蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

閲覧数には、どんな意味がある?

2018-02-27 | ブログ
gooブログシステムが壊れた?!
ここのところ(といっても4日)アップもしていないのに、昨日の閲覧数が急に大幅にドカンと増えている。
自己最高に迫るほどだから、驚きなのはまあさておいて、、、
思いあたるフシがない。
なぜなら、ブログ更新していないという、絶対的な事実から。
お客様(ブログにお越しになる)皆様、いたずらは、やめてくださいね。
と言いたくなる。ほんとに。

どうしたのだろう?
益々、gooブログを信じられなくなった。
素直に喜べないあたり、ブログ開設以来、gooのデータ解析で、そうとうひねくれてしまった。
ブログの内容、中身と、閲覧数の相関性は無い。
「極めて低い」と書こうと思ったが、あえて、ここは「無い」と言い切っておこう。
それか、誰かが何かした?
何か書いた?

まあ、なんでもいいですが、「素直に喜べない病」を発症していることに気づいた。
しかも、けっこう重症。
まあ、明日になれば、またgooさんのイタズラだということがわかるから、慌てず騒がず、静観しておこう。

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50年連れ添っても、敵は敵

2018-02-22 | わたし
外出から帰ってきた女房の疲れた顔を見て、「夕食はカンタンなものでもいいよ」という、心づかい。
女房側から見れば、無いよりは、まし。
その程度である。

夫婦を50年やっていても100年やっていても、お互いが変わる。
無常。
その上、世の中は変わる。
ちょっと前の価値観は、浦島太郎のごとく。

思いやったつもりで、カンタンなものでもいい、と言い、妻の逆鱗に触れる。
火に油を注ぐことになる。

手伝おうか?
→いらん。よけい邪魔になる。足手まとい。

ワシが作ろうか?
→ふーん、、、材料、無駄にしないでよ。
作れもしないで、威勢で言わないでよね。

出前、取ろうか?
→経済事情は、あんたが一番知ってるでしょ?
よけいに頭に来るわ。

ワシがコンビニまでひとっ走りして買ってこようか?
→コンビニのお惣菜は味が濃くて化学調味料が多くて、カロリーが高くて、、、なんたらかんたら、、、不満たっぷり否定要素の羅列。

妻にとっての正解は?
今日のメシは自分の分は自分で作るわ。
まだ料理は練習、修行中だから、お前さんの分は自分で作ってね。
もう少ししたら、お前さんの分まで作れるように頑張るから、期待して待ってちょーだい。
(期待感ありで、健気で可愛いところを見せる、、、)

自分の分だけでなく、わたしの分も作ってよ、と妻からのリクエスト。
夫の作った夕飯、不味くても文句は言えない。

まあ、そんな夫はおりません。
中でも、かなり頑張ってる貴重な旦那さんを数人知っている。
ある人、Aさんは、妻がそうとう偉い、出来た、知能犯の人。
おだてて夫をカジメン(家事する男)に育てている。

別の人、Bさんは、妻が外で働き、夫は主夫。
これは仕方ない。
お金稼いで暇のない妻と、お金稼がず暇な夫。
どっちが家事する? 役割分担。

またまた別の人、Cさんは、お互いが別々家計費、別々の食材、別々の料理、別々の食事時間。
妻のほうが美味しそうな料理の出来に、自分は初歩料理しか出来ないで悔しがる旦那さん。

それと、意外な逆鱗パターン、もうひとつ。
夫は少し外で飲食の予定があるため、「軽くでいいよ」という夕食オーダー。
「軽く???」鬼の形相の妻。
先日、わたし、夫にそうオーダーされ、「世の中の妻が最も敬遠して嫌がるパターンらしいよ」と夫に言うと、なぜか夫が突然キレた。
「(それなら)いらんわい!」
ガシャン(ちゃぶ台返し)
キレる老人を目の当たりにして、わたしは将来に暗い影を落としているのを感じた。
この人と残りの人生を暮らしていくのか、、、
静かな絶望感に覆われた。

夫婦は空気みたいな家庭内の敵である。
敵の手の内を探り、研究、理解し、攻略法を修得しても、敵も無常。
手を替え品を替え。
操縦などとんでもなく、常に安心して枕を高くして眠れない、分かり合えない敵との闘いである。

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天然を装う嫌味な人物

2018-02-22 | 趣味
わたしは、一旦嫌いになったら、笑顔まで嫌い。
頭の先から指先の動きまで、全て嫌いになる。
嫌い加速度が、やたら速い。
思い込みや勘違いもあるだろうが、修正するには、今までの地の底に着いたマイナス点を撤回、逆転するような、過大なプラス面を発見しなければならない。

例えばSNS日記。
「こんなことがありましたー」という、どうってことない普通の日記なのに、裏の裏を読み、腹の底にあるヘドロ暗部を勝手に嗅ぎ取ってしまう。
さりげなく無邪気を装って、わざと、わざとらしくないように振舞って、実は自慢している、そのねじれた裏自慢を感じると、ああ、また吐き気。
いくら覆いをかけても、性根がむき出て生々しく迫ってきて、私は気分が悪くなり、脳かハートのどこかが傷み、ひどく疲労する。
精神衛生上、見たくない、触れたくない、感知したくない、認識したくない。

本人は無意識なら、それを天然というなら、不快な傷みは深部に達する。
それを回避する自己防衛のため、私の意識から抹消する。
そんな人物はこの世に存在しないものと認定し、自分に無を刷り込む。
何もないんだ。見なかった。無かった。
波風が立たない、無関心の具象BOXにすっぽり収まる。
すると、粘りや湿度を伴わない、無感情でさらっとした対応が出来る。
あるのは無機質な外側だけで、中身はない。

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家事をする、おじいちゃん

2018-02-21 | 老い
別SNSで、よく日記をアップされる80代後半の元大学教授。
奥さんが重度の圧迫骨折で家事が出来なくなり、代わりに家事を始めたのが84歳。
ご自身も8年前?に癌を発症。
それまでは洗濯機のスイッチ一つ、触ったことがなかったという、この年代には普通の方。
しかし、今まで当たり前と思っていた家事労働の提供がぴたりと止み、初めて家事をしてくれていた奥さんの有り難みを知り、感謝しておられる。

と、ここまではよくある話。
特筆すべき点は、生まれてこのかた、84年間、家事を全くしたことがない、心身共にカチンコチンの高齢男性が、家事に取り組み、悪戦苦闘されている。
泣き事どころか、今までの感謝と、前向きな家事への実践。
わたしは、この方の柔軟性を尊敬している。

コメント欄では、男子厨房に入らずはもちろん、「戦争に駆り出され戦地で国家を支える男性が、家の中で家事? なにを吐かす? でも先生は偉いです。ワシは金儲けはたっぷりしたので家内は不満はないはず」ともおっしゃる、鼻息の荒い、おじいちゃんもおられる。
日本が戦争をしていたのは、何年前?
そんなことを言い出す男性は、、、?
もうとっくにリタイアし、自由人でしょ?
お金は必要条件ではあるが、今の時代、それを振りかざす神経たるや、、、。

団塊の世代より一世代上の戦中派と、戦後生まれの団塊の世代では、大きく違う。
戦中派女性は、早々とご主人を亡くし、今を謳歌されている。(経済的に問題のない人は)
アタマの中身が丸々戦中派のご主人が、いまだお元気でご存命のオクサマは、ご苦労さまである。

時代は流れ、時代の価値観についていけない人は、どうすればよい?
わたしが尊敬する、上述の元教授は素晴らしい。感謝だけではなく、実践が伴っている。

身近な例で蘇るトラウマ氏は、感謝、感謝と口で、免罪符のように唱えるだけで、自分は何もしない。
それなら、口に出すな、と言いたい。
しかも子育て真っ最中の息子の嫁の手伝いに行く妻を見て、年寄りを使うとはけしからん、と不満たらたら。
手伝わせてもらえるうちがハナ。
妻に自分のことをかまってもらう分が減るのが嫌なら、自分で自分のことぐらいすればいい。

一番良くないのは、感謝もせず、実行もしない人。家族にとっては、、、(書かない)
二番目に良くないのは、感謝を口にし、やろうと思えば出来るが、やらない人。
まあまあなのは、文句を言いながら、自分で渋々実践する人。
ベストは、感謝もしつつ、出来る限り積極的に望まれることを前向きに実践する人。
微妙なのは、求められていることと微妙にズレたことを頑張って実践し、感謝を求めること。困った押し付け。

元教授は、感謝し、尚、前向きに実践という「理想のおじいちゃん」ゴールデン賞に輝く。
してもらうと、かえって二度手間で余計面倒、という「微妙なおじいちゃん」は、どうすればいい?
じっくり観察して、求められる中で、出来ることを実践、出来ないことは、練習するなり助けを乞うなりして、それなりにやる。
そんなかんじでどうだろう?
あるいは、感謝のかたまりになり、神様のように神々しく、神格化するかのごとく、
(馬から落ちて落馬した表現。トリプル神、使いすぎ)
他の全てにおいても包みこむ、居てくれるだけで周りを幸せにしてくれる、まあるいおじいちゃんになる?
息はしているのか、していないのか、気になるところだが。

ちなみに、わたしは、自分の分ぐらいの家事は(最低限度)出来るので、普通のおばあちゃんである。

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覆面日記

2018-02-20 | 趣味
最近、わたしは気を良くしている。
別SNSのわたしの日記が満足いく閲覧数だからだ。
蝶ブログは、これはこれで満足している。
一方通行の、長年に渡る書きなぐり、書きたい放題にご協力いただき、ありがとうございます、の気持ち。

あちらSNSは、リアル人が多い。
実際とは違う、日記だけ虚偽のことを書いてもすぐバレる。
わたしの場合、リアル実体が分からない、人物特定できないにもかかわらず、なぜか、同じ趣味の皆さんが、読みに来てくれる。
実際に顔を知られて、あちこちのリアル現場にうろうろしていると、あまり敵を作るようなホンネは書けない。
だからかどうか知らないが、皆さん、当たり障りのないことか、良いこと、知ってほしいことしか書かない傾向にある。
表の顔のみ。着飾って。
わたしは、表面の体裁や、お飾り包装紙は割愛して、中身のみ、ズバリ、ストレートに書くのだが、リアルを公表していないので、そんなことが出来る。
嫌になったり、トラブったりすると、いつでも消えることが出来るので、肩の荷が軽い。
リアルを公表している人は、SNS上では消えることが出来ても、夜逃げでもしない限り、リアルな自分を消せない。
匿名性を享受していると、それではあまり皆さんに信用されない。

しかし、わたしのスタンスとしては、書いたことには責任を持つ。
虚偽や虚栄の内容は書かない。
書いている人が、実際はどの人か、わからない、というだけ。
わたしを捜そうという動きも一瞬あったが、一瞬で終わった。
それほど、わたしが誰であるか、皆さんは興味を持っていない、重要でないと感じる。
日記という発表の場で交差する人々なので、実際に会いたい人はオフ会に参加して顔を見るとよい。
わたしは、オフ会には出ないし、名乗り出る気はさらさらない。
もし、人物を特定されそうになれば脱会して、姿を消す。
わたしは、自分をアピールしたい気持ちは皆無。
目立つことは大嫌い。
ひっそりが、気楽で居心地が良い。

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努力の仕方

2018-02-17 | ブログ
わたしのブログは、自分との対話。
第三者を全く無視して、好きなことを書き放題、書き散らしている。
だからサービス精神ゼロ。
人気がなくて当たり前。

仮に人気を得ようと、頑張って技巧に走ったり(技術ないけど)、才能を余すことなく発揮したり(才能ないけど)、するとする。
で、人気がないとする。
がっかり、、、
わたしはダメなんだ、、、と、うなだれる。
しかし、自分の楽しみで書く。人なんか、おかまいなし。
そんでもって、おまけに読んでくれる人までいたら、儲けもん。
お釣りが来る。

善人は、善行をするらしい。
善行は、善かれと思って頑張ること。
が、人によっては、押し付けがましかったり、してもらわないほうが有り難かったりする。
仕事でも、多くの時間、労力、お金を割いて行ったことが、まるでマイナスの結果を出すこともある。
やらなかったほうが、マシ。
本人は力の限り全身全霊をかけて頑張るが、さて、結果は?

日本人は頑張ることを美徳とする傾向にあるように思う。
プロセス重視。
ガムシャラに頑張る努力家が評価される。
ただし、結果が付いてきた場合。
合理的に練習した選手のほうが、良い結果が出るとすると?
ガムシャラは、徒労に終わる。
しないより、したほうがよい、と考える人もいる。
わたしは、しないほうがよい、という場合も多々あると考える。
バタバタあがいて、掻き回して、無茶苦茶になるよりは、静かに流れを見るほうが好き。
ただし、ここ、という、動く時機を見極めなければ、ただのナマケモノ。
まあ、人それぞれ。
個性だ。

さあ、ここぞ!!が、棺桶に入る時だったりして。

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他人の文章

2018-02-15 | ブログ
人の書く文章を読む。
ジャンルは、ブログやSNS日記。
誤字脱字てにをはレベルは論外として、
文章のうまさ、洗練されているか、わかりやすいか、文体が好みに合うか、などなど、表現方法によって個性が出る。
読み手側には、激辛好きな人や、超難解好きもいる。
好みは様々なので、一概になんとも言えない。

が、肝心カナメは、何が言いたいか、何を訴えたいか、である。
材料、事柄を通しての筆者の「考え」を知る。
そういう意味では、わたしは「言いたい放題」は結構好き。
書き手側の自分目線がきっちり定められていると、面白い。
読み応えがある。

だが、時として、わたしとそっくりさんを発見して、バツが悪い、というか、赤面する、というか、、、
真似した、された、ではなく、自分独自の考え方、自分は唯一無二の個性だと思っていたのに、唯一無二が二つどころか、三つも四つもある現実に触れると、ドギマギする。

なあんだ。
わたしは平凡な没個性だったんだ、と。
河原の石ころ。(路傍の石は、畏れ多く、やめておく)
でも、マイノリティである。
世界で一人ではなく、「多くの人々」という枠からはみ出た人々の集まり。
最近、ブログに書いたが、群れない人々の群れ、みたいな逆説集団。
それって、マイノリティと呼ぶのかも知れない(わたし流解釈)

いくらたくさんの、自分と同じような人を見つけた、と言っても、やはり、全体からの比率で分類するとマイノリティだと予想する。
時代が流れ変わり、マイノリティが主流になる時代も来るかも知れない。
少し先を行くなら良いが、先を行き過ぎて、時代遅れの人にさえ、追い抜かされる可能性がある。
時代が後から付いてくれば問題はないが、たんに時代に取り残された、離れ孤島の不運の人、みたいになる場合もある。
離れ孤島は、それぞれが個々に遠くに存在しすぎて、マイノリティとして連帯するのは不可能。
遠くで個々に離れて埋没していくのだろうか。
頑固モンだったなあ、とか、変わり者だったなあ、あの人は、とか言われて。
本人は、孤高だの、気高き孤独だの自負していても、周りから見れば単なる、へんな人。
人に迷惑さえかけなければ、いいんじゃないかと思っているが。

わたしに人が寄って来ないのは、寄り付かさないからだという指摘をされた。
自分にとって不必要なものは容赦無く切り捨て、離れていくように無意識のうちに仕向けているそうだ。
誰とも関わりを持たないことが、自分を守り、幸せにしているんだとか。
モノの断捨離は出来ないくせに、ヒトの断捨離は鋭く実践しているようだ。
幼い頃からかも知れない。
別に不幸な生い立ちではない。が、孤独が好きみたいだ。
かといって、病的ではない。ウツとかとは無縁のように感じる。
ちゃんと社会人として、明るく暮らしている。

自分にとってマイナス、プラスを嗅ぎ分け、一瞬にして必要BOXと不必要BOXに無意識に振り分けているらしい。
これを打算と言わずに何と言う?
だが、本人には自覚がなく無意識のようなので、意図して注意を払って、路線変更できない。
結果的には幸せになっているから、今までの路線を変えない方が良いようだ。
よく考えると、直感による人物断捨離、判断仕分け用には、必要BOXと不必要BOXと、もう一つ、保留BOXがあると思う。
ほとんどの人は保留BOXに入っている。
保留BOXには鍵付き上段と、その他に分かれる。
必要BOXは、家族、近親者のみ。
不必要BOXは、入れるや否や同時に消去、削除しているので、いつも空。
迷惑メールと同じだ。

究極の自己チューの出来上がり。
人に愛されなくても、自分を自分で愛することが出来るから、いいのだ。
自分への溢れんばかりの愛を注いだ後にもまだ愛が余って、さらに子供や孫に、残った愛を注ぐ。
自分の身を削ってまで犠牲の上に愛を注いでいるわけではないので、当然、見返りは求めない。
(こんなに愛が多いのは、たぶん、あれこれ見返りを求めて他人に愛を注がないからだろう。非善人)
見返りがないのは当たり前。(「愛されない」と嘆くとしたら、アホ)
必要BOXは、無条件に。
保留BOX鍵付き上段は、大切に。
その他は一定時間が過ぎたら自然消去。
時々、鍵を開けて、保管されているかどうか確認しないと、空っぽということがあり得る。
大事にしているなら、それぐらいの手間暇は必要、不可欠。

だから、なんなの?
文字数が膨らみ、結論を急がねば。
似たような考え方、感性の人はいて、自分は独特ではない、ということ。

考え方がどうこうや哲学はさておき、仙人暮らしでは、自動改札機も通れない。
生活に必要な人々(たとえば世話役)は必要BOXだ。

前からそうだったと思うが、わたしのことがハッキリ益々、明確に嫌いになった方がおられることだろう。
「好き」の反対語は「無関心」だと、娘が言っていた。
「嫌い」は、「好き」の反対ではないので、気にしないことにする。


今日は、ブログ村の他のブログを読み、たんなる思い付いたことをダラダラ書くだけの、平和な日にいたします。

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平和な愚痴

2018-02-14 | わたし
教育 →今日行く
教養→ 今日用
とはまた、うまいこと言ったものである。
おおまかな人生の義務を終了した人にとって、きょういく、きょうようは、とても大事だ。
何もすることがない人は、いったい何をしているのだろう。

さて。
今日の趣味の会、面白くなかった。
砂を噛むような味気なさをしみじみ噛み締めて、とぼとぼ肩を落として帰路に着いた。

つまらない日があるから、楽しい日が、光り輝き目立つのだ。
きっと、次の楽しみアップのための下準備だと思っておこう。
楽しみを使わず貯めておく、チャージ、プールの日。

それにしても、、、
あーー、つまらなかった。
今日行くところはあるが、暇を持て余して行っているわけではないので、いつも過剰に期待してしまう。
スカが続くと、だんだん疎遠になり、行かなくなる。
面白くないのに、暇だから行く、ということは、私にはない。
他のことにチャレンジする。

とりあえず、つまらない感を思いっきり感じて、早い帰宅となった。
こういう虚しい気分は、どうやって晴らすのだろう?
別の違う趣味をもう一つや二つ、持つほうがいい。
趣味の保険。
一つがダメになった時の代替え、スペア。
人生にも、スペアがあればいいが、あの世に行くともう戻って来ないので、やり直しが効かない。

今日は、じつに平和な日記だ。

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ここは、どこ?

2018-02-14 | わたし
今日は、おひとり様参加、趣味の会。
ちゃっちゃと行って、ちゃっちゃと帰って来る。
あんな人、いた?と皆んな気づかない、自己主張ゼロの透明人間。
別に寂しくもなんともなく、心地良い、ひとりぼっち単体行動。
行きの地下鉄内、ブログ記事書きに気をとられて、降りる駅を間違えなければ、よし。

しかし、ここは日本?
大陸大国の言葉、ベラベラ。
我が母国、観光で食べていくと覚悟を決めたなら、致し方ない。
観光客に、せいぜいお金を落としていただくか。
それにしても、大勢の観光客、大きなスーツケース。
驚くほどの変わりようだ。
私は、日本に住んでいるのだろうか?

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共通点がない友人

2018-02-11 | わたし
風が強いが、お日様が強く照る。
ポカポカ陽気とは、言えないが。
うとうと、午後のうたた寝にはもってこい。

ご近所友人の話を書こうと、前から思っていた。
楽しいことがありすぎて、ついつい後回しになってしまう。

彼女のする話は、いつもなんだか共通点がある。
それは、わたしと共通点がない、という話が多い。
ご近所ネタは、すぐ話し終わる。
情報の報告、レポートなのだが、話し込むほどの材料はない。
あまり、皆さん、トラブルを起こさないし、仮にあったとしても、家の外には出さないので、噂の元がない。
火がないので、煙もない。

で、まあ仕方なく他人さんのことに話が移る。
ご近所以外の、彼女の友人を、わたしは一人も知らないので、彼女は、わたしに何を話しても話が広まったり、こじれたり、などの影響がない。
また、彼女の職場の話だったりする。
あまりお近づきになりたいような人はいないように思う。
ヒントを得たり、目標にしたり、真似したり、元気をもらったり、そんな人は一人もいない。
できれば、縁がないほうが良いような。

わたしが彼女に話す話も、限られる。
自慢の臭いがしそうな話題は、聞かれない限り、しない。
結局、わたしは、彼女の子供たちの最終学歴も職業も何も知らない。
自分から言い出さないと、あえて相手には聞かない主義なので。

で、つまり、彼女との共通点は近所に住んでいることと、子供が小さい頃、同じ学校に行っていたということ。
自治会、子供会が同じ。
彼女はオシャベリが趣味みたいなものなので、暇な時はしゃべっていた。
ウォーキングしながら話すこともあった。
お互いの家は徒歩3分ぐらいなのに、数年に1〜2度、会うぐらいで、最近は長らく会っていなかった。
これは、友人ではない。長年の知人だ。

彼女の良いところは、口が固いこと。
彼女に話しても他に漏れない。
それは、彼女の信用を下支えしている。
30年に渡るお付き合いが崩壊しない、大事な一面である。

しかし、話し込むには、前向き、建設的なことであるべきだが、いつも、残念な人々の話ばかりである。
羨ましかったり、妬ましいよりはマシかも知れないが、もっとどうにかならないのか、という話がほとんど。
そんな話に付き合っていたわたしは、相当暇人だったのだろう。
長々と書いている。なにが言いたいのか。
わかっているが、書けない。書かない。

世の中を広く知る意味では、無駄な時間でもないように思う。
しかし、、、ダメな人々の見本市みたいな話ばかりでは、いったい、なんのためにその話題を話しているのだろう。
よくわからないが、プラスの人にはプラスの人や事が集まり、マイナスの人にはマイナスの人や事ばかりが集まる。
お互いに相互間で呼び合うのだろう。
わたしは、マイナスな話は好きではないせいか、マイナスの方向に引っ張られない。
ただ、不思議だと思うだけだ。
同じ性質を持つ人は引き合うようだ。
わたし自身はニュートラルなので、ゼロ地点だが、いつも雪かきをするように、マイナスは無意識に排除する方向にある。

娘の身近な人々の話を聞いているとポジティブで陽の当たる話が多い。
周りも似たような人たちが集まり、足も引っ張り合わず、皆んなで力を合わせて上昇していくかんじである。
幸せ指数が足りない人は居場所がなくなり、その集団から降りて消えていくようだ。
ある、娘の中学時代からの友人Aちゃんが、皆んなと横並び幸福ラインに達せない時期があったが、見事に頑張り、目的のラインに並んだ。
わたしは、あれには感動した。
無理だろう、気の毒に、と思っていたからだ。
すごいバイタリティ、やる気、実行力を感じた。

人はなかなか、自分の目に見えない決められたラインを越えることが出来ないように思う。
厚い壁、層に覆われているかのごとく。
身分制度のように、がしっと固定されている。
人生最期の終焉場所選びにも、その厚い壁が顔を出しそうだ。
だとすると、一生、決まっているようなものだ。
不動の足元の上に、自分は立っている。
まさに、ゆりかごから墓場まで。
しかし、自分の足で立つには、思考、知恵、実行力を必要とする。
あまり目的意識を持たず考えがない人は、流されるままに流され、吹き溜まって行くように感じる。
実に思考が浅く、仕事も、これがダメならあれ、あれがダメならそれ、と軽く転々と変わる。
決して上昇のステップではない。
吹き溜まる人々がいる一方で、かたや一方では、しゅるしゅると天国に近づいて行く流れがあるような、そんな気がする。

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