わたしは時折、その人のプライドなり人間性なりを全面的に全否定してしまうような感想を抱くことがある。
決して口には出さない。
ひょいと口から不用意に出そうになったとしたら、必死で抑える。
竜巻の中で、何かにしがみついて吹き飛ばされないようにするかの如く。
それを言ってはオシマイ、という言葉は全力で飲み込む。
人が人を否定する権利はないと思っている。
全ての人の、こころの尊厳は是が非でも守らなければならない。
それをいつも強く自分に言い聞かせている。
が、かなわんなあ、この人、みたいな行動を目にすると、むくむくと辛辣な言葉が胸から湧き上がり、猛スピードで直進するが、ぐっと出口近くで止める。
デリケートな事柄は、人から言われると、最大の侮辱になる。
自分で気付くものである。
だが、最愛やら親愛やら家族やら、そういう人の中には憎まれ役を買って出ることもあるようだ。
こころを鬼にして。
自分では気付かない、自分の能力の無さというものがある。
「キミ、自分で思っているほど能力ないよ、大したことないよ」なんて、人から言われないだろうし、面と向かって言う人もないだろう。
だが、次から仕事が来ない
とか、徐々にオファーが減るとか、何らかのかたちでわかる。
仕事だけでもない。
人付き合いにおいても、だんだん疎遠になっていくとか、声がかからなくなっていくとか、変化が現れる。
そうやって、目に見えるかたちで反応を見ると、原因を考えたりする。
そんな機会のない人もいる。
機会があっても永遠に気付かない人もいる。
いわゆる痛い人なのだが、別にお友達でもないから、見て見ぬフリをする人が多いだろう。
関わらないという選択。
趣味の世界にもそういう話はゴロゴロしている。
みなさん、なんであんなに自信過剰?
そう思わなければ、趣味なんか楽しめないのだろう。
一人でひっそりと、チマチマ手芸でもする分には良いか。
でも作品が徐々に増えてきたり、展覧会みたいなものに出展したり、仕事にしたり、向上心のある人は欲が出てくる。
たんなる暇つぶしなら、ボランティアがオススメ。
だが、ボランティアも結構、難しい。
純粋に人助けのつもりでやっている人は素晴らしいが、相手は喜んでいないケースもある。
マッチングは微妙でデリケートだ。
人助けも、上から目線だったり、恩着せがましかったりすると、暑苦しい。
爽やかなボランティアもあるが、人の役に立って頑張っているボランティアさん自身が、ボランティアする側である本人を救っているようにも思える。
爽やかな笑顔は、人の役に立った自分に対して。
それはそれで素晴らしい。
昨夜、ハンディキャップのある人を対象にするテレビ番組で、その具体的活動内容が紹介されていた。
ボランティアされる側の認知症の人と、ボランティアしている側の認知症サポーターの人の関係、取り組みを見て、ふと思った。
この活動の中で、認知症の人も喜んでいるとは思うが、活動効果を比較するなら、一番やり甲斐を感じて手応えを味わっているのは、認知症サポーター(家族ではない活動家)の人ではなかろうかと。
しかしながら、自分の思いや努力が昇華されるのは理想だ。
趣味にもいろんな分野があり、人に見てもらうことを喜び、生きがい、モチベーション、プライド維持にしている人がいる。
それはそれで、結構なことだ。
だが、そうではない人も同じ趣味だったりすると、話はややこしい。
まあ、人それぞれだから、全てが正解だろう。
ただ、人のプライドを根底から覆しかねないような事は、誰も言わない。
だが評価が欲しくて人に感想を迫る人もいる。
評価の基準は?
絶対的評価はあるのか?
あるとすると、アスリート系ならオリンピックとか、そういう類か。
アスリート系ではないなら?
○○大賞、受賞、とか?
賞が欲しくて頑張る場合もあるし、頑張ったら賞をもらった、という順序もある。
一生懸命するには、何か具体的な目標やご褒美があるほうが、熱意も上がることだろう。
だが、競争は時には醜いこともある。
何事も表裏一体。
全ての面にドンピシャリの答えはない。
一方が立てば、一方が立たない。
そんなものだ。
別の見方をすれば、黒も白になる。
人には人のデリケートなプライドがあるから、そっと触れないようにするのが、当たり障りなくて無難だ。