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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

価値観の違いは、どこから来るのだろう?

2025-03-15 | 読む人々には興味ない話
またまた長文になってしまいました、、、。
こんなものをアップする、わたし。
ああ、ため息。

奥さんが熱烈な佐藤健ファン。
そういう男性Aさんを直に知っている。
(趣味仲間の一人)
奥さんは、推し活、追っかけをやっている。
推し活、遠隔地、遠征も容認。
ご自身も趣味に没頭し、あまり家庭を顧みないので、とやかく言う権利はないとのこと。

佐藤健のビジュアルに心酔する奥さんの美意識、イケメン、顔が全て、、、に対して、夫は程遠い現実、、、複雑な心境だろうと、わたしは勝手に想像する。
割り切っているとは思うが。
自分とは真逆のビジュアルに熱を上げるのは、一種の現実逃避?とは、考えないようだが。
そんなに堂々と自分の目の前で、イケメンは素敵、素敵、素敵!!!と目がハートマークになられて、気が悪くないのか?
(たいがい一般的には、現実と同次元には考えないと思うが)
そこらへんの普通のイケメンと、婚外隠し事をされるよりは、ずっとマシだろうけれど。

よそのご夫婦、わたしには全く関係も影響もない。
が、家庭で抱える病理が垣間見えることがある。
Aさんは、父親が亡くなり、母親を引き取り同居した。
食事はAさんは、いつも母親といっしょにする。
リビングルームは、常時、Aさんが1人独占。
奥さんや娘さんたちは自室にいる。
断絶感が漂っている。
今時の家庭はこんな感じなのか?
(これ、普通かも?)

このAさん、いつもスマホ。
片時もスマホを離さない。
わたしがAさんと距離を取るようになったのは、このスマホのせいもある。
趣味活動に対する方針や価値観の違いが勿論あるが。

たまたまメールやLINEが来た、、、というならわかる。
そうでもない、喫緊ではない、ゲームだったり、オンライン小説だったり、そういうものを相手が目の前にいても、スマホで遊ぶ。
若者ならともかく、THE OLDが。
この段階、瞬間で、ある程度の人は、距離を取ると思う。
わたしは、嫌だったが、他の趣味活動面もあり、我慢した。
今なら、即、アウト!!だろう。

このAさんは、家族との食事中もおそらく常にスマホを離さないと想像する。 
奥さんや娘さんは、離れた。
残るのはお母さんだけ。
1ミリずれると、崩壊する危険性を孕んでいる家庭だと、わたしは、みなしていた。
だが、日本人の家庭はこういうパターンが少なくない。
事態が動き、無事に危機を脱する家庭もある。
逆に、一気に破綻に向かうこともある。
Aさん一家がどうなったのかは知らないが。

娘さんが実家から出ず、結婚しないのもよくわかる。
「奥さん&娘さん」組 VS 「 Aさん&母親」組
別に結婚しなくても何の問題もない。今はそういう時代。
実家に居続けることは、母娘でウィンウィンである。
人には人の幸せ、自分には自分の幸せ、それぞれ個々に価値観がある。
誰に文句を言われる筋合いも、指し図される義務もない。
そういう人が多くなり、ボリュームゾーンを成し、流れを作る。
時代の移り変わりか。

まあ、そういうAさんであるが、不思議というか何というか、わたしとは趣味以外には何の接点も価値観の一致もなかった。
人は人。どうでもいい。
ではあるものの、やはり、どうでもいい、自分とは違う別の価値観は、いずれ、ここかしこに歪みが出てくる。
距離を置くことになる。
そして、完全に決裂する。

決裂する前に話し合い、相手の気持ちや考えを知り、お互いに歩み寄り、調整しながら進む、、、と、決裂は免れるのだろうけれど。

価値観というワードで括ってしまうと簡単だが、、、
わたしが思うに、「想像力」の有る無しだ。
人の立場になってものを考えることが出来るかどうか。
相手はどう感じるか、気持ちを汲み取れない、想像出来ない人がいる。 
職場にも学校にも、社会にはいっぱいいる。
経験不足だったり、心理的要因のせいだったり、原因は色々あるようだ。
そういう特徴、傾向があるということを自覚するのと、しないのとでは違ってくると思う。
ぱっとみたところの表面には表れないが、しばらくすると気づくことがある。





「負けず嫌い」と「負け惜しみ」

2025-02-26 | 読む人々には興味ない話
やたら長い、本日の記事、全スクロール、オススメ度は100%です。   
どうも、時間があると、よろしくありません。

・・・・・
負け犬の遠吠え。
負け惜しみ。
これ、大好きだ。
自分は気に入っていても、周りから見ると、イタイ!と感じられることもある。
というか、ほとんどが、そう。
周りにいる人のタイプ、人柄、属性にもよるだろうけれど。

例えば、とあるSNS会員同士のやりとり。
経済的には普通の男性会員A氏は、話術や行動力で女性にモテるようだが、謙遜して、「俺は黒歴史があって女性を泣かせたけど、モテる雰囲気ではない」と書くと、
「女性は、やっぱりカネなんじゃない?」と、野次馬男性B氏の野次コメントが付く。
このB氏は、いつもA氏にネガティブなことを言って、足を引っ張ってくる。
そこで、「俺はカネに、なびくようなオンナには興味がない」と、ピシャリ、カッコよくA氏は突き放す。
確かにその通りで、信念には筋が通っている。異論はない。
カネの部分を「ルックス」だったり「学歴」だったり、ハイスペック要素に置き換えることも、出来そう。
ある程度の基準があり、客観的に、わかりやすい。
「俺は◯◯になびくようなオンナには興味がない」
と言い切るだろう。
貫一お宮、、、古すぎて誰もわからない、知らないだろうけれど、、、ダイヤモンドに目が眩んだ恋人、お宮がすがりつくのを学生姿の貫一が蹴っ飛ばす(ギャグ?)シーンを子供の頃、何度もメディアか何かで見た。
名セリフもしっかり脳に残る。
(しょうもないことばかり覚えている、幼い頃の、わたし)

ちなみに、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」中のこのセリフは有名で、明治期の小説の中で、最も広く読まれたものの一つらしい。
背景は日清戦争後の社会を背景に、金銭と恋愛を描いたもの、、、。
昭和高度成長期に生まれ育ったわたしが、なんで、そんなに脳裏に焼きついているのかは、不明。
おそらく、戦後、豊かになった社会の中で、余裕を表すシニカルギャグとして、よく使われていたのではないかと推測する。
サブカル評論家なら、もっと高度な考察を述べるだろうけれど、サブカルじゃないし。文学だし。
サブカルが格が下で、文学が高尚だとは、言い切れないが。大衆の力。
文芸評論家より、サブカル評論家のほうが、グイグイ来るものがある、、、と、わたしの個人的感想。
ではあるものの、文学もサブカルも、さっぱりわからない、わたし。

まあそれは、社会が激変する明治期の象徴的シーンだったのかも知れないが、令和だからといって、あり得ないわけでもない。
とは言え、社会は大きく変貌していることも確か。

と、話はいつものごとく逸れている。

前述のA氏。
わたしは意地悪なのか、ひね曲がっているのか、性格が悪いようで、どうも違和感がある。
カネ目当てのオンナには興味はない、と声高らかに言い切るには、ある程度のオカネがないと、どうも説得力がない。
婚活パーティーで、高齢男性が年金手帳を参加女性に見せて、「私は、お金には心配ありません」と力説しておられる場面をTVの取材ニュースで見たことがある。

スポーツが上手くない、苦手な人が、「私は、スポーツが得意な人には全然興味も関心もありません」と言っているようなかんじか。
とても、わかるのだが。
一緒に行動すると体力差で、ついていけないことがある。
高圧的、体育会系、熱血系、押しつけ系の人は苦手かも知れないが、そうでない、淡々とスポーツ好きな人もいる。
しかも、努力家だったり、継続力、忍耐力があったり、尊敬すべき美点をお持ちのこともある。
それを、こっちから願い下げだ、というスタンス。
畏れ多くて辞退するならいざ知らず。
負ける前に、相手を否定する。

(それ以前に、野次馬、、、周りから他人の弱点をワザと晒すようなことを言うのは、もっと、けしからん、姑息な小さな器だとは思うが)

イソップ物語の「酸っぱい葡萄」。
自分の劣勢を認める前に、自己の能力の低さを正当化したり擁護するため(自己肯定するため)対象を貶めたり価値の無いものだと否定するパターン。
いわゆる、負け惜しみは、理想的な「負けず嫌い」とは、少し違う。

しかしながら、負けを認め過ぎて、こころを病んではどうしようもないので、自分の尊厳、プライドを守るには良いだろうけれど。

負け惜しみと、負けず嫌いは、リンクしている。
対象を否定する気持ちはわかるが、外から見て負け惜しみが透けてわかりやすいと、微妙な心境になる。
本人は絶対に自覚はないし、自覚しろとは口が裂けても言えない。
コンプレックスの裏返しかも知れないナイーブな箇所に、土足で踏み込んで、人のことをとやかく言える何様でもない。
見て見ぬフリをするのは、容認の一種だろう。
お互いさま。人間だもの。
欠点や弱点は、必ずある。
人の弱点が見えたからといって、いちいち敏感にピリピリ感受性を発揮していたら、やってられないことも確かだ。
その面が、受け入れられるか、受け入れられないか。
積み重なるとどうなるか。
価値観の違いを受け入れられない場合は、受け流せるかどうか。
近寄り過ぎると、良くない。
遠いと気にならないだろう。
距離感は必要だ。








アートって何だろう?

2025-02-20 | 読む人々には興味ない話
わたしは、令和の世の中では、社会・非適合者かも知れない。
病名も、ちゃんと、つけることが出来る。
ただし、自分がまだ若く、学習期だったり、働き盛りの成人なら。
しかし、もうわたしは老後で、現役は卒業しているので、背負うものを降ろしてもよい。
と、自分で自分を定義付けている。
ついでに、甘やかしてもいる。
べつに何もしなくてよい、と。

義務と権利がセットだとすると、義務がないなら権利もないのか?
義務を背中から降ろすと、自由が手に入るのではないのか。
自由は、義務とセットか。
じゃあ、権利と自由の関係は?
義務を果たさないと、権利も自由もないのか。
義務と権利と自由の関係は?
自由を謳歌するには、責任がセット。
こんがらがってきた。

今のわたしでは、学校での学習や集団行動は苦手。
許されるなら、登校拒否になっている。 
親が厳し過ぎて、とても登校拒否はさせてくれそうもないが。

社会で働くのも、今のわたしには、能力と、やる気がないので、出来ない。
若い頃ならいざ知らず。
学んだり働いたりすることが義務だった時期を過ぎたから、もう頑張らなくてもいいのか。
目に見える立派な誇れる成果は無いが、目の前にあった義務はこなした。
それで堪忍してちょうだい。許して。もういいでしょう?

どんどん老化して、心身ともに破滅していくのだろう。
でも、好きなことをして、生きていきたい。

ちなみに、自分を解放する映画が大好き。 
他のgooブログで、面白そうな映画が紹介されていた。
2月下旬に、あまり近くない都心部の映画館で封切りされるようなので、ぜひ観に行きたい。
フェミニズムがテーマかと。

ところで。
「アートの定義は何ですか?」
と、いつもお邪魔する映像プロ(奈良在住)のブログで、読者さんの質問に、コメントされていた。
「定義はありません」
そう答えておられたような、、、。
「好き嫌い」や、「こころに響く」「響かない」は、人によって様々だろう。
感性は人それぞれ。

落書きアートでも、ユニークな力強いものもあれば、本当に退屈しのぎにやったような稚拙なものもある。
魂の発露のようなものもある。
脱力して、かえって良い味が出ることもあるし、単に暇つぶしだけのヒドイものもある。
暇つぶしも、適当な、いい加減なものは、こころを打たないことが多い。
例え、くだらないことでも、熱意をもって打ち込むと、熱情が伝わる。
個人個人の感受性や受け取り方は、千差万別なので、解説できないが。
でも、近所のコンクリート塀に落書きされているのを目にするが、精度が低い、つまらないものだ。
単なるイタズラ。気合いが入っていない。
一生懸命、遊んでない。
遊びや暇つぶしも、精一杯やると、自分でも想定していなかった、おもしろいものに変化することがある。
わたしは、そういう、意図しない偶然が造る、実は必然、みたいなものが好きだ。
とは言え、練りに練った挙句、別の意外なところからひょっこり顔を現す、、、

一生懸命のこだわりは、ある日、突然、突き動かされるものに変化することがある。
99.999%は、使い物にならなくても。
99.99999%の無駄は、0.00001%のものを引き出すことがある。誘発する何か、、、

自分だけのこだわりや、閃きに、ビタッと合致するものに出会った瞬間が、アートなのだろうか。
しかしアートは、実生活に役立つか?
アート分野ではなく、科学分野の発見や技術なら、画期的だ。実用性がある。

こころと技術が合体すると、世の中が動く。
膨大な時間、エネルギー、労力を費やし、実験、研究が繰り返されている。
ではあるが、科学がこころを追い越すと、厄介だ。

長いばかりの話になった。

※写真は本文と関係ありません。
旧山形県庁舎2階の窓から見た、渡り廊下で結ばれた県会議事堂。
火事により焼失後、1916年(大正5)に復興、完成。





まさに、独り言

2025-02-08 | 読む人々には興味ない話
明け方、夢を見た。
夢に出てきたのは、義姉(兄嫁)と母。
義姉の行動に抗議、阻止しようと、必死で母に訴えているわたし。
周りの他人が、いったい何ごとかと怪訝に思うようなほど、声を大にして、すごい剣幕で、何故わからないの?と母に迫る。
だが、いくら頑張っても、母の答えは引き出せない。
夢の中には父も兄も姉もいなかった。
義姉は、引っ越し作業の最中。

わたしは人の目にはどう映るか、客観的に見ている自分がいるのだろう。
心象風景。
夢は気になっていること、こころに引っ掛かっていることが現れるらしい。
潜在意識。

ちなみに。
毎日、豪雪のニュース。
5時間もぶっ続けで雪かきをして腰を痛めた高年男性がニュースに出ていた。
マッサージ、整体師の男性が、カチカチに固まった身体を揉みほぐす施術も一筋縄ではいかない、ものすごく重労働をしていた、
ある意味、二次災害だ。

今週は引き篭もった。
雪かきがないだけ、幸運だ。
自然に対峙しなければ生きて行けない。
そんな中で、怠惰に暮らしている。

またまたChatGPT のお世話になった。
質問をたくさんした。
そのうちの一つ。
「わたしは認知機能の低下を認識して受け入れ、認めていますが、それは認知機能を低下させますか?」
ChatGPT は、優しく答えてくれた。
認知機能低下は、別に構わないって。
もし気にするなら、コレコレアレアレをしたらいかがですか?
というアドバイスが5つほど書かれていた。
そのうち、4つは普通に今やっていること。
そうか、、、続けたらいいのか。

無理して頑張ると、負荷がかかり、かえってストレスになるので逆効果だそう。
楽しく出来ることが肝らしい。

アドバイスの中に、一つ実践していない、欠けていることがある。
それは、新しい何かに挑戦すること。
だがしかし、今やっていることを疎かにしてまで、新しいことに着手するのは、どうかと思う。
(たんに腰が重いだけか)

脳を活性化させるのは、、、
脳を使うこと。(当たり前か)
外に出て刺激を受けるだけでもいいそうな。
なにもクリエイティブなこと、創造、創作、、、でなくても。
だが、料理はクリエイティブだと思う。
家事も工夫したり、楽しんだり。

わたしは、とことんやることがなくなり、退屈の極致に達すると、仕方なく、無理やり、嫌々、渋々、家事をする。
本当は一番先にやるべきことを済ませて、残り時間で遊ぶのが正しい順序だと思うが。
雪かきは、生きていくには欠かせないが、他の家事は、やらなくても死なない。
ゴミダメの中でも部屋があれば生きていけるし、料理しなくても冷凍食品やインスタント食品、フリーズドライ、、、なんでもある。
ではあるが、電気水道ガスがストップすると、どうしようもない。
原始人や無人島生活、サバイバルの達人ではないので。
では江戸時代の暮らしに戻ればよいのか?
ではあるが、地球温暖化で地球環境が変化しているので、過去には戻れない。

日本は食糧自給率が著しく低い。
自立できない。
労働力も自国だけでは補い切れない。
時代の変化に対応出来ないと、それこそ生きて行けない。
では、、、
日本ならではの、豊富な観光資源を活かす道に、かかっているのでは?
観光立国に?
自治体、行政公共サービスも低下を余儀なくされ、快適な暮らしは当たり前ではなくなりつつある。
活路を見出さなければ、日本の未来は明るくない。

と、家事をしない話から、なぜか、こんな流れになってしまった。
危機感をもって対応していかなければならない。
認知機能低下を嘆いている場合ではない。





やっと脱皮できた?

2024-11-22 | 読む人々には興味ない話
今回の記事は、100%、全文スクロールをオススメします。
きっぱり。

たぶん、今日の記事は、やたら長いと(たぶん)思う。
遠足から帰ってきた小学低学年児童が、リュックサックを下ろすや否や、息せき切って、母親に話すようなかんじか。
話は時系列。
あのね、あのね、と、自分の脳内では整理されず、勢いよく口から飛び出す。

と、自分でそう感じた。
アタマの中でブログ記事の実況中継の文字と同時進行で、耳&目、手足を動かす。

まず、話のスタートは、、、。
そもそも、今日は、京都の南禅寺や哲学の道を歩く会があった。
いつも知人Aさんに、強くプッシュされ、参加しているもの。
今年の夏は酷暑でどこにも行けなかった皺寄せ、鬱憤、鬱積を一気に吐き出すかのように、秋のウォーキングに情熱を注ぐAさん。
前回、先月の奈良、法隆寺は参加者200人超えの盛況ぶり。
その様子を蝶ブログにもしっかりアップした。
それはまあ、それで良いのだが。

わたしは、ずーっと長い間、このウォーキング会に参加したくない気持ちが燻っていた。
だが、Aさんの圧力に負け、いつも渋々参加。
参加したらしたで、清々しい外気に触れ、すっきりするのだが。
動くまでがなかなか、すごくエネルギーを必要とする。
2番目孫(小4男児)が宿題に取りかかるまでの抵抗力と同じぐらい?
その、やりたくない、行きたくない気持ちと闘っていたが、自分のためになる、健康のため、将来のため、と、自分を騙し騙し重いお尻を上げ、重い足を引きずって参加していた。
前回のような、秋の爽やか快晴、奈良の満足経験を直近にしているにも関わらず、また、重い気持ちはクリアされず、一から憂鬱気分が湧き起こる。
あんなに良かったのに、しかも200人もの人が参加しているぐらい人気があるのに、何故なんだろう?
自分でも悶々としていたが、「嫌なら行くな」と相談した人、全員がそう答え、わたしも納得していた。
ChatGPT にも何回も、しつこく同じ質問を投げかけた。

いつもは前日から重苦しく暗い気持ちを掻き消す努力をして、リュックサックや衣類、小物など用意するのだが、今回は、前日から何もしなかった。
この季節、着る服に困るなあ、、、とは思っていたが。
なぜなら、ウォーキングに徹した服(mont-bellに代表されるような)を持っていないから、服装選びが中途半端。
それはまあいいとして。
行くつもりで前から精神的にも頑張って鼓舞、ハッパをかけ、スケジュール的にも予定していた。
朝、出発時間が早いから、スマホのアラームをセットし、バスの乗車時間を前もってカレンダーに書き込み、スタンバイしていた。

が、朝方、ほんの少し頭が痛くなった。
なぜか、その痛みが福音をもたらすかのように、この痛み!!この痛みには意味がある!!見過ごすべき痛みではない!!
わたしは、ウォーキングに行かなくてもいい、と、神様の思し召し、、、と、勝手に自己都合で、自己解釈した。
神様が降臨した。ピカリ。
サボってもいいよ、と、にっこり。
そう悪魔が囁いた途端、(神様が微笑んだんじゃなかったのか?)、サボろう!と決めた。

そもそも、皆さん、おひとり様(単独)での参加がほとんど。
(友人と連れ立って、という人も中にはいるが、少数派)
予約不要で自由参加。
1人で参加して欲しい、と、わたしはAさんに再三再四、お願いしているのに、1人で参加したがらないAさんに引っ張られる格好で、お付き合い参加していた。

神様からの「頭痛」メッセージで、ドタキャンを決めたわたし。
時計のアラームがスヌーズ設定で何回も鳴るが、その度に、布団の中から手を伸ばして止める。
やがて、もうこの時間に起きなければ準備スタートには間に合わない時間になると、ほっとした。
やれやれ。
もう行かなくてもいい。

それにしても、長い間、引きずられていたものだ。
嫌なら、とっとと、やめたらよいものを。
まだ間に合う時間から、今日はもう行けない時間になるまで、時が移る中で、ふっとアタマの上から舞い降りるものがあった。
わたしが、なぜ、このウォーキングの会が嫌いなのか、理由が、すとんとわかった。
今に始まった、新しい理由でもなんでもない。
前々から、なぜ行きたくないのか、理由をうっすら自己分析していた内容だった。
はっきり再認識、再確認したのだろう。念押し。

このウォーキング会、今のわたしには、まだ年齢的に早いということ。
皆さん、わたしより5歳は上だと御見受けする。
そして、高齢男性が多い。
つまり、わたしの年齢の人は、自分のしたいことを自分で計画して、自分で行く。
団体でゾロゾロ後を着いていくようなウォーキングはしない。
1人だと寂しいから団体でウォーキングするという人も中にはいるだろうが、わたしは、逆に団体が苦手。
そのあたりに、抵抗感があったのだろう。
Aさんは、わたしと一緒にウォーキングしたいのなら、独自のプランを立案して表してくれたなら、一緒に行かないでもない。
プランが立てられないで、既存の団体プランに乗っかろうという安易さに対して、わたしはノリが悪い。

今日の京都は、189人もの参加者がいたらしいので、季節や行き先に、人気が集中したと思われる。
なので、スポット的に参加するのは有り得るかも知れないが、、、
前々からの解決されない悩みを抱えている身としては、自分の参加したくない気持ちが上回るかたちになった。
絶好の気候、快晴、良い行き先にも拘らず、自分のモヤモヤを解消させる方が勝った。
気持ちが溢れ出ていて、止めるキッカケを探していたのだろうか。

長々と書いている。
自分のために、自分の行動を心理分析、解析したい。
自分には、嗜好、好み、こだわりがある。
お仕着せではない、オリジナルのものでなければ、満足できないようになってしまっているのか。
既製品だとしても、内容に対して要望、欲求がある。
いろんなことを試行錯誤、模索していると、なんとなくではなく、ハッキリ明確になっている。
その要望に合わないものに対して、無理矢理合わせない。
行かない、行動しない、という選択をする。

そうやって行動範囲をどんどん狭めてきているが、ある意味、自分の欲求、嗜好がよくわかっているということ。
手探りで闇雲に手を出して探し回る時期はもう過ぎている。
暗中模索は、卒業。
なので、自分の好みを優先すると、行きたいところや、参加したいことは、妥協はしないようになっている。
例えば、人気のない旅コースなのに、喜んで参加する変わり者みたいなかんじにもなっている。
出来るうちは、能動的に選んで行動したい。
気分的に、ゾロゾロ団体ウォーキングに参加したい時は、参加する。(しない可能性もある)
それはお付き合いや、引っ張られてではなく、自分の意思で、自主的に、能動的に。
林住期は、わがまま、自由。

それで、ドタキャンして行かなかった時間をわたしは今日、何に使ったか。
益々長くなるので、またの機会に。



言葉も考えも通じないと、、、

2024-07-19 | 読む人々には興味ない話
わたしがとても興味を覚えることがある。

江戸時代あたりに、船が嵐が何かでトラブルがあり、漂流した人。
漂流した先は無人島で、魚を獲ったりサバイバルして生き延びた、、、という展開もさることながら、無人島の後に外国船に拾われ(発見され救助され)、未知の国に連れて行かれた人の話、、、これには想像力を掻き立てられる。

大人で知能もあり、目も耳も聴こえる人が、全く見ず知らずの国、土地に流れ着いたら、、、どうなるか。
現地の女性と結婚して住み着く人もいる。
(実際の漂流者が女性である伝説は稀であるが)
健常な肉体さえあれば、どうにかなる。

わたしが知りたいのは、、、
連れて行かれたアメリカやロシアから、日本に帰国した人。
知性ある人は見聞したことを活かせる。
見聞録を元に、幕府の役に立ったり出来る。
それは良いのだが、、、

耳も聴こえて、目も見え、話すことも出来る、(読み書きは出来る?)大人の人が、外国で体験したこと、見聞きしたことを日本人相手に日本語で伝えられないこと。
それは、見聞きしたことが体験したことがない、見たことも聞いたこともないことで、話を聞き取る相手も未知の世界だったら、話が通じない。
難破した船の乗組員の何人かは、聞き取りには知力不足で応じられなかったが、中には、ちゃんと話せる人がいると、その人は知性がひときわ優れていたということだろうか。
知性の中には、現状認知力、理解力、記憶力のインプットと同時に、人に伝えるアウトプット能力が必要だ。
自分の頭の中だけに物語が詰まっていても、それを表現できなければ、幕府の力にはなれない。
ストーリーテラーにもなれない。

考えをまとめて言語化することは、日常では何気なく行われている。
幼い子供は言語能力がまだ未発達だと、内面(こころの中)を絵にしたりする。
絵にすると、益々、見る人にはわからないこともある。
絵を描くことが苦手な子供もいるし。
それと、深くものごとを考えたり整理したりする力がまだ備わっていない。
たんに、語彙が少ないだけではない。
考える力は、成長と共に徐々に養われていく。
(大人でも自分の考えが整理出来ない場合は、感情表現の一つとして、暴力に走ったりする)

いくら思考力が備わっていても、見たことも聞いたこともない、想像も出来ない事柄を目の前の人にどう説明するのか。
面白い実験になる。

地球人との共通言語を話さない宇宙人のようなものなのだろうか。

訪れた外国の、その国の言語が全くわからなくても、どうにかなる。
(自衛しないと、痛い目を見るが)
ものすごい僻地で、どうにもならないこともあるかも知れないが、現代では秘境はほとんど知れ渡っている。
世界の果てでも、観光化されていると、観光客相手に色々整っている。
未知の文化に触れるのは刺激的で気付きがあるため、人々は外国を行き来する。
今は、ほとんど大まかに情報は掴める。

だが、自分から好奇心で自国を飛び出す場合と、そんなつもりはなかったのに行く場合がある。
しかも鎖国が長い時代だと、外国の情報など入って来ない。
混乱するだろう。
アイデンティティを見失い、揺らぐかも知れない。
というか、過去の伝聞が残っていないため、想像を張り巡らせる。
これが結構、楽しかったりする。

墓の行方

2024-06-17 | 読む人々には興味ない話
墓じまいについて。
65歳以上の人にしか興味がないと思われるが、自分が興味のあることを書く。

前にも書いたが、知人Aさん(推定70歳代)が、住居のある地区で墓地を以前、購入した。
核家族であるAさん家は、誰も亡くなっていないので、墓石はまだ設置していない。
墓石が建っていない更地墓地に管理費を毎年払うが、購入済み、更地スペースはポツンポツンと段々少なくなり、周りはどんどん墓石が建つようになってきて、肩身が狭いという。
別の地域にある親の墓は、親が亡くなってから、Aさんの兄が建てた。
故郷の墓が遠いため、墓の引越をしたようだ。
兄夫婦は、兄が建てた両親の墓に今後、入るが、兄の子供達は、2人とも遠方に住み、そちらで腰を据えるため、親の墓を引き継げない見通し。
引き継がれない親の墓を抱えながら、その一方で自分の墓地を更地で持つ知人Aさん。
Aさんの子供達も遠方だったり、息子のお嫁さんが女系家族だったり。
墓を建てて維持してもらえるのかどうか、未知数。
あまり何も考えないで、自分たちの墓地を買い求めたAさん。
どうなるのだろう。
移動した親の墓も、Aさんの墓も、子供達には負担だろう。
Aさん夫婦のどちらかが先に亡くなったら、残された片方が、やっと墓石を建てるのだろうか。
そこのところだけが、遺族の考えどころ、悩みどころだ。
残された片方がどんな状態かにもよる。
認知症や病気になっているかも知れない。
その時に考えるしかないか。
だが、ぴんぴんしている70代の今では想像もつかないことでも、80代になり、90代になると、だいたい予想がつく。
親の墓じまいをするのも、終活のひとつであるが、自分の墓をどうするのかも、道筋をつけておけば、残された子供達の負担が軽減される。
だいたい終活するタイプの人は、親の墓じまいで苦労したため、子供には同じ苦労をさせたくない、だから自分の墓は要らない、という人が多いかも知れない。

両親両方が亡き後は、子供達が自分達の考えを反映して行動することだろう。

ちなみに。
わたしの実家の墓は、とりあえずは、あと40年ぐらいは維持されるだろう。

わたし自身に関しては、夫の墓地に眠る予定。
先代と先先代の嫁が相談して力を合わせて、過去帳と、当時既存の墓石に刻まれた戒名や記録を元にしたり、(たぶん)お寺に問い合わせたりして、墓をリニューアルしたため、わたしは、楽ちん。
だが、わたし達夫婦の墓石は新設しないと、無い。
場所は、同墓地敷地内、先祖、先代達の墓石に隣接。
新設墓石は、夫婦のうち、生き残った方が建てる。
墓の維持費、管理費は残しておく。
子供達は現地に来れないなら、業者に委託するとよいかと。
仮に子供がお金を使い込んでしまったとしても、わたしはこの世にいないから、わからない。
恨めしや〜と、化けて出て来るなんてことはない。

現代や未来に生きる子孫たちに、過去の価値観を押し付けるのは、いかがなるものか。
行われてきた事実の報告だけは残しておくつもりだが、はたして聞く耳を持つかどうか、だ。




白洲次郎の前後左右、斜め

2024-05-14 | 読む人々には興味ない話
白洲次郎のルーツを辿るウォーキング。
身体はいきなり体調が悪化して、日曜日、母の日で娘たちが来てくれるというのに、ぎりぎり直前まで寝込んでいた。

身体は悲鳴をあげたが、白洲次郎への興味はムクムク。
Googleで調べ始めると止まらない。
インターネットでは不十分だし、ところどころ間違いがある。
参考図書、資料書籍を購入しようかと本気で考える。
それは、なにも白洲次郎本人だけへの興味ではない。
今はまだ白洲次郎は、1番最後にさらっと目を通す段階。
過去(わかっているのは14世紀ぐらい?諸説あり)から白洲次郎に行く着くまで、さらに、それ以後、令和にはどうなっているのか、そして、枝分かれした人々はどうなったのか?
それを調べたら、全然調べ尽くせない。
当たり前だけど。
肝心の白洲次郎への関心が1番低かったことに、今回、驚いた。
漫画の主人公みたいにカッコイイ人、と、上べだけをさらっと見ていた。

だが、彼は明治生まれのオボッチャマなので、時代が違う。
それを言うなら、彼の先祖はもっと時代が違う。
明治で社会構造、産業基盤、階級が、ころっと激変した。
継続しているのは、廃業しても引き続きやっていけている、ごく一部の元武士ぐらい。
(呉服屋さんや、酒・醤油蔵元なども創業は江戸時代というところもある)
それと、農民。(海、山の第一次産業従事者も)

わたしは、小学校から今まで社会科歴史は成績はボロボロ。
ろくすっぽ、わかっていない。本も読まない。
知識も見識もない。
そのレベルでの感想。

日本人は農耕民族で、(平安時代はお公家さんが上のようだが)やがて、僧侶が勢力を増したり、江戸時代にはピラミッドの頂点に武士がいて、その近くあたりに皇族がいるのか、と、今更ながら感じた。
明治以降は権力者が権力構造を入れ替えたり、成功を掴むのは、時代が変わる時のドサクサもある。
元武士は、頭が良く、勉強家で決断力があるのだなあ、、、と、またまた今更ながら思った。
男性の面々、特に老齢の男性が、明治維新や戦国時代〜江戸の始まりあたりの日本史が大好きなのが、よくわかる。
「大化の改新」とかは、遠すぎてピンと来ない。マニア向け?
近代史に比べると、史実を現す物証も、少ないだろうし。
時代は、「どうして」「どうやって変わって行ったのか」に興味がある。
歴史を学ぶと面白いことが詰まっている。
そんなのは大嫌いな人にとっては、大嫌いだろう。
林住期を過ぎ、遊行期に向かうと、過去の流れを知ることにより、自分が生きて来た足跡、時代が浮き彫りになる。
わたしは、オタクで引きこもりなので、調べたりして自分だけ楽しむのが好きだ。

ちなみに、白洲次郎、正子夫妻も、派手なパーティは苦手だったらしい。
唯一、ここだけは、わたしとの共通点。

三田藩主、九鬼家について、ウォーキングで一緒になった人と、隣で、おにぎりを食べながら聞いた話がある。
職場に九鬼という苗字の人がいて、出身は三田ではなかったが、その人の周りは苗字は九鬼だらけだったらしい。
実際の親戚も多いだろうけれど、名字帯刀が許された後も、こぞって九鬼と名乗ったのかも知れないと推測されていた。
藩主となった九鬼さん、その地から綾部と三田に分かれ、何もない山の中の僻地に飛ばされたようだ。
(鳥羽から移封された)
日本は狭い。日本中に、いろんな人が散らばっている。

九鬼家代々、歴代三田藩主たちが眠る寺。
墓がある寺の写真は撮らなかった。



時空を越える繋がり

2024-04-23 | 読む人々には興味ない話
仏蘭西に、血のつながらない、戸籍の上では無関係の、乳母とかも全く別の(乳きょうだいではない)、弟が住んでいる。
正しく言うと、「弟のような人」。
日常も、まるで別の生活をし、同窓だとか、同僚とか、仕事がらみだとか、まるっきり関わりがない。
強いて言えば、趣味が同じ。
ほんの少し、弟(のような人)のほうが後輩。
最近、シニアワールドから歓迎のキツイ、プレゼントを受けたそうだ。
ようこそ。
お待ちしていました、と。
わたしは、シニアワールドの先輩でもある。

それはそうと。
ハワイに、血のつながらない親戚が住んでいる。
面識も、お付き合いも、名前も知らないが、親戚であることは事実だ。
いきなりハワイに行って、空港で「ハロー」と迎えに来てください、と絶対に言えない。
でも、一応、本当に親戚。
まだ親戚歴は2年10ヶ月。
いたって短い。
一生、逢うことはないだろう。
ケンカしているわけでも、絶縁しているわけでもない。
直接、接点がないだけだ。

人の繋がりは面白い。
親子や、きょうだい、血の繋がりもあるし、姻戚関係の繋がりもある。
姻戚関係は、離婚したらキレイにぷつんと切れる。
死別の場合は、ケース・バイ・ケースだろう。

ちなみに。
わたしは、自分のルーツより、夫側のルーツに興味がある。
自分のルーツは、あまり多くを語り継がれていないため、ネタが少ない。
それに比べると、夫側は資料があって、研究材料には持ってこい。
物証も、語り継ぎも、言い伝えも、伝承も、いろんな角度から検証出来る。
おそらく、中継ぎのピッチャーみたいな人の活躍までを、バトンを渡したり、受けたりする際に、詳細に正確に伝えたのだろう。
とは言え、そんなに多くはない物証から、わたしが物証と物証を繋ぎ合わせ、想像していくのだが。
電車の時刻表だけを見て、国内旅行をしているようなものだ。
マニアにはそれも楽しい。
想像して組み立て、立体化していく。

ではあるものの、よく知らないことが多い。
過去に色々見聞きしたことがあるお年寄りの関係者の皆さんの記憶力がまだあるうちに、聞き取り調査をしたいものだ。

ところで。(話は長くなる)
わたしの末子が2歳の時、末子は肺炎、わたしは喘息で、共に入院した。
夫の実家近くの、地方の医大系病院の分院。
親子一緒の4人部屋、しかもそこは、老人病棟だった。
小児科と内科と老人科(こんな科はあるのかどうか知らないが、今、調べてみると「老年病科」というらしい)の合同混ぜこぜ病室。
さすが、いなか。地域密着型。
もう一人の高齢女性が同室に入院していた。
このおばあさんは、話を聞いてみると親戚だった。
夫の実家の3代前の明治初期の分家の子孫と結婚した人の母親。ややこしい。
(でも家は近く)
夫の父の父の父の弟の、、、、と説明を書いていたら、読む側は絶対に理解できないだろうと思い、削除した。
ではあるものの、しつこく、説明に再チャレンジ。
同病室のおばあさんは、昔の分家の娘さんの、お婿さんの、親。(=姑)
そのおばあさんが言うには、、、。
おばあさんが小さい頃?あるいは若い頃?に聞いたと思われるが、夫の家、今から4代前の嫁に関する人物評。
お客さんによって、七色の声を使い分ける、商売上手な女性だったそうだ。
この女性は、わたしの生まれた年からちょうど100年前に生まれている。
わたしより100歳、年上。
その人の話を、37年前に入院病室でしてくれたわけだが、、、
その時、一緒に入院していた、当時2歳の末子は、今、2歳の子供がいる。

話が古すぎる、、、
ぴたりと時が止まったような話を書きながら、わたしはいつの人間で、どの時代に生きているのだろうと思ってしまった。

というか、話を元に戻そう。
人の繋がりは面白い、という話だった。
時空を超えることもあるし、超えないこともある。
今だけ、ココだけ、一瞬、瞬間だけ。
そういうのもある。





コガネムシではなく小金持ち

2024-04-15 | 読む人々には興味ない話
わたしは小金持ち風ティストが苦手だ。
小金持ちそのものが苦手なわけではなく、小金持ち「風」「ティスト」が苦手。
これは、あくまでもティストであり、実際の財産、不動産や預貯金の有無は関係ない。
自分が勝手に脳内でイメージするもの。

マダムサロンに漂う雰囲気?
マダムサロンも、一種のロビー活動のような感じで、夫の仕事や出世に一役買うのなら、あるいは、コミュニケーションで仕事人間関係の潤滑油になるなら、と気配り、尽力すると思う。
「プロ野球・妻の会」「歌舞伎役者を夫に持つ妻たち→梨園」みたいな世界はさておき。
なぜ、さておき、かと言うと、自分には無縁なので関心がないから。

もっと実業界だの、法曹界だの、経済界だの、教育界だの、政界だの、、、そう世界なら身近なのか?
ノン、否。全く別世界ではあるが、興味はある。
なぜなら、「◯◯の妻」ではなく、本人の世界。
それはそれとして。
たんなる、知らない世界への好奇心。

本人が、例えば、政治家になった三原じゅん子に関心があるかというと、べつにない。
政界での活躍より、最近では高級車盗難被害遭遇のほうが実際の動きとしては印象に残る。
といっても、LINEニュースで見ただけで、わたしとは何の関わりもないが。
車庫は、都内の自宅に続くスペースのようなかんじだったので、国会議員さんは、やはり高収入のようだ。事業、多角経営とか?
これは、小金持ち?
まあそれはよいとして。

あくまでも、〇〇風、というイメージ、ティストの問題。
生き方にも関わってくる。
高級品を身につけ、高級品に囲まれた暮らしをしているのが、わたしが描く(狭義の)金持ちイメージ。
では、小金持ちとは?
金持ちのスケールを少し小さくしたかんじ?
ノン、否。

わたしが勝手にイメージ付ける小金持ちとは、、、金持ち自慢。
誇らしげに外に向かってアピールする、その鼻につくニオイが、苦手なのである。
自慢しなくても、垣間見えてしまうのはまあ仕方ないにしても、、、
ただ、わたしが苦手なだけだが。

それと、特権を振りかざす人。
このニオイには頭痛がする。
1日も早く失脚することを願ってしまう。
自分では気づかないだろうけれど、長年、積み重なると、強烈なニオイを放っている。
なんであんなに横柄な、嫌な感じになるのだろう。
家族も距離を取り、誰一人として近寄らないのではなかろうか。
特権を目当てに群がる人々も、特権を失い失墜したら、誰も着いてこないだろう。
特権に溺れた悲しき副作用。結末。
こういう人は、おそらく一生、治らないと思う。
人生には、プラスとマイナスがあるようだ。

小金持ちは、妬まれる。
妬まれないように仲間うちでワイワイしていればよいものを、チラと仲間以外の人にも見せたくなると思われる。
自慢気。
だが、性格が悪いと思われるのは避けたいため、平等精神を心掛けている、、、のが、見え見えの人がいる。
単に、わたしが捻じ曲がり、ヒネクレ者なだけであるが。
やはり、テリトリー内で活動するほうが摩擦が少ない。無難。
価値観を共有できることが多いから。
定年後、どこどこに勤めていた元〇〇、という肩書から離れられない人もいるようだが、わたしのイメージでは一昔前の定年族のように思える。
今の定年族は、リタイアする前からリタイア後の準備をしているため、職を離れても自由を謳歌する無職またはアルバイト、または第二の就職に、軟着陸しているように感じる。
(働かなくては年金では生活できない高齢ワーカーはまた別の話として)

例えば、、、偏見イメージではあるが、、、
小金持は、ホノルルマラソンに参加する。
近所を走るだけでは物足りない。
これは素晴らしい。
登山をする。汗をかく。
ブランド品をジャラジャラ身に付けない。
お金や肩書でないところで、汗を流す。
小金持を意識させない。
だが、高品質、高価格の、快適性、品質重視の普段着を着る。
ユニ◯ロの人もいるが、ハイレベルな品質に自分自身のためにこだわり、ユニ◯ロでない人もいる。

わたしが勝手に抱く小金持イメージを、決して否定しているわけではない。
良いイメージもある。
個人的な好みであって、カレーが好きな人も苦手な人もいる。
ただ、ああ、あの人のことかな、と顔が思い浮かぶ人は、一人や二人、いると思う。

別にどうってことのない、〆のない話になってしまった。

蛇足であるが、
人は、ゴシップや噂話、その場にいない人の悪口が好きである。
そんなことに全く関心がない仙人もいる。
仙人たちが集まって井戸端会議する図を想像すると面白い。
話題はなんだろう?
収拾がつかなくなりそうだ。
やはり仙人は千人集まって、世界平和を願う世界会議あたりを想像するが、決して不幸を生み出す新興宗教会議であってほしくない。


※写真は、ぼんやり小さくわかりにくいが、大阪城の上空を飛ぶ飛行機。
どんどん何機も次から次へと飛んでいる。