蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

パソコン離れ

2016-08-31 | ブログ

超、久しぶりに、パソコンから入力している。

ご無沙汰の、別の自分のブログをチェック。
しかし、ぜんせん、ログインできない。
登録メールアドレスから、手続きをやり直そうにも、「そんなアドレスには登録されていません」と出てくる。
それ以外に、アドレスはない。
ノートに、パスワードやIDをメモしていないか探しまくる。
気合を入れていない、お遊びブログなので、メモは見当たらない。
新しいIDを作ろうとしたり、いろいろ手を尽くしてみる・・・
クレジットカード番号、下8ケタから、サイトで使っている自分のIDなどがわかる手引き(導き案内画面)が出てきたが、
大事なクレジットの個人情報を入れて探すのは、なんだか怖かったので、途中でやめた。
しかし、なんでだ? 
なんで、正しいメールアドレスから手続きしようにも、作業が出来ない。
ひょっとして、インターネットバンキングも、悪者に乗っ取られているかも?などと、次々に不安の連鎖に。

が、なんやらかんやらしていると、

まあなんと、サイト側のシステムエラーに振り回されただけの、貴重な1時間半。

スマホで、ほいほい、ちょいちょい、と、やっているほうが、ずっと気楽。
意外に、パソコン画面ではじめて見る、蝶ブログの北海道写真が、すごく大きくて、びっくりした。
スマホでは、そんなに画像が大きいなんて想像もしていなかった。

撮った写真を選んで、ちょいちょいっと指で、くるくるしただけ。
写真アップは、パソコン操作のほうが、だんぜん、めんどうくさい。

スマホに慣れると、朝のパソコンタイムがぽかっと空いて、有効的に時間を使える。
最近では、お気に入りの空間にじっと座って、静かに何もしない、僧侶のように瞑想タイムになっている。
静寂を味わい、楽しんでいる。(実年齢より30年先取り心境)
いったんパソコンを開けると、かじりついてしまう傾向があるので、時間を忘れてしまう。

その点、スマホは、外出時のみ。
でも、その延長で、自宅でもスマホのほうが便利になってきている。
スマホ離れならぬ、パソコン離れが進んでいる、わたしである。

パソコンを離れて手に入れたもの・・・

こころは、30年先に行っている。

 

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しかし、日々のリアルタイム・ニュース解説も必要である。
バランスが大事。


早いもので、終了タイム

2016-08-27 | 
もうはや、帰宅、一歩前。
羽田空港で時間待ち。
楽しい旅の思い出を胸に。
(昭和の修学旅行のティスト文章)

今回は北海道ガーデン街道、フラワー&ガーデンをめぐる旅。
癒されてきました。

一期一会の皆様との出会いも旅の楽しみ。
メモリー・スケッチがひとつ、増えました。





一足お先に、秋

2016-08-25 | 
今、北海道に来ています。

1日違うと、台風で大変だったらしいです。
森の一部は沼になり、川は増水、
トウモロコシもなぎ倒されていました。

台風一過、気持ちのいい、秋晴れです。

部屋は、のびのびお一人様。
静かで落ち着き、満たされています。

自分は、いつまでも永遠に若いと、何故思う?

2016-08-22 | 老い
人間というものは、なにかがなければ自然に気付くということはないと思います。

たとえば、私の母。
70歳を超えたある日、シワが顔にある、と驚いてショックがっていました。
70歳でシワがあるのは当然なのに、自分とは全く無縁の世界で、ある日当然、シワを発見して、愕然とする母をみて、私が愕然とした記憶があります。
もう20年近くも前のことです。
自分の母ながら、母の頭の中身を想像してみました。
現実を逃避しているのではなく、自分を客観的に見ることができないのです。

姑も同じ。
30年数年前、出会った当時から姑のほうが、頭脳は数段上だと感じていましたが、あくまでも脳の出来がよいだけのことで、今では、私の母と、だいたいのところは、あまり変わらないかんじです。

つまり、全く個性の違う、ほとんど同じ年齢の女性が、ほとんど同じになっている現実を突きつけられると、人は皆、大なり小なり、ほぼ同じで違いがないのだと感じます。
年齢による特徴は大きいです。
赤ちゃん、幼年、青年、壮年、老年と、大きなくくりで見ると、いかに自分は唯一無二で、他人とは違うと自負していても、大して変わらないということです。

自分だけは、例外、自分は若い延長のまま何も変わらない、これからも、と思っている人がいると、気持ちはわかりますが、客観的な目が不足しているように思います。

ある程度の年齢になると、年齢を自覚し、その年齢に訪れる事態を予測して覚悟しないと、私の母のように、ただただ、当たり前の事実を嘆くことになります。

私はどんな高齢者になるかな?
無能を認め、ぐうたら手抜き、努力をしないで、安らかに年をとっていくことでしょう。
今のまんまです。
それでよいと感じます。

凡人の老後?
あがくより、受け入れる、でしょうか。


お天道様なんか、あっちへ行けぇ

2016-08-20 | 老い
母からの何度も電話。
「お見舞い、来てね〜」
今、母のところに向かう電車の中。
徒歩、バス、電車、専用バスを乗り継ぎ、2時間半かかる。

この暑い中、母はお盆に、姉に実家に連れて帰ってもらい、そこに訪れてきてくれた母の妹(おば)と姉妹対面したことは、ころっと記憶から抜け落ちている。
他にも自分の息子(兄)をはじめ、濃い親族たちと大勢、会っている。
出来事からまだ一週間も経っていなかった。

「暇で、なにもすることがない。家に連れて行ってほしい」と母は言う。

母のいる所で夏祭りが催され、姉一家が訪れ、母は浴衣を着せてもらって孫や、ひ孫に囲まれ、夏祭りを楽しんだのも、まだ二週間経っていない。

姉は、尽くしても尽くしても、ザルから水が流れ落ちるかの母に、落胆している。

その時だけの記憶。
働きかける自分たちサイドだけ記憶に残ればいいか。
見返りに期待せず、楽しませてあげたという、自分たちへの自己満足でしかなくても、悔いが残らない行動を取ればいい。
お天道様は、見ている?
母本人は見てないが、子供や孫たちが見ている。
ただし、それは姉一家。

私はいつも単独行動なので、お天道様も家族も、誰も見ていない。


明日は姑、退院日。
こちらも、病院に通い、あれこれサポートした私の行動は綺麗さっぱり忘れている。
「入院してから、歯、なんか磨いたことなくて、今頃、初めて歯を磨いているんよ」と姑は言う。
が、私は、何本も歯ブラシが要るというから揃え、病室で何度、歯ブラシを洗浄し、コップの水を替えたか。
残念ながら、誰も見ていない。

姑に「現金をくれ」と頼まれ、夫が病室で(病室に置いておくには多額な、請求されるままの金額を)姑に渡したという。
毎日、病室に来てくれて着替えを持ち帰り洗濯してくれ、とても世話になっているという女性に姑が手渡したようだ。
(パジャマやタオル、備品はいくら使っても一定料金、リース手配済み、紙オシメ等は、私が切らさず購入)
お金をはじめ、計算ができなくなっている姑。

ああ、またこのパターン。
去年の実母のデジャブ。
先が思いやられる。

誰も見ていなくても構わない。
どうせ、大したことはしていない。
実在するのは、老いの現実のみ。

わたし流お付き合い

2016-08-14 | 
昨夜は、姑の留守宅に泊まった。
なぜ、今回は暇なのか、わかった。
じつに単純なことだが、子供や、子供たち一家が来ていないからだ。
娘一家は、お盆は旦那さんの実家に長期滞在。
LINEを入れても、最低限度のリアクションしかない。
忙しくしているのだろう。

お盆に家に大人数で泊まられると、食事や寝具、お風呂、食べたり飲んだり遊んだり、わあわあ大騒ぎの忙しさになる。
そういう意味では、静かなお盆である。

夫と二人だけだと、いつもなら険悪なのに、なぜか不思議とケンカにならない。
おそらく、夫のご先祖様たちが、夫の加勢をしてくれているのだろう。

昨夜は、姑の部屋で寝たが、暑苦しくて夜中にうなされるかのように、目が覚めた。
隣の部屋は、仏間。
そこには扇風機があるのだが、どうしても取りに行けない。
汗がダラダラ、汗だくなのに。
ご先祖様が、大勢帰省して、わいわいやっているのかと思うと、怖くてとても部屋に入る勇気がない。
宗教は信じない、と言いつつ、信じない時や行事不履行のペナルティに怖気付くタイプ。
強迫観念。
夜中、目がぱっちり開いてしまい、はたして眠れるのだろうか、朝までまんじりとも一睡もせず、ということに、なりはしないか、と不安に思ったが、
ご先祖様たちは、「一瞬でも、仏まつりの役割を自覚したらそれでよろしい」と、至らぬ嫁に、けっこう甘めの措置を取ったようで、すぐに眠りについた。
そのまま一気に、目が覚めたら朝、とうに七時を過ぎ、すでにお手伝いの人が庭でなにやら、ごそごそ働いていた。

働き者だなあ、そうとう高齢なのに、用事をあれこれしてもらうのは、申し訳ないかんじである。
まあ、お互い、善意とか、好意とか、そういう関係ではないので、風通しは良い。

お盆の行事、今は、中盤。
いつもなら買い物担当の人が買ってきてくれるが、今年は司令官がいないので指示がなかったようだ。
材料は、私の自宅から持ち込んだ。
それでも足りない分は、今、夫が買いに行ってくれている。
助け合いの精神。
これもご先祖様が「協力せよ」と、背中を押してくれているのだろうか。

昨夜、池上彰が、テレビ番組で日本人の宗教観を述べていた。
宗教心は、あまり強く自覚していないらしい。
他の民族のように、声を大にして教義を謳ったり唱えたりしないけれど、教えが、日常の生活に自然に溶け込んでいるとか。
私なんかは、それかも知れない。
御利益や、目に見えるプラスを求めるのではなく、大きな欠損のないよう、つつがなく平穏無事に暮らせるよう、とりあえずは、積極的ではないにしても、最低限度のことは、こなそうとする。

負担の少ない、でも継続する努力で、小さな幸せを維持したい。

子供じゃあるまいし

2016-08-13 | 
今年のお盆は、退屈この上ない。
姑ダウンで、姑の自宅は留守。
姑宅で、お坊さんお参りスタンバイ。

明日のお盆行事日程も、今日にまとめてやってしまい、早く自分の家に帰りたい。
姑宅の地元で長く暮らす、手伝ってくれている高齢の女性に、「前倒しは、ダメですかね?」と聞いてみた。
「いいんと、ちがいますか」との答。そのほうが、彼女も省エネ。

が、早く家に帰りたい、なんて、子供じみたことは言えないし、(自分ちで何がしたいわけでもないのに)
「そんなことは家の主(あるじ)が決めること」と、夫にも反対された。

で、今は、行事と行事の間の時間待ち。

退屈で退屈でしかたない。こんなに退屈なものだったっけ?
お盆って、そうやって、里帰りしてきたご先祖様と、のんびり対話するためにあるのかも知れない。

しかし、ご先祖様で実際に知っているのは二人だけ。
しかも、二人とも、あんまり、話らしい話はしたことがない。
宗教心などほとんどない、血のつながらない嫁の私にとって、仏さん行事は、義務以外のなにものでもない。

気持ちが入らないのは、けしからんのだろうけれど。
でも、いちおう、義務は果たします。
とりあえず、イエの嫁であるという認識はありますので。

若いピチピチの新人嫁でもない、ひねたトウのたった嫁は、かわいくもなんともない。
なんといっても、もう、名実ともに、おばあさんだから。
おばあさんには、おばあさんの収まりどころというものが、あるはず。

でも、(跡取りが自分たちではない)核家族、都会の家は、また別の収まりどころがあるのだろうか。
自由と引き換えに、自立、個人主義。
それはそれで、それぞれに良い面も良くない面もある。
なんだって、どんなことだってそうだ。

今年のお盆

2016-08-10 | 

もうじき、お盆。

今年は、司令官が壊れてしまっているので、わたしが司令官代理。
というか、司令官になりたくないけれど、司令官 兼任 実践者。

お盆の行事。
あんなに力を入れていた、「お盆・命」「イエ行事・命」の、
すっかりお盆のことなど忘れてしまっている、もと、司令官。
とても不思議な気がする。

もし、誰にも継承していなければ、お盆の行事は闇に葬られていたところだ。
たまたま、(というか、無理やり)、毎年毎年、わたしが参加させられていたので、
わたしはさすがに、体で覚えた。

さて、マインドはどうか。
どうなんだろう。

司令官が壊れているから、もう、お盆の行事はやめとこうか、と(本気ではないけれど)、そう次女に呟いてみた。

すると、次女は「おばあちゃんが生きている限り、続けたほうがいいんじゃない?」と、ぼそっと言った。

本来、息子の嫁がいて、わたしがそうだったように、お盆の行事を姑と嫁が、いっしょにすれば、
お盆行事が継承される。
のだが・・・。
息子は遠い遠い地に行ってしまっている。(この世ですが)

家の行事はよほどマインド、想いが強くないと、継承されない。
すごくマインドの強い親戚がいて、そっちは、今の跡継ぎが娘さんなので、しっかり継承されている。
次世代は、まだまだお若い、未婚の息子さん。
むこうは、もう何代も前に本流から枝分かれした親戚なのであるが、人材がしっかりしていて、継承もしっかりされる。
(頭も性格もやる気も、きっちり)
伝統行事や慣習で、わからないことがあれば、聞きにいけば教えてくれることだろう。(情報・ノウハウの逆輸入)
元祖であっても、ぼけっとしていると、だめですね。

なにがだめなのかというと・・・やはり、人材である。
その人材こそ、わたしなのである。
(夫は、姑まかせ、嫁まかせ。戦力外。わたしよりヒドイ。
が、自分は何も知らなくて、何もしなくても、当然のように、完成されたものを求める。
このスタンスに、わたしはものすごくストレスを感じる)

わたしには、強いマインドがない。
押し付けられ、強制されたマインドや行事に、反感こそ覚えても、積極性は育たなかった。
代々の伝統行事であったとしても。
とりあえずは、かたちだけ、最低限度継承する予定ではあるが。


もともと、わたしの人生の自問自答、答えが出ていないものが、いくつかある。
ほじくってみても、解決にはならないので、ほっている。
眠った子を起こしても、徒労に終わるだけである。

親がしっかりしすぎると、子世代は、しっかりしない。
我々は、これの典型である。
しかし、しっかりしない親に育てられた、子世代、これがまた、しっかりしている。
順番・交替制度か。

強弱、強弱、スロー、クイック、スロー、クイック、、、そうやって綿々とつながっていくようだ。
細くても強いピアノ糸のようなもの、そういう芯だけ、しっかりあればいい。
頑丈な枠踏みがあれば、中身は時代に応じてリメイクすればよい。
ただし、枠組が大きすぎる場合は?
時代に合わない時は、英知を絞って考えればよい。


郷に入れば郷に従え、であるが、郷に入ってないので、郷に従わない。
「郷」と、「out of 郷」が二本ラインで同時進行ということになる。
しかし、このやり方は、次世代はどうするのだろう?
次世代(産んだとたんに、周りから、でかしたぞ、と、大喜びされた人物)継承人自体が、どこか遠くに行ってしまっているので(何度も言うようですが、現世です)
なんぞの折には、しゅるしゅると、タコの糸を手繰り寄せることになる。
糸は、もつれて解けなくて、やっと解いたら切れているか、解く途中で短気を起こして、切ってしまうか。
時代によって形は変わるので、旧来の方法を押し付けても、逃げられるだけだ。

火を消すのも、絶やすのも、種火だけ点けておくのも、バトンを受け取った者の行動に左右される。

まったくそんなこととは関係のない生き方をしている人も、とても大勢いて、
価値観はまったく違うので、それはそれで、それぞれに良い。

と、この記事、どう結ぼうかと考えていたところ、
実家の親戚のお嫁さんから、初盆お供えを送ったお礼の電話が入った。
ご丁寧に、恐れ入ります。
ちゃんと教育されている、このお嫁さん。
わたしとは、デキが違うと感じた。
せめて外に向けてだけは、最低限度、わたしも嫁としての役割を果たしたほうがいいかな、と実感した次第だ。
と同時に、中に向けても、である。

 

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夢を見た

2016-08-07 | わたし

趣味の社交ダンスで、すっかり自信を喪失した。
しばらくは封印しそう。

大ショックで、大打撃を受けたが、わたしには、趣味はほかにもある。
生きがいは、それだけではない。
リスク分散型が、ここで活きる。
なにごとも理想を追求・達成できない、中途半端さもここにある。


昨夜、夢を見た。
書いておかなければ忘れそうだ。
しっかり細かい描写のある、鮮明な夢。
にもかかわらず、なにが言いたかったのだろう、あの夢。

幼児がいた。
面長、色白、おとなしい賢そうな男の子。(わたしの孫とは顔のタイプが全然違う)
彼の自宅。部屋の中に案内された。
明るい清潔な、白っぽいカラーの、きちんとした部屋。
ご両親は、働いていて留守。

彼はいろいろ見せてくれる。
いま、やっているお勉強のようなもの。幼児知育のプログラム。
へえ~。ご両親、とりわけ、お母さんは教育熱心なのね、と、その時のわたしの感想。
「ママは、こんなこともしてるんだよ」
みたいに、あれこれ、家族の生活様式や、思考ポリシーや嗜好が垣間見えるものを次々と見せてくれる。

あらあら、そんなに見せてくれたら、プライバシー侵害って、ママは怒るかも知れないなあ、と、
わたしは思いながらも、ふむふむ、けっこうしっかり暮らしておられると感心した。

じつは、ここに引っ越してくるのに、別の候補の家があったんだけど、そっちはやめて、この家にしたんだ。
そういう流れもわかった。
途中、バスに乗って移動しているシーンもあった。
向こうより今、選んだ住まいのほうが、きめ細かい教育の取り組みが提供されるのが気に入ったようだ。
教育システムが整っている環境。

他の部屋もあれこれ案内してくれる男の子。
あらまあ、外から見えるだけでは想像もつかないぐらい、随所に工夫を凝らされた素晴らしいお宅。
進んでいけば、どんどん広い空間が続く。
開口部に広がる、目に飛び込むグリーンも美々しい。

そこで、なにかの人の助けが必要なことがあり、わたしは応援を呼んだ。
応援してくれる人(わたしの身内、関係者たち)の尽力もあり、無事クリアー。
が、家の中をあちこち開けたり触ったりした形跡のまま、ママが帰宅することになった。
助けてあげた状態になっているものの、人の家をほじくって、ママは嫌がるだろうなあ。
助ける時は精いっぱいだったので考えなかったが、そういう懸念を抱いた。

助けてあげるにあたって、自分の纏っているものを1枚1枚はがしていくかのように、
1ページ1ページ、過去のページをめくっていった。
表には最終ページが一枚見えるだけだが、中には、いろんなページが繰り広げられ重なっていた。
意外に、その男の子の家よりも、奥が深い自分の歩んできた家。
そこにはいろんな人物が登場し、力を発揮していた。
人の役に立とうとして、予想しない展開から自分のことに触れることになり、感慨深げだった。
が、そこに、ママが帰ってきた。

いくら小さな子供のためといっても、人のプライバシーをほじくるようなことはやめてください、
そう言われるだろうと、こころ準備していた。
ほじくろうとしてそうなったのではなく、結果的にそうなっただけだ。
しかも、プライバシーを深く確認したのは、自分側の事柄である。

気が付くと、男の子のそばに、もう一人、1歳ぐらいの乳幼児が寝息を立てて寝ていた。
あれ?一人じゃなかったの?と今さらながら、遅いかと思いつつも、そっとタオルケットをかけた。

 

なんだろう、あの夢。

能力は、そう急にはつかない。
短時間では、ものにならない。
だれしも能力があるとは限らない。
能力があるということは、スゴイことであって、憧れたり頑張ったりしても、
器というものがある。
一見スゴイ人は、実はその下に、幾層もの積み重ねられたスゴイものがあって、
最後のページがスゴイだけに見えても、中身はすべて、年月とエネルギーと才能の連続の結果だ。

見えるところだけに結果や価値を求めるには、見えないところは、その何百倍も濃厚に詰まっている。
夢の中で、そう感じるコマがいくつかあった。
だが、どのシーンでそう感じたのかよくわからない。

社交ダンスで、自分が打ちのめされたのは、薄っぺらなペラペラの自分だったからだろう。
結果を出している人と、結果を出していない人が、同じ場所に混在しているから、
自分もそうなのかと見誤ってしまうのだろう。

しかし、夢の中でのシーンは社交ダンスでなく、整ったおうち。
家は、なにもハード面の建築物である住宅houseだけを指すのではない。
家庭、家族、、、消滅に向かう家制度のイエ、、、
象徴的に、娘の家、孫、わたしの家を無意識下に土台にしているように推測する。
もうすぐお盆だから、義母は指揮官退任でも、ちゃんとやってね、という、先祖からのメッセージか。
それにしても、夢が、社交ダンスと、ごっちゃになっている。

夢診断。
後付けの、こじつけ理屈付け解釈、解明、解説である。

 

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