蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

不幸を呼び込む力

2018-01-31 | 日々のこと
久々ぶりに、ご近所友人Aさんとお茶。
目と鼻の先に住んでいるけれど、会うのは2〜3年ぶりぐらい?

いろんな話を聞いた。
濃い内容。
さすがに3年分。

色々ある中で、Aさんのお友達Bさんの息子さんのカノジョの話を聞いて、びっくり。
今は同棲中で、いずれ結婚するかも知れないらしいけれど。
聞けば聞くほど、ヒドイ女性。
こんなエゲツない女性と付き合う男性もいるのだなあ、と。
いかにヒドイか、具体的に書くのは躊躇われるので書かない。
内面、性格、考え方の問題であり、それに基づく行動、態度。
いずれ、息子のお嫁さんになるかも知れないお友達Bさんには、ヒドさを伝えることは出来なかった、とAさん。
Bさんは息子のカノジョがそんな人だということを知っているのかしら?と、Aさんは心配していた。
若いから、今を重要視するあまり、息子さんにはカノジョのヒドさが気にならないのだろう。
冷静な客観的な目で見ることが出来ないと思われる。
それにしても、、、。

他人事なので、全くわたしには関係がないが、最近観た、蒼井優主演の映画に少し似ていると感じた。
エグさが売りの、個性的女性作家の小説の映画化。
(ちょっと気分悪くて吐き気とか、してくるような、衝撃的作品)

不幸になりたい人は、不幸に近づきたがると思う。
どう考えても、そんなカノジョといれば不幸になるのは分かりきっているのに、まして、子供でも産まれたら、大変なことになるのに。
本人同士が良いなら、周りに止める権利はない。
みすみす不幸な道を好き好んで選ぶ人は、それなりに自分に不幸因子があると推測する。
不幸は、不幸が好きなので、どんどん不幸になっていく。
不幸を呼び込む力なんだろう。

その逆は、幸せは幸せを呼ぶ連鎖。
いろんなパターン、人がいると、しみじみ思った。

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ぶつぶつ独り言は気持ち悪い

2018-01-30 | 日々のこと
昨夜、嬉しい楽しい(さわりだけ)内容のブログを書いたばかりなのに。
今朝、また嬉しいことを言われたばかりなのに。
わたしはどうやら楽天家ではあるものの、同時に本質まで見極めてしまい、心底喜べない。

今だけだろう、とか、
喜ばせて何か魂胆、打算があるのだろう、とか、
さして何も意味はない、自然に口から出まかせリップサービス作業だろう、とか、
マイナスのことが見えて、どうも熱が上がらない、可愛げのないわたし。
たぶん、自意識過剰なのだろう。

素直に喜べばよいものを、おべんちゃら、お世辞に聞こえてしまう。
自分に自信のない、自己過小評価の哀しき習性がこびりついている。
おそらく認めてほしい、裏返しではないかと深層心理を探る。
といっても、自分のことは自分が一番よく知っている。
主治医、兼、患者。
セカンドオピニオンを聞いても、ぐるぐる回って結局、自分の考えに戻ったりする。

喜ぶ時ぐらい、素直になりたいなあ。
しかし、情熱やモチベーションを高く保つのは至難の技であることは熟知している。
なので、今、この瞬間に絶頂の熱さ、高さにいるのに、同時に、しゅるしゅると下降していく映像がアタマに自然に浮かんでしまう。
分裂アタマ、メリハリアタマは、厄介だ。

しばらく、じわーっと喜んで、情熱やエネルギーをチャージしたらよいと思う。
と主治医=神の声。
結局、自分が独り言をぶつぶつ呟いているだけなのかしらん。

ただし、声を出して独り言は良くない。
街の自販機の前や、駅などで、つぶやきおばさんを時々見かける。
気持ち悪いので、声を出すつぶやきは、家の中だけにしている。
娘が最近、声を出して独り言を言っているのを聞き、発声独り言菌が家庭内で感染したとしたら、申し訳なさを感じている。
だって、気持ち悪いもん。

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マイナスな出来事とマイナス感情

2018-01-29 | 日々のこと
わたしは、楽しい時には、さほどブログや日記に、書き留めたいとは思わない。
悔しい、腹が立つ、怒り、憤り、呻き、叫び、嫉妬、虚しさ、悲しさ、侘びしさ、情けなさ、疑問、解せない、納得できない、不条理、未解決、未消化、、、などなど、マイナス感情が溜まると、どばっと吐き出したくなる。

楽しかった、嬉しかったことなどは、ややもすると読む人から反感や妬みを買う場合がある。
しかし、失敗や、気の毒な話は、同情など、感情移入もしてもらえ、優越感も与え、さらに、ついには、応援してもらえるかも?などと、あわよくば、、、と打算付き。

妬みは、怖い。
しかし、なんで妬むのだろう。
人の不幸は、蜜の味。

、、、で。
今日はいいことがあったのだが、読む皆さま方から妬まれても嫌だし。
えへへへ、にたっと思い出し、ひとりほくそ笑んでいる。

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自分が見えない

2018-01-26 | 仕事
このことは、一度、ブログに書いたことがある。
元職場の後輩、A子。
29歳で途中入社し、当時30歳ちょっとぐらいの頃だっただろうか。
将来の希望はファッショモデルだったそうだ。

ファッションモデルは努力してなれるものではないと思う。
洋服を素敵に着こなすためには、ある程度の身長、スタイルが必須。
トランプ夫人のメラニアさんや、娘さんのイヴァンカさんぐらいなら文句なく合格。
顔は、最近は個性派も、あり。
なので、美人でなくても、存在感があればいい。
ただし、死神や貧乏神のような、見るからに陰気くさいとか、どこをどう取っても陰険、性格悪そうとか、目と目が離れすぎとか、口がいくらなんでも大きすぎ、とか、万人には受けなくてもほんのレアな人にも受け入れられないような顔は、やはりリスキーすぎる。
でも、まあスタイルが良い人はなぜか、顔も良い。
スタイルだけが、ずば抜けて良い場合も、存在感を放つ人がいて、顔は絶対必須とは思わないが、同列に立ってボーダーラインで競争した場合、顔が良いほうが人気があるだろう。
なので、理屈をこねても、仕方がない。
顔も大事な要素ということだ。

というわけで、努力の前に、ファッションモデルになる基準を満たしているかどうか、第一関門を突破しないと、努力をしても意味がない。

で、A子さんは、どうだったかと言うと。
身長160センチぐらい、標準体型。もう少し足が長いと、もうちょっとだけサマになるかも。というレベルである。
その身長の時点で、ファッションモデルはアウト。
誰も周りでアドバイスする人はいなかったのだろうか。
まさか本気だと、誰も思わなかったのかも知れない。

顔は美容整形のビフォーアフターの、ビフォーのような顔。
整形したり、整形メイクのしがいがある顔だった。
ただし、整形も整形メイクもしていない。
素肌美、ナチュラル系という路線もありだから、まあそれは良いとしよう。
性格は、根っから暗い、恨み節。
自分の不幸は人のせい。
自分の不幸の上に人の幸せが成り立っている、と、本気で考えている。
表情や言語行動にも現れていた。
仕事能力は、さほど高くない。(まったく人のことは言えないが、、、)
作業系のほうが向いているかも知れない。

少しぐらい褒めてもいいはずのA子。
もう少し頑張って長所を見つけてあげなければ。

彼女は、自分の能力を客観視できない。
客観的に考えたり見たりしたら、分かりそうな事なのに、評価は自分に甘く、人に厳しい。
他者からの評価が自己評価より低いので、またまた恨み節に磨きがかかる。

ファッションにもちゃんと興味があり、清潔な装いをしている。
見た目には問題がない。
考え方と、その考え方を基礎にした行動に問題があるだけである。
親友はいないようだ。(いなくても構わないが)

トラウマこそ受けなかったが、わたしと仕事を一緒にしていた関係。
好きになれないと感じた、二人目の人物。
わたしがその時、悟ったのは、職場は友達を作る場ではない、仕事をする場である、ということだ。

そして、世の中にはこんなに自分を客観視できない人がいることに驚いた。
知識や常識、見聞も、人によって随分違うことがわかった。
ひとつの、記憶に残る勉強になった。

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劣等感

2018-01-24 | わたし
またトラウマ氏のこと、うじうじ。
もうええ加減にせーよー、と神の声。

ええ加減に出来ないところが、トラウマたる由縁。
でもトラウマ以外の成果を伴うプラス体験が出来たのだから、それでよしとするか。

しかし、トラウマの内容と、成果は、別のもの。
必死で練習やトレーニング、レッスンを積み重ね、頑張った苦労を「マイナス」として、成果を「プラス」とするなら、理想的。
そうではない。
精神的に痛めつけられて傷を負った「マイナス」と、たまたま試合結果が良かった、という「プラス」。
同質のものでの足し算引き算ではない。

しかし、もっと結果が抜きん出て良かったら、離してもらえなかったかも知れない。
あるいは、もっと好感の持てる人で競技を続けていたら、足が日常生活にも支障をきたすほどダメージを受けたかも知れない。

精神的にダメージは受けたが、肉体的には、ギリギリセーフだったと言える。
ドクターストップで、やめたのだから。
足は、まだ回復できる。手遅れにならずに良かった。

トラウマと引き換えに、どうにかまだ使える足と、癒えたあとに元に戻る(予定の)精神力が残った。さらに、プラスの実績。
そう考えると、まだ良かったほうだ。
前々からわかりきっているのに、トラウマを引きずり、良いほうに考えが向かなかった。
精神を傷つけられるのは、思った以上にキツイことが、わかった。

色々な小さい細かいことがいっぱい集まって、重なって、トラウマを作った。
小さなことは偶然ではなく、大きな怪物、魔物の断片の数々だったようだ。
そういう人とは関わってはいけない。
人は良い人ばかりではない。
健全な社会生活を送っていても、心が歪んでいる人がいる。
見た目や、一般行動からは読み取れないことがある。
心の奥に隠された厄介なものがある。
恋人や配偶者だったら、わたしは病気になっていたことだろう。
仕事なら、条件が下がっても転職していただろう。

今回の場合、厄介なものの正体は、自分で克服できない「劣等感」。
人をコントロールしたがったり、威圧、恫喝したりもする。
おそらく本人は、それに気づいていないと思う。
そこが根深く、改善の余地がない。
人は離れていくか、距離を置いて接するだろう。
なので、本人は気づく機会がない。

被害を未然に防ぐため、どうやって、そういう人を見分けるか?
周りの評判、噂を聞いてみる。
良いか悪いか。
ただし、皆さん、露骨には口にしないだろう。
何人も相手を変えている、とか、そういう事実の噂を聞いて、判断するしかない。

わたしは楽天的すぎた。
深く考えなさすぎた。
やはり、初めての競技参加に浮かれていて、そちらに注意が行ってしまったのだろう。
浮かれ気分は、競技パートナー登録後、最初の第1回目の練習で、ものの見事に砕け散ったが。
人はある程度、人間関係が確定するまでは、本性は表さないようだ。
釣った魚に餌はやらない、どころか、釣った魚は、切り身にしても、煮付けにしてもよい、という感じだ。

またまた書き出すと、キリがない。
とりあえずは、今日は、マイナス1度の極寒、風邪を引かないようにブクブクに着込んで着ぶくれダルマになって、出かけるとしよう。

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幼稚な中毒

2018-01-21 | わたし
最近、わたしはどうもスマホ依存症の疑いが濃い。
片時もスマホを離さない。
バッテリーが、すぐなくなるため、交換するまでは、しばらくスマホが使えなかった。
電車の中でも、退屈で、ぼーっとしていた。
文庫本でも持ち込もうかと思ったりした。
わざわざ書籍を買わなくても、かつて買ったものの、途中までしか読んでいない本や、すっかり中身を忘れている本もあり、再読しようかと考えていた。

が、バッテリーを交換した途端、バリバリにスマホの調子が良くなり、元気モリモリ、息を吹き返した。
するとまた、スマホ中毒に元通り。
何度も何度もスマホのSNSを覗く。
ほぼ同じ顔ぶれが、わたしと同じような頻度で覗いていて、依存症仲間となっている。

おかしい、明らかに。
何がそんなに気になるのか。
急ぐ内容などこれっぽっちもないし、重要なことも何もない。
何もすることがないのか?
手持ち無沙汰なのか?
暇なのか?
寂しいのか?

そうでもない。
忙しくしているが、合間合間に覗く。
やはり、中毒か。
誰に話を聞いてもらいたいわけでもなし、誰かの話を聞きたいわけでもなし。
孤独を深めているわけでもなし。
いたって明るく健全な毎日を送っている。
なのに、、、

心理学の権威か、精神科か心療内科のプロに、傾向と対策を聞きたいものである。

そのうち、憑きものでも落ちたように飽きるだろう。
爪を噛むクセ、髪を撫ぜるクセ、みたいなもので、スマホを見るクセ?
老年に差しかかろうという、大の大人が、まるで子供のようだ。
ひょっとして、これも老化現象の一つかも知れない。
情けない、、、。

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トラウマ、トラウマと、うるさい

2018-01-21 | 趣味
「しつこい」ついでに、またもや。
自分のブログ、アクセス数を増やすのも、減らすのも自分。
いいのだ。減っても。

抑えきれない、嫌な思い。
消えない、押し殺せない。
アクセス数を減らしてまで、吐露、発散させたくなる強烈な、なにか。

トラウマ氏と、わたし。
両者が引き合わないのに、時間を共にする無意味さ。
わたしにとって、仕事でもない、損得勘定の打算でもない、もちろん、好意でもない。
相手がわたしに好意を抱いているわけでもない、尊敬しているわけでもない、内面に興味を抱いているわけでもない。

しかも、相手は、わたしが積極的に賛同していると思っている。
わたしは無理して合わせている、接待しているのに。
そんな馬鹿馬鹿しい時間をよくもまあ5ヶ月も過ごしたものだ。
我慢するまでの日時(試合日程)が決まっていたから、それまで頑張ろうと思った。
頑張って得たものは、、、

癒しがたい強いトラウマと、試合で得た自分への評価。

トラウマは、ブログでも何度も見苦しく吐いて、日にち薬となり、いずれは弱まるだろう。
自分自身へのダンスの評価は、良い経験となった。客観視できた。
わたしは意外に、ある程度は行けるのだ。
自己評価が低すぎて卑屈になっていたが。

相手の苦手科目は、わたしの好きな科目。
相手の得意科目は、わたしの嫌いな科目。
(苦手な科目が不得意で、好きな科目が得意とは限らないが)
二人は、真逆だった。
ここで面白いのは、わたしが好きな科目は全て良い成績が出て、相手が得意な科目は全て良くなかった。
あんなに練習をたくさんした、相手が得意な科目が評価はダメで、かたや練習をほとんどしなかった相手が不得意な科目がgood 、ものの見事に反対の結果。
わたしが溜飲を下げたのは言うまでもない。
ざまあみろ、の気持ち。

特にトラウマ氏の一番の自信科目が最低の成績だったのには、笑った。
すごく楽しい気分だった。
張り出された結果を見て、「そんなはずはない」と信じられないトラウマ氏。

よく考えると、わたしで持っていたのではなかろうか。
なので、かどうか知らないが、トラウマ氏は続投を希望していた。
だれが続投なんかするものか。
ぜったい、いやだ。

そうか。
トラウマに悩まされた時は、試合の結果を思い出せばいいのだ。
なんでこんなことに気がつかなかったのだろう。
(ひとつには、トラウマ氏が苦手意識のある科目は、練習しないぶっつけ本番なので、へんな欲が入らず、力みすぎる見苦しさがなかったからかも知れない。
つまり、トラウマ氏の苦手意識が生み出す、無欲の成果かも?と、わたしは捉えていたからだ。わたしの成果とは捉えきれない、と考えていた。
が、逆に考えると、トラウマ氏が諦め手を抜いていた苦手科目では、わたしは、もともと好きな科目でもあり、思いっきり伸び伸び踊れて良い結果が出たとも考えられる)

ブログを書いて気持ちを紛らわせようとして、ブログの神様からプレゼントをもらったような気がした。
神様も、トラウマ、トラウマ、と、いい加減、うるさいから、黙らせようという意図かも。

半分、すっきりした。

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まだまだ癒えないトラウマ、そうとう、しつこい。

2018-01-20 | 日々のこと
しつっこく、いきなり、また、トラウマに襲われた。
いま、地下鉄内。
わたしは、役に立たないことでも、よく知っていることがある。
興味に任せて調べたり、深く考えたり感じたりする。
(大事な必要なことは知らないことが多いが)
だんだん溜まって来ると、空気抜きを要するようになる。
それをアウトプットする場所があると、自分が救われる。
ブログだったり、関わりのある人だったり、リアル人だったりする。

トラウマ氏。
一切、聞く耳持たず。聞こうとしない。
わたしの話す内容には興味を示さない。当然、理解も示さない。
それはなにも難しい話でもなんでもない、普通、日常のことであっても。
「へー」とか相槌を打っているつもりらしいが、「へー」は話している真っ最中で、話を聞いていない、聞きたくないのが、実によくわかる。
なので、わたしは自分のことは一切しゃべらず、共通の知人の噂話ばかりをする。
トラウマ氏は、自分の意見や感想を一方的に述べる。
わたしは共鳴も賛同もしない。が、トラウマ氏はお構い無し。
一方的に自分の考えを押し付ける。
わたしの言うことはトラウマ氏は聞く気がないので、そういう状態では、わたしは話さない。
これは、コミュ二ケーションと言うか?
言わない。言うはずがない。

わたしは、全然面白くないが、レッスンや練習の帰りにトラウマ氏とお茶を飲む。
単なる時間つぶし。
せっかく遠いところから出てきたのだから、お茶でも飲んで話でもしないとねー、という、わたしの一種の歩み寄りの努力。
そこそこ時間が潰れて、クールダウンしたら、お互い、東と西に別れる。
いつも味気なく、なんのための会話か、まったく意味のない、無味乾燥なものだった。
わたしは、トラウマ氏に合わせていた。
全然、楽しくもなく、つまらない時間だった。
トラウマ氏がわたしの話に興味がないように、わたしはトラウマ氏の話には、なんの興味もなかった。

なので、わたしらしさは、まったくアウトプットできていない。
わたしの、ほんの一面も、まるで出ていない。全面クローズド。
だから、トラウマ氏はわたしの中身を知らない。
二人の接点がないから、引き出しようがない。
で、しかたなく、噂話に始終する。

やはり、コミュニケーションには行ったり来たりが必要。
もし、一方通行だったとしても、相手に興味がある、とか、自分が知らないことを知っていて面白みを感じ、吸収しようとする、とか、なんらかの接点がないと、会話は成立しない。
こころの交流も成り立たない。
トラウマ氏のダンスや、行動で、とても痛め付けられ、わたしは抵抗する気力が失せていた。
思い出せば思い出すほど、わたしを出さず、引き出されもせず、相手の話にも興味がなく、お互い、全くこころの接点はなかった。
わたしの豊かな内面のほんの1ミリでも出したり、相手がキャッチしたりしていることがあれば、少しは違うかも知れなかった。
トラウマ氏といる時間は、砂漠で時間待ちをしているようなものだった。

精神的に重く辛く暗く痛く、ろくでもない感情ばかりが湧き出て来る。

ああ、よかった。離れられて。
こんなに嬉しいことはない。
膝も嘘のように腫れが引き、痛みが治った。
トラウマ氏と踊っている時は、悪い方の足は浮腫んで、もう片方の足の1.3倍はあった。
もう4ヶ月も経つのに、離別できた喜びをまだひしひし感じ、熱い思いが溢れ出る。
が、嫌な思いは、それ以上で、なかなか、ちょっとやそっとでは消えない。

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三部作 (孫)(弟子不合格)(群れない群れ)

2018-01-19 | 日々のこと
第一部【孫】

今日は涙ぽろぽろ、はらはら、眼は大雨。
歳が行くと老化するが、特に涙腺は著しい。
三頭身孫の学芸会の祖父母向け招待会があった。
自分の孫の出番でもないのに、涙が次々と溢れ出る。
他にもハンカチぐしょぐしょの祖母(若いけど)がいて、アレルギー性鼻炎か風邪かと思っていたが、泣いている?
不思議だなあと感じていたら、見る見るうちに伝染。
涙は伝染するようだ。

親が見るより、祖父母が見るほうが、感涙に咽び泣くと思う。
親はまだ毎日が育児戦争。
よくここまで成長してくれた、と、じーんと来るだろうが、祖父母はまた別の、じーんがある。
ひいおばあちゃんぐらいになると、認知症がかっているので、大勢の中から自分の曽孫を探せず、感情移入できず退屈。
探せたとしても、無表情に近いかも知れない。

作られた大衆娯楽映画より、ずっとよかった。
今も昔も変わらない。まだ競争を知らない無垢な子供たち。
これからの成長や、成長に伴うあれこれを想像すると、評価が真っ白に近い今が、1番良い時期かも知れない。

(ここで終わっておけばよいものを、ここからが長いです。
ここで読むのを終了するのも、おすすめコースです)


第一部 付録【他人】

わたしは、三頭身の学芸会動画を公表する気など、さらさらない。(本番はまだ一週間先なので、撮影は禁止となっているし)
例の、三頭身孫のバレエ発表会動画が頭をかすめた。一人一人(祖母)、感性はこんなに違うのかと改めて強く思った。

自分の孫や、孫と同じ保育園に行っている子供たちをそっと自分のこころの中で応援する人。
かたや、ありとあらゆる自分に関係、関心がある不特定多数の人々に、自分の三頭身孫を見てもらう人。
たんに性格だけではなく、生き様や生い立ち、背景も絡んでくるのかも知れない。

皇室だったとしたら、公表したくなくても公表されてしまう。
嫌なら皇室に入るな、という話だが、後継者はそういう訳にもいかない。
プライベートと、非プライベートの境がつけにくい立場に、もしわたしがいたら、1日と持たない。
そんな立場でもないのにリクエストされてもいないのに、プライベートを思いっきり、さらす人。
やはり、この感覚にはわたしは付いていけない。(付いてこい、とも言われていないが)
人には人の数だけ幸せがある。
(例えば、子供や孫のいる幸せ)大まかなところは同じだが、細かく枝分かれした部分まで同調なんて、土台無理な話だ。
とっとと忘れよう。

子供も孫もいない人、子供はいるけれど、孫のいない人、女の子はいるけど、男の子がいない人、男の子はいるけど、女の子はいない人、、、、キリがない。

(ここで、読み終わるのも、第二のおすすめコースです)


第ニ部【弟子不合格】

今、あまりにも退屈した時に、無理やり読んでいる本がある。
お正月明けに夫の実家から持ち帰った、姑の本「般若心経90の知恵」。
睡眠不足や、不眠症にはもってこいである。
即、眠くなる。

その中に、わたしの考えとは違うことも唱えてあり、「ああ、違うなあ」と自分の考えを確認するのには、良い。
人が言っていることはとりあえず耳を傾けるが、全てを鵜呑みに、まるごとなんの疑いもなく受け入れることは、わたしはできない。
当たってる、当たってない、半分当たってる、などなど、様々なジャッジ、反応をする。
たとえ、お釈迦さまの教えでも、受け入れられないことは、受け入れられない。
全てを受け入れなければ真の仏教徒になれないのであれば、あるいは、修行を積んで受け入れられるようになるまで頑張らなければいけないなら、ちょっと離脱、一時、脱却する。
または、受け入れられない箇所だけ飛ばして、次に行く。
全てを完璧に受け入れようとしたら、あの世に行くまでに時間が足りない。
時間切れで履修科目が足りず、極楽浄土には行けないわけだ。

話が長くなり、読む側は疲れが出てきたと思うが、なぜかまだ続く。
(読み終わり第三のおすすめコースです)


第三部【群れない群れ】

宗教色は完全に抜いたところで、
今の、わたしの考え方、感性とほぼ同じ人が一人いる。
で、つい最近、またもう一人、現れた。
さらに部分的に同じ傾向のある歳下の別の人とは、これまた最近、開かれた文通のようなことをしている。
SNSの自分ページ上での書簡(私信)のやり取り、公開版。
自分宅での、非下品2ちゃんねるトークみたいなもの。
我々は1対1スタンスで、共通点がある。
群れるのが嫌いということだ。
群れないが、お互いの両手をがしっと結び合っているのではなく、片手だけで結ばれている。もう片方の手は、開けておく。自分用に自由が利くように。
別の違う人と、がしっと結ばれそうになれば、五本ある指を追加する。片方の脚や腕でも良い。
そういう人が何人も何人もいて、片側一方を使って個人と繋がっている。
これは群れてはいないが、群れるのが嫌な人が同じ所に、ひしめいている。
これって何?
今時のゆるやかな群れない集団?
群れないのに集団なところが、お一人様ばかり集まる会、みたいなかんじで、パラドックスっぽくて、摩訶不思議で面白い。(面白いと感じるのはわたしだけ?)

群れない新しいかたち、と思っていても、全く新しくなく、皆、もうとっくに取り入れ、実践していることだろう。

さあ、何が言いたい?
自分にそっくりな傾向、嗜好の人がここのところわたしの周りに集まってきていると感じる。
別にわたしを中心にしているわけではなく、個々に繋がっている。

なにを今更?
たんに類は友を呼ぶだけでしょ?と斬られそうだが、その通りだ。
世界中で唯一無二の自分、と自負していたのに、唯一無二が、唯ニ無三、唯三無四、唯四無五、、、と、自分のコピーみたいにいっぱいいることがわかり、しかも群れない主義なのに、一匹狼が1万匹も100万匹もいて、群れている集団より多くなる、この事態。
これは、群れていない、群れ?
お一人様専用、「一人旅の御一行様」団体のようだ。
群を嫌うアンチ集団派が集まり「『アンチ集団』集団」を作る?
矛盾集団?
なんだか、よくわからなくなってきた。

正解を決めず、個々に正しいと認め、やがて正解は実体がなくなり、、、
でもこれって、今の世相や、政治の支持者の特徴、動きだったりするのではないだろうか。
なんたらかんたら、延々、、と続く、、、

最後に思うこと。
長文で、すみません。

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意外な毒吐き展開

2018-01-18 | ブログ
わたしは、なぜ、人をけなす内容を書くと、こんなに閲覧数が急増するのだろう。
けなした相手に伝わったらどうしよう、、、と、小心者、臆病者になって、オドオドしている。
まあ、伝わらないだろう。
たとえ、伝わったとしても、人物特定されることは書いていないので、偶然だということで逃げ切れるかも?
というか、目立つことをすれば、なにかしら反響はあるわけで、なにも良い反響だけとは限らない。
リスクを負うのは想定内のこと。

それにしても、わたしのブログ、嬉しいような嬉しくないような。
美しい内容や、こころに響く素晴らしい内容で読む人の感動を呼ぶのならいざ知らず、人をこき下ろした毒吐きに、多くの人のマイナスのこころを突っついたというのは、いかがなるものか。
毒ネタや、下ネタみたいなものは、健全性を誇るブログ界の、ルール違反協定に抵触するかも知れない。(おおげさ)
といっても、人を傷つける目的のヘイトスピーチは、わたしは最も忌み嫌っている。

まあなんでもいい。
みなさま、毒吐きに、お付き合い、ありがとうございました。

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