5年がたつ。 宮城県や岩手県の海沿いでは工事の音が鳴り響く。だが、暮らしの再建はこれからだ。福島県をはじめ、約17万人が避難先での生活を強いられている。 震災と原発事故は、今もなお続いている。被災地から離れた全国で、その現実感を保つ人はどれだけいるだろう。 ■深まる「外」との分断 直後は、だれもが被災地のことを思い、「支え合い」「つながろう」の言葉を口にした。年の世相を表す「今年の漢字」に、「絆」が選ばれもした。 あの意識ははたして本物だったろうか。被災地の間ではむしろ、距離が開いていく「分断」を憂える声が聞こえてくる。 住み慣れた土地を離れる住宅移転。生活の場である海と陸とを隔てる防潮堤。「忘れたい」と「忘れまい」が同居する震災遺構。それぞれの問題をめぐり地元の意見は割れてきた。 人間と地域の和が壊れる。その痛みがもっとも深刻なのは、福島県だ。 放射線の影響をめぐり、住民の価値観や判断は揺れた。線量による区域割りで東京電力からの賠償額が違ったことも絡み、家族や地域は切り刻まれた。 ささくれだつ空気の中で、修復を求めて奔走する人たちはいた。無人の町を訪問者に案内したり、自主避難者向けに福島からの情報発信を始めたり。さまざまな活動が生まれた。 南相馬市の番場さち子さんもその一人だ。医師と一緒に放射線についての市民向け勉強会を80回以上重ねた。まずは正しい知識を得る。それが今後の生活の方針を納得して選び、前向きになる支えになると考えた。 番場さんらがいま懸念するのは、5年にわたる苦悩と克服の歩みが、被災地の「外」に伝わらず、認識のギャップが広がっていることだ。 「福島県では外出時にマスクは必要か」「福島産の米は食べられるのか」。県外から、そんな質問が今も続く。 空間線量や体内の被曝(ひばく)の継続的な測定、食材の全量検査、除染作業などさまざまな努力を重ねた結果、安全が確かめられたものは少なくない。だが、そうした正常化された部分は、県外になかなか伝わらない。 郡山市に住む母親は昨年、県外の反原発活動家を名乗る男性から「子供が病気になる」と非難された。原発への否定を無頓着に福島への忌避に重ねる口調に落胆した。「まだこんなことが続くのか」 ■「言葉」を探す高校生 時がたてば、被災地とほかとの間に意識の違いが生じるのは仕方のないことでもある。 だが、災害に強い社会を築くには、その溝を埋める不断の努力が欠かせない。いま苦境と闘う人と、そうでない人とは、いつ立場が変わるかも知れない。 福島の人びとが「この5年」を外に知ってほしいと思うのは、原発事故がもたらす分断の実相と克服の努力を全国の教訓として共有すべきだと考えるからでもある。 模索は続いている。 福島県広野町に昨春開校した県立ふたば未来学園高校では必修科目に演劇を組み入れる。 指導する劇作家の平田オリザ氏が生徒たちに課したのは、「立場の違いによるすれ違いや解決できない課題をそのまま表現する」こと。 授業の冒頭、平田氏は言う。「言っとくけど、福島や君たちのことなんて世界の誰も理解なんてしてないからね」 関心のない人に、どうやったら自分の思いが伝わるか。それは同時に、自分が他者の思いを想像できているかを自問することにもなる。 番場さんは、福島担当の東電役員を招いた勉強会も始めた。事故を起こした東電とあえて交流するのは、最後まで福島の再生に努める責任を負っている相手のことを知るためだ。 この世は、「心は一つ」ではない。歴史をみれば、分断はいくつも存在した。原爆に苦しんだ広島と長崎、水俣病など公害に侵された町、過大な米軍基地を押しつけられた沖縄――。 重い痛みを背負い、他者との意識差に傷つき悩みながら闘ってきた全国の地域がある。いま、そうした地域と福島とで交流する催しが増えている。 ■伝わらないことから 住む場所も考える問題も違う人間同士が「つながる」ためには、「互いにわからない」ことから出発し、対話を重ねていくしかない。 「伝えたい気持ちは、伝わらない経験があって初めて生まれる。その点で、震災と助け合いと分断とを経験した被災地の子どもたちには、復興を担い、世の中を切りひらく潜在的な力がある」と平田氏は言う。 被災地からの発信を一人ひとりが受け止め、返していくことから、もう一度始めたい。 |
社説:大震災から5年 福島の現実 向き合い、そして前へ 2016年3月11日 毎日新聞 日本中が震えたあの日から5年を迎えた。地震と津波による死者・行方不明者は1万8000人を超える。今も約17万4000人が避難生活を余儀なくされている。復興はまだ途上である。国を挙げて被災地の支援を続けたい。 とりわけ、原発事故に見舞われた福島の現状は厳しい。原子力災害からの復旧のめどは立たず、古里を追われた人は全都道府県に散り散りになっている。2000人を超える震災関連死は、被災各県の中で突出している。心と体への重い負担が現在進行形で続いているのが現状だ。 被害の全体像なお不明 除染後の廃棄物が詰まった大きな黒い袋が日々、山のように積み重ねられていく。福島の被災地のあちこちでみられる光景だ。 どれだけの土地がどれほどの放射能で汚染され、被害回復はどんなかたちで図れるのか。避難した人たちは将来的に古里に戻れるのか。 その問いに答えるには、放射能汚染の実態と、今も続く被害を正確に把握しなければならない。 福島と真剣に向き合い、共に前へ進んでいくことこそ、いま求められていることだろう。 原発事故については、政府の事故調査・検証委員会のほか、国会や民間の事故調査委員会などが、事故の経緯を検証し、報告書をまとめた。だが、原子力災害による被害に焦点を当てた政府の総括的な調査や検証はいまだ不十分だ。一定のデータの蓄積はあっても、体系化された記録は残されていない。 福島大の小山良太教授は「原子力災害の政府報告書がないことは、事故の総括がまだされていないということだ」と指摘する。 具体的には、避難状況や土壌などの汚染実態の把握、健康調査、農産物の検査結果などの現状分析、放射線対策への取り組みと、それに対する評価が必要だと説く。 中でも、県内外で避難を続けている約10万人の詳細な状況調査は欠かせないのではないか。移住を決めた人が増えているが、将来を見通せない人はなお多い。 自主避難者を含め、どんな困難に直面しているのか。その現実を把握して初めて個々の人に寄り添った選択肢の提示が可能になるはずだ。 たとえば、チェルノブイリ原発事故を起こした旧ソ連のウクライナと隣国ベラルーシは事故後、5年に1度、詳細な報告書を作成している。 ウクライナの報告書には、放射能汚染の動向や住民の健康状態、経済的影響といった項目が並ぶ。政府が責任を持って報告書を公表する姿勢は評価できるだろう。 本来、被害の実態が明らかになって初めて復興の過程が描ける。回復すべき損害の範囲も見えてくる。現在はその出発点があいまいなまま、復興政策が独り歩きしている。 品質に定評があった福島の米は、全量全袋検査で安全性が担保されるが、震災前の評価に戻っていない。風評被害でブランドイメージが損なわれ、流通の段階で価格が安く抑えられる構図が定着してしまった。だが、そうした構造的な問題は、賠償には反映されない。農業政策の見直しにもつながっていない。 「福島白書」の作成を 住民への賠償問題がこじれているのも根っこは同じだろう。各地の地裁に起こされた集団訴訟の原告はいまや1万2000人以上だ。政府が決めた指針と賠償の枠組みが、被災者の感じる被害の実態とかけ離れているのだろう。 この現状をどう見るか。国会事故調で委員長を務めた黒川清・政策研究大学院大客員教授が先週、日本記者クラブで会見し、こう述べた。 「何をするにも誰が責任者かはっきりしない。リーダーの無責任という日本社会の現実が、ご都合主義のごまかしの対応を生み、国際社会の信頼を失っている」 この国の根幹にかかわる指摘だ。今後の5年を、これまでと同じスタンスで歩んではならない。地に足をつけた政策が求められる。その礎とするために、原子力災害による被害を真っ正面から見据えた年次の「福島白書」の作成に国を挙げて取り組むべき時ではないか。 そして、作成に責任を持つことこそ政治の役割だ。 省庁のタテ割りというしがらみにとらわれないためには、国会事故調のようなかたちで、国会が主導するのも一案だ。検討してもらいたい。 福島の被災地でも、少しずつ復興のきざしが見え始めている。 南相馬市の小高区について、政府は来月の避難指示解除を打診した。生活インフラは不十分で、帰還をめぐる住民の意見も割れる。それでも、一時帰宅者が増え、真っ暗だった夜間の住宅街に、ぽつりぽつりと明かりがともり始めたと住民は語る。 古里を取り戻すまでの道のりは遠いが、未来に向けこの明かりを確かなものにしなければならない。国民の支えがその原動力になるだろう。 |
社説:故きを温ね次に備える 3・11から5年 2016年3月11日 中新聞 巨大地震の恐怖に向き合わねばならぬことは、日本列島に暮らすわたしたちの宿命である。東日本大震災の教訓を風化させず、次に備えねばならない。 渥美半島の先端近く、太平洋に面する愛知県田原市の堀切地区に「かいがらぼた」と呼ばれる江戸時代の盛り土が残っている。 海岸沿いに二・五キロほど、高さは地面から三メートル程度。頂上部分で海抜十メートルほどになるという。 一八五四年の安政東海地震で大きな津波被害を受けた後、先人たちが土砂と一緒に貝殻を積み上げて築いたと伝えられる。今でいうところの防潮堤である。 先人が残したもの 草木に覆われ、海岸の風景に溶け込む何げない盛り土だが、確かに浸水抑制に効果のあることが近年、科学的に示された。 田原市が二〇一二年に行った東海・東南海・南海の三連動地震が起きた場合の被害想定調査では、堀切地区は津波による浸水がないと予測された。ところが、かいがらぼたを除去した地形データを使ったシミュレーションでは、安政東海地震の時と同じように浸水するという結果が出たのである。 もちろん、もっと規模の大きな地震を想定すれば、かいがらぼたで津波を食い止めることはできない。だからといって、先人の遺産を軽視することはできないのである。 かいがらぼたの存在は、そこが津波被害に遭った場所であることを目に見える形で教えている。それは、心の準備につながる。その地区の子どもたちは大震災後、揺れたら一キロほど先の高台まで全力で走る訓練を繰り返してもきた。 いざというとき、一人一人が自分の命を守る基本動作ができるかどうか。東日本大震災で再確認した最も大事な教訓である。 そこでは何が起きうるのか。まずは、災害の痕跡が発するメッセージに謙虚に耳を傾けよう。 繰り返す南海トラフ 東日本大震災の大津波は仙台平野を奥深くまで襲い、思ってもみなかった場所にまで大きな被害をもたらした。想定外だったと言っていいのだろうか。 海岸から四キロ入った所でも、地面を掘り返せば砂が出る。それが貞観地震(八六九年)の津波で運ばれた砂であることも分かっていた。つまり、その一帯がかつて大津波に襲われた場所であることは分かっていたのである。 災害の痕跡を軽視していたことが福島第一原発事故にまでつながったことを忘れてはならない。 大地に刻まれた災害の痕跡、文献に残る記録から列島の宿命として警戒しなければならないのが東海・東南海・南海の三連動地震、南海トラフ巨大地震である。 「日本書紀」に記録が残る白鳳地震(六八四年)以降だけでも駿河湾から四国沖を震源とする巨大地震は九回も起きている。 最後に起きたのは一九四四年の昭和東南海地震と四六年の昭和南海地震。これまでの知見から、次がいつ起きてもおかしくないと覚悟しなくてはならない。 どんな被害が予想されるか。 これまでの大地震の経験から、地震の被害は、場所によって形態が大きく変わることが分かる。 例えば、九五年の阪神大震災では建物被害で多くの犠牲者が出たが、東日本大震災は津波被害が突出した。あるいは東日本大震災でも、東京湾岸では液状化による被害が大きくなった。 同じ津波でも、東日本大震災よりも震源が近い南海トラフ地震な ら、到達時間は早くなろう。津波到達より前に河川の堤防が崩れて浸水する恐れもある。 地震史は、つまり、予断を持ってはいけないと教えている。 東日本大震災では、津波を封じ込めるべく造られた新しい防潮堤が破壊され、古い防潮堤が持ちこたえた事例も知られる。防潮堤が高い場所ほど逃げ遅れの犠牲が目立つという傾向も見られた。 物だけでは守れない。行動を忘れるな、ということだろう。 国土交通省東北地方整備局の防災ヘリコプターは地震発生直後、乗員が機転を利かして格納庫の壊れたシャッターを切断し、仙台空港が津波にのみ込まれる前に離陸できたことで脚光を浴びた。同整備局が後にまとめた「災害初動期指揮心得」には「備えていたことしか、役には立たなかった。備えていただけでは、十分ではなかった」とある。最後にものをいうのは、一人一人の状況判断と応用力、ということである。 史実には謙虚に 温故知新という通り、地震対策も、故(ふる)きを温(たず)ねて次に備えることが欠かせない。心構えに必要な教訓は歴史の中から、五年前のつらい経験の中からいくつでも見つけ出すことができるはずである。 何が起きうるのか。史実を謙虚に見詰め、その日に備えよう。 |
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