製本は、自分のためだけの1部のみ。
そして、日本でなくても、インターネットさえつながれば、寝たきりであっても(いろんなツールを使えば)
できます。
ただし、これは、わたしのブログがgooのブログで、製本化できる会社?と提携しているから、可能になった。
しかもユーザーがブログを使用するのにあたり、無料コースでは、このサービスとは連携していなくて、
毎月、いくらか(200円ぐらい?)の有料のコースに切り替えて、はじめて出来るようになった、というわけだ。
このコースに切り替えても、最初の一ヶ月は無料なので、今月中に製本化をしてしまえば、
無料のまま、ブログを去ることが出来る、と目論んだ。
ところが、一ヶ月でデータ化は今年2月分まで済んだものの、
かなりの量になると、製本金額がとてもお高い。
なので、すべての記事を製本するのはあきらめようとしている。
カテゴリー分けして、たとえば、「旅」だけ製本するとか、
最初の3年間だけ、製本するとか。
そうしないと、本は、やたら、かさばるし、費用は、当初の予算とはありえないぐらい大幅増額になるし・・・
・・・で、目下、思案中。
そうこうしていると無料期間の1ヶ月を今日で過ぎてしまう。
やはり、最初のヨミ通りのことになった。
・・・
ブログ終了の時間待ちをしている間に、これまでのことをいろいろ思い出す。
書いてある内容はともかく、
ちょっと自分の感覚、ニュアンス、フィーリング、テイストが変わったような気がする。
だが、書き続けることは、やめない。
他の人の壮絶な人生模様を読んだりすると、なかなかのもの・・・である。
今のわたしは、日常に振り回されるだけのことであって、
思いつめることや、不条理に対して訴えること、追求することがないようで、
気の抜けたサイダーである。
が、わたしは、内省するあまり、無意識に人を傷つけている場合がある。
せっかく自己満足して幸せをかみ締めている人に対して、眠っている子を起こすようなことをしている。
啓蒙啓発したところで、かえって、よけいに不幸を招くことがある。
知らないほうが幸せなことは、世の中には山のようにある。
ある人に、それを指摘された。
ほっておいてくれ、ということだろう。
なにも、その人のことを指摘しているわけではなくても、その人にとっては、不愉快なのだろう。
「あなたのカツラ、ちょっとズレてますよ」
と、お知らせするのは、いかがなるものか、と。
見て見ぬ振りをする寛容さ、やさしさ、懐の大きさが必要かと。
理想と現実は違って当たり前。
なにも出来ない人に向って、
「いっしょに夕日の浜辺を駆けましょう、」と熱く叫んでも、鬱陶しがられるだけだ。
そっとしておいてくれ。
ほじくりださないで。
眠った子を起こして、哀しい目をさせてやるな。
そういうことは、世の中、たくさんある。