蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

「おまえの作るメシは食えん」 はい、そうですか。そうですよね~。

2015-08-28 | 日々のこと

基本的に、わたしは理屈屋である。
が、思考があまり深くないので、正確には「屁理屈屋」である。

突き詰めて考えると、アタマに酸素が不足して、
甘いものやら、飲み物やら、ついでに辛いものも、手当たり次第ぱくぱく。
たんに、思考続行に、飽きてくるのだろう。

わたしが最近、見に行くのだが、とあるSNSのコラムを書いている人がいる。
彼女が、愛について、なんたらかんたら、記事を書いていた。

わたしは、一般愛読者としてコメントを書いたのだが、
あーでもない、こーでもない、と、書いては消し、書いては消し、面倒になってきた。

アタマの中だけで、愛について語ったところで、なんの役に立つ?

実行、実践をしなければ、言うだけなら、言わないほうがマシ。
なにも知らない無垢、無心の、真っ白のほうが、マシ。
ここはどこ? わたしはだれ? 今日、ご飯食べた? あなただれ? 
無知のほうが、まだマシ。

へんに考える力とヒマがあるものだから、理想論的なことを書く。

そんなヒマがあるなら、
愛する人のために、総力を結集させて、手作りの、手間ヒマかけた料理やら、掃除やら、住環境を整えるとか、
実践で胸の美しき真心を表現すればよろしい。

だが、こういう人に限って、一生懸命作った、料理なのに、 
夫は「無表情で何も言わずに食べる」と、失望し、ついには、逆ウラミしかねない。

わたしなんぞ、手作り料理の一皿を、夫は、一瞥(いちべつ)したのみ、(箸はつけない)
お箸の先で、つつつ~っとテーブルの向こう側に押しやられ、
夫が自分で買ってきた、コンビニのカットキャベツやら、なんやらかんやらをばくばく食べる。
「お腹いっぱいだから、ごちそうさま」と、言い、
その後に、同じくコンビニで買ってきた、高カロリーの嗜好品を目の前で食べる・・・
こういう光景、態度を見せ付けられ、にっこり、微笑むほど、わたしは、機械のような感情のない人工知能ロボットではない。

と言いつつ、最近の人工知能ロボットは、かわいいし、精巧だ。
自動掃除機のルンバだって、掃除したあとは、自分の椅子に戻って、ご主人が帰ってくるまでセルフ・チャージして待っているらしい。

水をやらなくてもいい、餌もやらなくてもいい、
そんな人工知能ロボットが欲しいぐらいだけれど、・・・・・いりません。

たいして、わたしのすることは、高度でもないし、ハードでもないし、量もないので、大丈夫。
湯気が出たアタマを冷やすための、パソコンのひとつもあればいい。
スマホ対応でも十分。
(エンピツと、裏が無地の折込広告チラシ、では、不十分)

愛がどうのこうの、そんなこと、日常で生活していたら、いちいち真に受けていたら、
カラダもこころも、もちません。
死なない程度に愛があれば、よろしい。
枯れない程度に水を与える程度の愛で、よろしい。

理想と現実は、自分の中でうまくバランスをとって、
毎日、明るく楽しく、たくましく生きていたい、と願うのであります。

 

 にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


省エネ・自己チューのススメ

2015-08-25 | 無題

ふと、思いついた。

「めったに、○○しない」

この方針、生き方は、とても楽で、便利で、お得だと。

「めったに笑わない人が、笑った」
「めったに怒らない人が、怒った」
「めったにお小遣いをくれない人が、お小遣いをくれた」
「めったに頑張らない人が、頑張った」
「めったに気を利かさない人が、気を利かした」
「めったに良い成績を取らない人が、良い成績を取った」
「めったにドレスを着ない人が、素敵なドレスを着た」

いつも手を抜いてサボっているのに、ちょっと何かをしただけで、
とても驚かれて、すごい!!とプラス評価され、効き目、ばっちり。
(ただし、いつも、周りからの評価は低い。その低い評価に耐えることが条件)

逆に、
「いつも笑っている人が、無愛想で、ぶすっとしている」
「いつも頑張っている人が、頑張ってない」
「いつも良い成績の人が、悪い成績だった」
「いつも素敵なドレスを着ている人が、普通のドレスを着ている」

いつも良い状態、素晴らしい状態をキープするだけでも大変なのに、
ちょっと気を抜くと、(通常に比べると)マイナス評価になる。

では、
「いつも怒っている人が、怒らなかった」
「いつも悪口を言っている人が、悪口を言わなかった」

これは、効き目があるのか?
評価が上がるのか?
「いつも」の状態が、すでにマイナスである場合、
いつもと違うことをしても、プラスではなく、ゼロである。
嫌われ者は、しょせん、嫌われ者。
少々、いつもと違うことをしても、また元に戻ると見なされるだろう。


常にニュートラルにいると、維持するエネルギーはほとんどかからず、
必要な時のみ動いて、低いエネルギーで、高い効果が得られる。
感覚的には、ハイブリッド・カーのようなニュアンス?

いつも高い位置をキープしていると、キープするだけでもエネルギー量が多く要るだけでなく、
少しでもエネルギーが不足すると、円滑、潤滑に進まない。トラブル発生の元になる。
これは、性能が高いとは、言いがたい。
少しのエネルギーで、ハイパワーが望ましい。

高い位置に上げ、軌道に乗せたあとは、オートドライブのごとく、あまり更にアクセルを踏まない。
日頃の評価をあまり気にしないなら、
自分をさほど高い位置に上げる必要はないので、初期投資的な努力は少なくて済む。


省エネモードは、とても楽である。
わたしは、あまり他からの評価を気にしない。
エンジン全開で常に湯気を出しながら頑張っている人を見ると、周りの評価としては、それが当たり前になってしまい、疲れるだろうなあと少し気の毒になる。
評価軸を自分に置いて、自己チューで動くと、他人に動かされる部分のエネルギーがカットできて身軽である。

自分が中心になって省エネモードで動くと、他人がたくさん動いている中で動いても、ぶつからずに小回りもきく。

人の目を気にしないコト。
ただし、自分軸は、ある程度、社会において、自分の位置したい(目標とする)場所を自分で決めて、軸を取る。
自分が不愉快になるような自分のポジションには居たくないので、回避するために、自分のために努力をする。
その努力は、おそらく表面には現れない。

サボりと取られても、自分の居たい位置にいると、快適である。
ただし、ニュートラルで、スタンバイすることが条件だろうけれど。

そのためには、目や耳は常に動かしていないと、時機を逃がして仕事を溜めると、後が厄介である。

 

 にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


おかあちゃんは、もうあかん・・・

2015-08-21 | 日々のこと

朝になると、電話が鳴る。
忙しいときだったりすると、げげっとなる・・・
母からだ。

出ない時は、留守番電話に、びっしり録音が並ぶ。

今朝は、電話に出た。

「おかあちゃんは、もうあかん。
なんにも、できひんようになってる。
ご飯の支度も、あれも、これも、できひんようになった。
今日、(わたしの)孫を連れて、○子(わたしの姉)といっしょに、来て。すぐ来て」

悲痛な叫び。
(毎度のことだか)

よくよく聞いてみると、すでに、30分ほど前に朝食は兄と済ませている。

「なんや、もう朝食が済んだんやったら、今日来るヘルパーさんに、
昼食をお願いしたら?」

なんたら、かんたら、うんぬん、かんぬん。
少し冷静を取り戻してきたようだが、
次第に、母から出来の悪い娘への、ちょっとお説教っぽい流れに雲行きが変わってくる。

「あなたは、なんにもせんと、じっとしているだけやけど、
あんな、いい旦那さんはいないから(と、ここでホメまくる)、
もっとあなたは、旦那さんに尽くしたら、もっともっとよくなるよ。・・・うんぬん、かんぬん」

はいはい、そうですね。
はいはいはい、はいはいはい、はいはいはいはいはい。

なんで、いつも、最後は説教になるかな~。
でも、わたしに電話をかけてくるうちは、まだアタマがしっかりしているということだからね、
と、本人も言っていた。

近々、孫を連れて顔を出す約束をして話が終わった。
今日も姉が顔を出すようだし、ついさきほど、兄と朝食をとったばかりなのに、
まるで、遠く離れた孤島の牢屋にでも入れられ、孤軍奮闘しているかのごとく。

まあ、説教してくれるうちが、華かなあと、ありがたく電話を切った。

 にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

 


文章に出る、人生

2015-08-18 | 日々のこと

わたしのことを褒めて下さった、先輩(お目にかかったことはないが)が、
今日も、とあるSNSでコラムをアップしておられたので、見に行った。

あらまあ、わたしの考えること、感じることと、まったく同じ。
この先輩とわたしは、同じ線の上を歩いているように思う。

ただし、この先輩は、マジメでお勉強を一生懸命なさる方。
わたしとは違うところに、安らぎというか、安心感を感じた。
わたしは、基本的に、勉強家でマジメな人が好きなようだ。
自分がないものを持っておられると、なんだか信頼できる。
自分みたいな類の人間は、ふにゃふにゃしていて信頼が置けない。

かつて、わたしより5歳は年下だろうと推測する、文章の先輩に、ここ、蝶ブログで出会った。
彼女は、キレすぎて、腑抜けのわたしには、辛すぎる。
歩んできた人生が違うと、人生への取り組み温度が違うので、
お湯のなかで生きているわたしには、ベースのところで温度差を感じずにはいられない時がある。
鋭い刃物で切られる思いを何度かした。
別にわたしのことを指して述べておられるのではないが。

ひょっとすると、わたしの文章も、
特定の相手はなくても、自分を切っていて、同時に誰か不特定の人を切っているかも知れない。


文章表現は、あくまでも、手法であって、書く内容、精神構造、感性、アタマの中身、
頭脳とこころが要である。


わたしの欠点は、ムラがあること。
常に滑らかではない、アップダウンの起伏、左右の振幅がある。
自分で、やる気やパワー、能力をコントロールできない。
できることは、エネルギーの出し惜しみ、のみ。

おそらく、どこかが詰まっているか、うねっているか、突起でもあって、
脳への血流が潤滑に行われていないのだろう。
自分で制御できないが、それを逆手に取って、動けない時間、パワーで「溜め」を作る。
メリハリで持ち味を出すことにしている。
まったくなにもしないで、息をしているだけの時と、髪を振り乱して、全力、フル回転の時に分かれる。


ちなみに、唐突に、ぜんぜん関係ないが、
ある50代女性の婚活ブログを読んだ。
男性が好む女性とは、おっとり、しっとり、だそうだ。そしてマイルド。
しっかり、自己を持つ女性は、男性の思い通りにならないので、敬遠されるとか。
なんだか、この話を読んで、ちょっと嫌になった。
男って、なにさ。結婚してからも、わがままを通したいつもり?
幻想を抱いている限り、結婚はできない。
じゃあ、結婚しようと頑張らなければいいのに、なぜか、このブロガーさんは、延々と婚活を続けておられる。

義母(姑)が、4日前に言った言葉が印象に残る。

「女は、男をどう動かすか、活用するか、それにつきる。
上手に動かすんやで」

なるほど・・・深いお言葉。。。。
どこの誰の名言より、重い真実が感じられる。


今日は、延々と自分の能力や年齢に対する愚痴を書こうと思ったのに、
そういう気分ではなくなってしまったようだ。
今朝、見た夢、2本についても書こうと思ったのに、
(1本はストーリーもはっきり、シーンも鮮明に覚えているが、もう1本は、登場人物のみしか覚えていない)
お時間となりました。

 

あ、最後に。
昨夜見た、NHKテレビ番組「鶴瓶の家族に乾杯~フィンランド・ヘルシンキ編」に出てきた、
シニアの事実婚らしきカップル。
とても素晴らしかった。
鶴瓶のツッコミは気に入らなかったが、コメディアン(芸人)としてはまあ、ああなってしまうかと。
ああいうカップル、理想中の理想。
ああ、でもわたしには無理。わたしは、デキが悪いから・・・。
でも、でも、あんな二人が、理想です。

 「僕たちは、同じものを見て笑うんだよ」
そう言った、男性の笑顔が、これまた素敵だった。
その横で、にっこり微笑む女性・・・ああ、いいなあ・・・。

わたしも、まだまだ甘い、夢見る乙女かしらん???



にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


妬み嫉み&ヒガミ、これの繰り返し

2015-08-17 | 趣味

あんなに行っていた、お気に入りSNS、最近は、ちっとも面白くない。
なので、日記を書く気もしない。

興味がすごい勢いで、ざざざ~っと引いていっている。
なぜなんだろう??

多くの会員たちが日記をアップし、コメントが並ぶ、その、日記に書かれている行動内容や、やり取りを見て、
自分の大嫌いな人が、いる。
ひとり出てくると、全体的になんだか伝染していくかのごとく、いっぱい出てきた。
嫌いというのは、おそらく、自分の出る幕がないと感じるのだろう。
自分が居たいのは、ここじゃない、と感じた。

すると、す~っと体温が低くなった。

まるで、新勢力に圧倒され、すごすご逃げ出して行く、旧勢力のよう。
敗退、撤退。

わたしが登録しているのは、社交ダンス・カテゴリーである。
リアルな人物が、リアルな会場で顔を合わせたり、踊ったり、オフ会の報告や、試合の結果など、
アップされていることが多い。
活動エリアは、北は北海道から南は九州まで。
仲間内の巨大サークルのようなものだ。
わたしは、リアル実像は明かさない主義。
だから、決してオフ会にも参加しないし、実際にもSNSリアル人と踊らないので、
読む人も、表舞台に出てこない人の日記など、面白くもなんともないと思う。
情報や交流の一方通行では、とうぜん、限界がある。

わたしが見聞きしたリアルな人が、日記に書いている内容と、実物とが、乖離していることが時折ある。
美辞麗句の日記と、実像が、違う。
そして、許せないような、もろに嫌な面を目撃したこともある。
その人は、ダンス歴は非常に短いが、ご自分の武器を最大限に活かし、華としてイキイキ活躍されている。
ノリが、とてつもなく軽く、人類、みな、きょうだい、といったフランクさ。
何人でも、出会ったら、今日、ハグしたその瞬間から熱いお付き合いだよ、というスタンスは、
いくら「社交ダンス」というジャンルだからといっても、わたしの価値観とは、とても相容れない。
わたしは、どちらかと言うと、コツコツ黙黙・地道な技量練習・積み重ね派。
地味で武器のないわたしは、それしか出来ないし。

人見知り非社交人と、ラテン系との、違いか?

たんなる、ネタミ、ヒガミか?

しかしながら、気持ちのよいものではない。
自分が優位に立てないどころか、自分は多くの人々の価値観とは違う価値観をもっている。
そんな価値観が渦巻く中で、卑屈な、いじけた負け宣言的な、恨み節日記を書く気にもならない。
共感を得られないことが、わかりきっていることを前提に書くと、
全文がそういうトーンになる。
もう、前々から、わたしのページには、そういう日記が並んでいる。

 

同じSNSに属し、会員の中から事務局に選ばれてコラムを持ち、活躍されている、
別の文章系のカテゴリーに登録している、文章のしっかりした、文筆力のある方から、ちょっとしたお褒めをいただいた。
彼女は、4年制・男女共学大学・文学部出身(おそらく国立大学)の、団塊の世代。
たいそうマジメな方である。
褒められると、かえって恐縮を通り越して、真っ赤になる。

じつは、その人の、とある日記に反感を抱き、
かなり長い時間を使って、書いたり消したりを繰り返し、自分の考えをまとめつつ、コメントをしたためていた。
が、結果的には、コメントを送らなかった。
そういう経緯があるだけに、彼女はそんなことはもちろんご存知ないので、
わたしを、単純に明るく褒めてくださった。

コメントは、よく吟味して送るべきであり、たいして考えもせず、反感を感じたからといって、感情的に
その勢いで送るということは、しなくてよかった、と、つくづく思った。


と、それと、最初の体温低下はと、まったく違う次元のことであるが・・・
最初に書いた話。

自分の棲家、居場所がなくなったと感じる場所には、とうぜん、魅力を感じない。
嫌いな人や、ことを排除する力がない場合、自分が逃げるしかない。
いつもわたしは、この、超・消極的な方法を取る。
闘わない、省エネ派。
負けてもいいのだ。無駄なエネルギーを使いたくない。

かくして、またもや、多くの人々が集まる場所から、わたしは身を引き、
自由な、不特定多数の交流の場から姿を消すことになる。
膝を抱えて三角座り、定位置が確保されているので、大丈夫だ。

この定位置こそ、この、蝶ブログではないかと、今、書きながら気づいた。

負けて傷ついて、帰る場所が、ここなのだろう。
元気になれば、また、自分勝手な思いばかりを強気に綴る。
というか、ここまで書いた次の行から、一瞬で復活、いつもの調子で、さらさらと書きそうだが、
またまた長くなって、わたしのいい加減さが露呈されるので、やめておきます。

 

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


愚痴るより、孤独と闘うほうを選びたい

2015-08-12 | 人生

不満を募らせて、ぐじゅぐじゅ言ったり、愚痴ったり、相手に、こそっと陰険な意地悪を仕返したり。
そんなこんなで、夫婦を続けている人が多いのでは?

すぱっと別れてしまうのは、潔くて、かっこよくて、勇気があるのか?
少し前のわたしなら、そう思ったのかも知れない。

今は・・・
さほど思わない。
良いと思えない状況のなかでも、頑張って耐えつつ、まだ夢は捨てず、現実を抱えながら、
とりあえず、未来に向って歩く。
今までの生活を捨てるのが勇気があると称されるのであれば、「捨てない」のだって、勇気がいるのだ。

断捨離ばかりをもてはやすことは、ない。

 

かくいう、わたし。
一昨昨日、キッチンの棚の中にあるモノモノを断捨離した。
棚の中は、スースーした。
サランラップやアルミホイルを入れるにも、ぎゅーぎゅーだったのに、余裕すいすいの棚を体感すると、
確かに、すっきりした。

これからの自分の人生、断捨離!!である。
モノ、人、行動・・・必要不可欠なものだけを残して、あとは、減少、カットしていけたら、と、こころに強く思った。

が、こちらが望まないに、神様が勝手に断捨離してしまうこともある。
壊れる、失くす、・・・これが、モノだけなら良いが、ヒト(生命体)や記憶だったら・・・?
思いや努力とは別のところに、人生の行方がある。

話を元に戻すが、
シングルに戻ることは、勇気がいるが、切り捨てると同様、維持することだってパワーがいる。
どうしようもない事情や、我慢の限界が来て、別れる決心をする人もいるだろう。
状況に応じて、わたしは、納得したり、応援したりする。
場合によっては、憧れたりするかも知れない。

ブログの大海の中で、上位を誇る、シングルに戻ったアラカン女性の超絶人気ブログがある。

(それとは違う、結婚不幸ネタで親近感を漂わせ、記事中から広告に飛んでいく、
超くだらない、時間の無駄ブログもある。
前もそれで、まんまと失敗したのに、またまた、ひっかかってしまった。
学習能力のなさ、その時の気分の悪さ・・・自業自得の典型)

シングルに戻った、自分と同世代の人たちが、どのような暮らしをしているのか、
のぞいてみたい欲求に駆られたり、興味はある。
すっきりしている人もいるだろうけれど、自分の参考にはならない。

なぜなら、自分は世界で一人しかいないので、参考にするにも同じ人、同一人物はいない。
自分は唯一無二であるから。

その、だれにも譲れない、大切な大切な自分を、もっとも大切にする生き方を試行錯誤し、模索する。
そのシュミレーションの中では、シングルに戻る選択は、あまり魅力がない。
なので、シングルの人を見ても、さして羨ましいと思わないし、かといって、自分が、優越感を感じるわけでもない。
当然、卑下するわけでもない。

自分は自分であって、他の誰でもなく、自分の人生は自分のもの、誰のものでもない。
当然、孤独は付きまとう。
それは、家族があろうが、なかろうが、である。

家族にべったり寄りかかると、自分がなくなる。
が、肉親や家族は、理屈抜きで大切な存在である。

ちなみに、ペットは面倒なので飼わない。
食べさせたり、世話を焼くのが嫌い。
まして、ペットの治療や介護など、生きている人間で、精一杯。
機械でも壊れたり、メンテナンスが必要なのに、生き物など、とんでもない。
ペットに感情移入はしない。

情熱を傾けるには、進むと同時に退路も確保しなければ、
なにもかも投げ打って全てを賭けると、修正や調整がきかない。
わたし流、ニュートラルの原理。
その代わり、孤独と仲良し。

寂しがりなので、特に、膝を抱えて、部屋の隅で三角座りには、慣れっこである。

 

 にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


さよなら、ネット依存症・・・を目指しているものの

2015-08-10 | ブログ

まだまだわたしは、ネット依存症である。
チェーンスモーカーが、無意識のうちに新しいタバコをくわえているかのごとく。

気がつくと、ネット世界をうろついている。
パソコンの電源を入れるまでもなく、スマホにしたら、小さな軽いパソコンが、いつもポケットの中に納まり、
電源を入れたり、切ったりも、瞬時。
電車内でも、トイレの中でも、食事中でも、横になって寝ながらも、目が覚めて起き上がるまでの間でも、
いつでも、どこでも、まるでカラダの一部のように、いっしょにいる。

これを依存症と言わずして、なんという?

べつに、あてもなく、ネットサーフィンはしない。
メール(業務連絡も含む)、SNS、ブログ、ニュース、共有している写真アプリ、LINEなどをチェック。
目の前にいたり、違う階にいたり、ほんの近くに住んでいる娘たちとでさえ、LINE。
情報がすぐに入ってくるので、いちいち状況を時系列を追って細かく全員に説明したり、されたり、しなくていいから、わかりやすいが。

知人で、まったくインターネットをしない人がいる。
ガラケーで、しかもパソコンを持たない。
その人物には、インターネットネタが通じないので、ある意味、ほっとする部分がある。
銀行振り込みは、律儀に銀行に出向いて、窓口で行う。
アナログ人間である。

その人物は、SNSの概念やシステムが、まったくわかっていないので、
とんちんかんな発言を聞くと、時折、イラっとする。
いっそ、母世代の人で、メカの「メ」も知らない、パソコンの「パ」も知らない超お年寄りであれば、問題ないのだが、
そういう世代ではないところにもってきて、(しかし予備軍である)
自意識が高くプライド満々、偉そうにしているだけに、よけいにムカッ腹が立つ時がある。
しなびたシーラカンス、あるいは、ふやけたシーラカンスになるほうが、
元気なシーラカンスより、ずっとかわいい。
プライドを保つためには、なにか、それに代わるものを失うってことだ。
角が取れると、プライドまで取れてしまうのか?
せめて、プライドを保ちつつ、角も取れ丸くなるのが理想だが、凡人には至難の業だろう。
シーラカンスは、自分がシーラカンスである自覚が必要である。
(が、自覚さえすれば、なにも卑下する必要はない。逆切れシーラカンスは、タチが悪い)

と、話は大きく脱線。

わたしは、言葉も通じない、地球の裏側に旅するときでさえ、飛行機や泊まるところはもちろん、
スケジュール・イベントも、すべてネットで手配、準備した。
もはや、ネットのない生活は考えられない。
会ったこともない、見たこともない、行ったこともない、人、ところ、コトをすべてネットで手配するのは、
ハイリスク・ハイリターンであるが。自己責任で。
時運、ノリと運も、ある。


・・・と、また少々脱線。

で、インターネット中毒、依存症となるわけだが、最近、ブログ中毒からやや脱しかけている。

そのかわり、SNSに、よく行くようになった。
ブログは、ぽつんと建っている一軒家(一戸建て住宅)とすると、SNSは密集地域に建つ大規模集合住宅である。
人もジャンルも多彩。

SNSは、自分の記事をアップすると、会員さんがコメントをつけてくださるので、それに対するコメント返しが気になり、
はやく、すべてのリコメを書かねば・・・と強迫観念に近いものを感じ、意外に楽しみきれていない。
(こういう、どうでもいいことは、律儀なわたし)

そして、閲覧数は公開されるし、コメント数も、人や記事によって、多い少ないがある。
他と比較したりして、他人に左右され、マイペースを貫くには、時には不愉快な雑音になったりする。

さらに、人の日記にコメントしたのに、自分のコメントにはリコメがなく放置されたり、(うっかり日記主が見落とす場合もあるだろうけれど)
いかにも適当にあしらった感があると、誠に自分勝手であるが、嫌になる。
時には、わたしは超・自己チューの極みで、自分の書き込んだコメントを削除してしまったりする。
自分が一生懸命取り組むからといって、他の人も熱心とは限らないのに、つい、自分を基準にしてしまう。

リコメをいっさいしないとか、そういうスタンスならわかるが、
何人かリコメを書き、残りの人を途中でほったらかし、
新しい記事を次々アップしている人を見ると、その人の性格が見える。

50以上の多くのコメントをつけられる人もいるが、ひとつひとつに、まともなリコメを期待するのは、間違いである。
友人(お気に入りさん)が軽く100人以上ある人の日記は、一方的に読むだけでよい。
関わっても、時間の無駄。

その中毒になりかけているSNSでさえ、脱会しようかと考えたり、
新しいハンドルで、入会し直そうと思ったり・・・するが、行動には移さない。
おそらく、しないだろう。
とりあえず、静観時期を保っている。

なにしろ、インターネット暦が、長いので、そうそうカンタンには依存症からは抜けられない。
しかしながら、わたしのインターネットも、量から質へと移行しつつある。

 にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


孤独

2015-08-04 | 日々のこと

やっぱり、わたしは自己満足の世界に生きている。
世の中の人たちと迎合するのは、困難だと感じる。

それが、どうした?

人の評価を視野に入れ、
評価されることを、自分が無理して頑張ることへのご褒美に考えるのなら、
もっと自分を抑え、人に尽くさなければいけない。

自分を軸に、気ままに好き放題していたら、無理。
評価のなかには、感謝だとか、労いだとか、そういうものも含まれると思う。
わたしとしては、尊敬は、含まれないし、望んでもいない。

自分らしく生きるのが理想といっても、バランスが必要。
「自分らしく」は、人の評価に振り回されないこと。
孤独に耐えること。

哀しいわけではない。
辛いわけでもない。
楽しいんだから、他に何を求める?

欲を張ると、破滅への入り口に近づく。

 

 にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


もとに戻る日

2015-08-03 | 思い出

自分で、自分の過去の記事を読んで、癒された。
ジャンルは、「展覧」と「思い出」。

今では、もう書かない、いや、書けないだろう。

特に「展覧」は、最近、あまり行かないし、感動しても、ブログに書かない。
ブログに書こうと思うと、名前や事実を間違わないないように、ちゃんときっちり調べなくてはならない。
感性だけで書くわけにはいかない。
なので、そういうプラスアルファの余分なエネルギーが、ここのところ激減している。
自分だけ楽しめたらよい。その場だけで、昇華。
そう思うに至った経過としては、
人に知らせようと頑張ったところで、さして読んでくださる人も減少したので、
ブログに対するモチベーションが、すっかりなくなっている。

何年か前は、一生懸命、熱心に書いている。
自分でも、あのころは、力が入っていたなあと、懐かしいぐらいだ。
なにを伝えようとしていたのか。
今、思えば、記事の内容はさておき、自分という人間を第三者に知ってほしかったのだろう。

自分は、受け入れられたのか、受け入れられていないのか。
コメントは、ごく稀にいただくが、コメントが無いほうが、私としては安らかな気持ちだ。
わたしの毒舌に反応され、「コメント=苦情」といった構図が出来上がりつつあるので。


読んでくださる人数は、減ったものの、だからといって、わたしは、わたしであって、中身は変わっていない。

郷里の田舎で幼い頃、育ち、幼稚園からは、街と田舎で同時に暮らし、
二極分裂、同時進行の基礎がそこにある、と、自分で分析している。

田舎と街。
ガチガチに古い慣習と、流動性のある住民による、合理的な暮らし。

田舎は人が少なく、人の出入りがほとんどないので、競争が少ない。
よほどのことがない限り、どのイエも、アップダウンがなく、同じレベルで推移。
街は、一発屋あり、成金あり。
失敗しても、住まいを移すので、いつまでも人々の生活には影響しない。

街には、多くの人々が集まり、特に子供の教育は、理念が反映されている。
わたしは、田舎で、のほほんと育って、周りには競争している人など見当たらなかった。
ほんの幼い幼稚園の時代から、急流の中に投げ込まれた格好となってしまった。
井の中の蛙に、なる機会もなかった。

田舎では、誰も競争しないので、レース自体が存在しなかった。
街の学校では、ぼーっとしていたら、
あなた、別のコースのほうが向いていますよ、と肩たたきをされる生徒もいた。
自分の能力だけが明白な判断基準の、競争社会への参加を余儀なくされた。

これは、けっこうキツイものがある。
なぜなら、金持ちであろうがなかろうが、親の威光も効かない、
ルックスが良かろうが悪かろうが関係ない、口が上手かろうが、愛嬌があろうが、関係ない。
皆、同じ条件で一斉にスタートラインに立たされ、結果を競う。
能力があるからといって、何もしないでいると、頑張り屋さんが、すごい顔をして追い抜きにかかる。

学業が最も苦手はわたしは、そりゃあ地獄のようなレースだった。
いちばんビリでも、持ち前の、厚顔無恥な雑草根性で、最終列の最終位置で、かろうじて着いていった。
後ろは、絶壁、谷底に落ちるのみ。
傍らで、社長令嬢や、深窓の令嬢の美少女たちが、コースを変えていった。
彼女たちは、その後、令嬢コース一本を歩むことになる。
ファッションや美容には敏感で、お勉強よりも、男性をゲットする術を磨く。
(もちろん、全てを備えた、文武両道、才色兼備の人もいる)

ああ、わたしと言えば、勉強はビリ、でも、コース変更宣告はされず、ビリのまま進む、
過酷なコース。
学校では先生に怒られ、家では親に怒られ、
かくして、二極分離の、美魔女嫌いの人間の原型が生まれた。

いっそ、トップをひた走り、先生の取り巻き連中のように優秀であれば、勉強コースは順風満帆であるが、
ビリで、でも、女子力磨きコースにも入れない、中途半端なわたしは、これは、ヒネくれるしかないのであった。

クラスメートたちの多くは、優秀難関校に進学し、社会では当然バリバリ活躍した。
そういう人たちに会いたいという思いもあり、同窓会にも、ほいほい行った。
自分は・・・といえば、自分が自分のためにだけ、好きでやっている仕事と、
家庭の両立に、寝るヒマも惜しみ、頑張っていた。
家族には迷惑をかけたが、
結果的には、子供たちに十分、手をかけることができず(サボりなので、たとえ暇でも手を掛けないと思うが)、
各自の自立を促すことになった。

同窓会には、わたしのような人も何人か参加していた。
社会では、まったく認められていないけれど、自分が好きでしている仕事や、活動を熱く語っていた。
社会からは、評価されていないが、自己満足の世界である。
あの人、自分では気づいていないけれど、わたしと同じ穴の狢(むじな)だと思った。
わたしには、痛く感じられた。
当然、そんな失礼なことは、ご本人には言わないが。
ひょっとして、こころの中で思っている人もいるかも知れない。
「で、それでギャラは、いったいいくらなの?」


あの時、社長令嬢たちと、女子力コースに行っていても、結局、またどこかで同じような道を進んでいるように思う。
というか、人生のある根幹部分で、女子力コースを選んでしまっている。
わたしは、時代としては最後の「女子コース優遇枠」かも知れない。
時代の先端ならぬ、最後方である。
今の女性たちには、自分の方法は通じない。


わたしは、相当、甘い。
甘くて甘くて、恥ずかしい。


あと数年すると、同級生たちも、リタイアするだろう。
天下りや、再就職した人は別として、それ以外の人は、肩書きは、ナシ。
学力コースを降り、卒業することになるのだろうけれど、現役の仕事内容によって、
リタイア後の生活に差が出てくる。
大手企業に勤めていた人や、そうでない人など、退職金や、貯蓄額に違いがあることだろう。
肩書きはリセットされても、過去の実績が、老後の暮らしに大いに影響があるように思う。

頑張っていたのに、倒産したり、リストラされたりした人もいるだろうから、一概に言えないが。

・・・で・・・
自分に関して言えば、
レースから降りて、もとの田舎回帰に向かうのではないかと、今後を予測している。
ただし、配偶者を引き連れて、故郷にUターンなんてことは、絶対にない。

もっともっと80歳を軽く越える頃になると、また展望は変わっていると予想している。
その頃は、遠くから孫子の成長を楽しみにしつつ、
コンパクトで合理的で快適な空間で、ひっそり、ちんまり暮らしていることだろう。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

「ばーちゃんと呼ばないで」というブログでも書いているかも知れない。