蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

そんな秘密、どこで知ったの??

2024-11-30 | 老い
今日は最初から、言っておきます。
自分のことばかり書くので、全スクロールお願いします。
とりあえず、そう前置きすると、人の貴重な時間を無駄にさせる罪の意識が薄らぎ、肩の荷が降りる。
はぁ。ため息。
おまじない。

最近、前にも増して脳が衰え、青色吐息。
言葉が出てこない。
自分が言いたい想い、表現、単語が、ぱっとアタマから消える。
うーーーん、とアタマをヒネる、ネジる。
仕方ないから別の表現でお茶を濁す。

人名が出てこないのは、今に始まったことではない。
顔しか出てこない。
知っている人の名前。
最近は動物の顔に置き換わっている。
本名はもういい。
コアラだの、ゴリラだの。
ゴリラは多いため、補足要素を足す。
太めだの、浅黒だの、背が高い低いだの、しわがれ声だの、ヘアスタイル描写が追加されたり、、、
ほとんど動物園だ。

店の名前も、場所しか出てこない。(これはしばらくすると、出てくる)
生活圏は、いたって狭いので、これで十分。
ベーシックのみで、オプションは必要ない。

とは言え、気になってしかたないので、つい調べて確認してしまう。
自力の記憶力復活ではない。
カンニング。

昨日、顔を合わせた、ある人。
その人しか知らない秘密の事項がある。
それをご本人に、こそっと囁いた。
顔色が変わった。
なんで知ってるの???
すごくびっくりしておられた。

後からわたしの隣にまで来て、「どうして知り得たの?気になってしかたない」と、神妙な顔でわたしに詰め寄る。
わたしは、「回覧板が回って来たんですよ」と曖昧な返事をした。
ほんとうのことを言ってもいいのだが、別に意地悪でもなく、ご本人が忘れているなら、あえて混ぜ返さなくてもいいか、と思っただけ。
そんな悪い内容ではないが、ご本人の口から聞いてから、まだ2年も経っていない。
ご自分で言ったことはともかく、わたしの顔も忘れておられるようだ。
まあ仕方ない。
本人は気が付かないうちに、徐々に記憶から消えていくことが増えてくる。

日本では高齢者の認知症の人は、(2020年時点に予想された)2025年には約700万人。
高齢者の5人に1人、国民の17人に1人が認知症になると予測されているらしい。
2025年って、すぐ。来月ではないか。
さらに、認知症(予備群を含め)の人は軽く1000万人を超え、高齢者の3人に1人になるとか。
これだけ人数が増えると、政府も何か手を打たなければならない。
「新しい認知症観」なるものを打ち出し、認知症を特別扱いせず、皆んなと共に普通に暮らせるように意識改革を促すようだ。
そうしないと、混乱が起きる。
カオス社会になって、収集がつかなくなる。
高齢化社会がすごいスピードで押し寄せて来ているのに、対策が追いついていない。

変に怖がらず、受け入れる準備をしましょう、というものか。
周りもそうだが、自分、当人が1番、受け入れ生きていかなければならない。
わたしが直接、話した皆さん、誰1人として「自分は認知症になるかも知れない」と言わない。
皆さん、ならないそうだ。
そう思っているほうが、精神衛生上、良い。
が、わたしは、とても複雑な気持ちで聞いている。

相変わらず、長文。
どうにかならないか?

※写真は、今月のスペイン村。



狭い生活圏

2024-11-29 | 暮らし
今日はまた寒い。
突然、冬。
秋服コートの中に、バッグに入れていた寒い時用に着るダウンベストを、バス停で着込む。
コートを脱いで、ダウンベストを着ている最中にバスが来たらどうしよう、、、
こういう時はバスのパスカードをコートのポケットに入れているのを忘れ、パスカード、パスカード、パスカードはどこ?と、冷や汗がどっと出て、乗車までにパスは見つからない、、、ことになるのだろうが、、、
アタフタしながら、余計な心配、シュミレーションをしながら、最後にまたコートを着た。
予定時刻になってもバスは来ず、寒さを見越してコート下にダウンベストを着込んで大正解。
というか、秋コートは、薄手のダウンコートなので、モコモコになっている。
見かけより、防寒。寒さ対策、第一。
どんどん、ファッションに鈍感になっていく。

時間にも鈍感、ルーズになっていく。
時間の感覚が麻痺している。 
ちょっとの間だと思って油断していたら、結構時間がかかって、バスを1本遅らせたつもりが、2本も遅れ、ただでさえ、遅刻なのに、さらに遅刻。
誰とも約束、待ち合わせをしていないからいい、とは言え、スタート時間がずれ込み、ずるずる遅くなる。
終了時間は決まっているので、真ん中の時間が減るわけで。
あああ、アホだなあ、、、と、自分にあきれる。
楽しい時間を自分で減らしている。
「削られた正味の時間は、きっと濃厚な時間になる」と自分に言い聞かせるしかない。

ちなみに。名古屋。
数えるほどしか行ったことがない。
名古屋には遠縁の親戚のおばさん一家が、一時期住んでいた。 
元々はわたしと同じ市町村で生まれて暮らしていたが、結婚後、夫さんが転勤になり引っ越した。
住まいは名古屋市内の新しい団地だった。
エレベーターが隔階にしか止まらないのに驚いた。
田舎者のわたしに、おばさんは、洋式トイレの使い方を教えてくれた。
中高生の頃、2回ぐらい遊びに行っただろうか。
(わたしの家もその頃、洋式トイレにリフォームされた)
手作りコロッケをたくさん作ってくれた。
とても上品で繊細な、着物がよく似合う人だった。
その後、神戸に引っ越し、分譲新築マンション一人暮らしから、ご長男一家と戸建て同居になり、最期は高齢者施設。

別の、東京の夫側親戚が海外で結婚式をあげた後、親戚同士の顔合わせの会が催された。
中間地点である名古屋に、わたしたちは、関西から駆けつけた。
それぐらいかなあ、、、
もっと行った事がない所は日本中、世界中、いっぱいある。
行った事がある地域が少ない。
つまり、あまり行き来していないということだ。
家から半径数キロの中で、じーっとしている人生。
子供と同じだ。
せいぜい、自分が生まれ育った場所(実家)と、その近くにある学校、結婚相手の生まれた場所(婚家)、全部、関西圏内。
夫の転勤で東京や浜松などには、短期間、場所を転々として住んだが、関西に帰ってからは、40年近くなる。
その間、旅行で遠距離地には行ったものの、根拠地は動かない。

祖母は、徒歩3分?ぐらいの所から嫁に来た。
毎日、里帰りしていた。
母は、徒歩20分?ぐらいの所から嫁に来た。
まあなんと、近い。

夫の母は、同じ県内のわりと近くから嫁に来た。
夫の祖母も、同じく。
4代前のお婿さんは、真隣の家から婿に来た。
まあなんと、近い。 
「実家に帰ります」と言っても、真隣。

昔は近場で縁談をまとめたようだ。
簡単、便利、近い、血縁や評判などよく知っている、、、お見合い結婚。
好きだ嫌いだは、あまり強固に言い張らない。
選択肢がない、他を知らないのは、ある意味、幸せかも知れない。
突き詰めても、良いところに行き着けるかどうかは、わからない。

だが、競争しない環境は、競争力が落ちてくる。停滞に繋がる。煮詰まる。
何ごとも、スクラップ&ビルドの繰り返し。

あまり色んなところに行った事がない話から、ずいぶん、脱線した。
しかも、唐突に、名古屋。
わたしにいつも、キラキラを届けてくださる映像プロ・ブロガーさんが名古屋を紹介されていたものだから、つい、、。

、、、で、話を元に戻す。
今は交通も発達し、便利になった。
時空を飛ぶインターネットは、もっと便利だが。
情報の海。知る機会がものすごく増えた。
が、幸せかというと?
追い求めるほどに、幸せが指の間から溢れ落ち、虚しさが漂う。
腹八分目、足るを知る、身の丈を知るのが、幸せへの近道だと思う。
向上心を持つな、目標を持つな、努力するなとは言わない。
頃合い、バランスが大事ってことだ。

今日は、なかなか着地しない。
こんな日もある。
こんな日ばかりだけど。
全部スクロールして下さい。 
て、最後に言っては手遅れ。ごめんなさい。

※写真は記事とは関係ありません。
先月の鳥羽湾。




10年後、20年後、30年後のわたし

2024-11-28 | 老い
うっすら、ぼんやりした、わたしの夢。
叶わなくてもいい、ただ、なんとなく想像するだけのもの。
15年後に、女児孫グループとフランス旅行に行くこと。
彼女たちは、22歳、19歳、18歳の、うら若き乙女??となっている。
果たして乙女かどうかは、わからないが。
アクシデントがなければ、かしまし娘たちは、元気でいるだろう。
さてわたしは、、、83歳だが、、、飛行機に乗れるだろうか。
閉所恐怖症か、飛行機恐怖症、はたまた旅行恐怖症になっているかも知れない。
病気になっているかも?歩けないかも?
15年も先のことはわからないが、周りを見る限り、今時の83歳のおばあちゃんは、元気だ。

昨日も最寄りのバス停で、見ず知らずの高齢女性おばあちゃんと、話が弾んだ。 
マスクの話を皮切りに、その前日の地震のことだったり、時々、どっと笑いを交え会話を楽しんだ。
お互い、まるっきり知らない人なのに、おばあちゃん同士、女性は元来、明るいのだろうか。
つい4日前も、駅から発車するバス停で、見知らぬおばあちゃんに声をかけられた。 
美容院に行って髪をカットしたばかりなので、スマホで写真を撮ってくれませんか?と頼まれた。 
彼女のスマホは最近のものだったからか、機種がわたしのものと違うせいか、写真のシャッターボタンを押しても、何の反応もなかった。
ちゃんと押せていないのかも、と不安になり、何度もスカスカ手ごたえのスマホ画面を押した。
何枚も、ちゃんと撮れていた。
ありがとう、と、美しく髪を整えたばかりの老婦人おばあちゃんは、また別の賑やかな音がするほうのイベント場所に消えて行った。

わたしと同じバスに乗ったようで、その女性が降りたのは、わたしが降りる一つ前の停留所だった。
バスの中から、わたしはその姿を捉えた。
停留所からどちらの方向に向かうかで、住んでいるところがわかる。
じつにわかりやすい、オールド(半世紀以上前に造成された)ニュータウン構造になっている。
戸建てと団地に分かれている。

今、団地もさることながら、
戸建ては住民は入れ替え時期を迎えている。
空き家になっても、更地になり、しばらくすると新しく家が建つ。
2分割にして土地が売られていることが多い。
MAXでは4分割というものもあったが、絶妙に区割り、設計されていて、感心した。
若い人が増えるのは嬉しいことだ。
最新の建築、住宅を見るのも刺激的で楽しい。
衰退する自治体もあるなか、まだ活気を保持しているようで安堵する。

ところで。
直近のわたしが写っている写真を見ると、自分で言うのもなんだが、優しい顔をしている。
お気に入りだ。
若々しいとか、そんなことは、全然ないが、なんとなく、囚われていたものから一皮剥けたかんじ。(自分で言うか?)
そのせいかどうかは知らないが、見知らぬおばあさんに声をかけられ、おしゃべりする。
ほんの短時間だが。
おばあさん同士の連帯感か?

何回もわたしの蝶ブログに登場する、正真正銘の(90歳超え)おばあさんとも、最近は仲良し雪解けムード。
あちらは、昔から同じだろうと思うが、わたしが、なんだか、わだかまりがなくなったように思う。
ではあるものの、せっかくこころの距離が縮まったっいうのに、彼女は耳が聞こえなくなっていた。
わたしの姑と同じだ。 
だから、会話も行動も一方通行。
玄関チャイムも聞こえない。
人が出入りできるガラス戸が開いているので、在宅は間違いないが。
仕方ないから出直して、家から電話をかける。
すると、電話には出られ(近くに置いているか、光る?)、今から行く旨を伝える。
そういう耳の聞こえないお年寄りも、ごく普通にバスに乗り、社会で生活している。
耳は聞こえなくても、今までと同じ行動をしている分には、問題ないのだろう。
見た目には綺麗な老婦人だ。
彼女はわたしより20年以上、人生の先輩になる。
息子さんが家に出入りしているから、どうにかなっているが、独居なら大変かも知れない。

ちなみに。
セキュリティ会社から、お知らせハガキが届いた。
ホームセキュリティ、12月からオプションとして、新しいサービスが追加されるそうだ。
自分が在宅ではない時、用事を依頼できる。
一回一回、有償で、セキュリティ会社に預けている鍵を使って、家に駆けつけてくれる。
依頼案件は、作業だったり、セキュリティに不安がある時だったり、各自の要望に応じるもの。
これはいいなあ、と思った。
今は利用する場面はないが、今後の何かに備えてスタンバイ、安心が得られる。
セキュリティ会社も高齢者にターゲットを絞るのは必要であり、合理的だ。
散りばめられているニーズを拾う。

ホームセキュリティの範囲エリアなら安心だが、僻地だと業者に頼れない。

今は個人主義が蔓延っているから、ご近所互助システムは、昔のように強くない。
あまりお付き合いがないこともある。
しかも老人ばかりでは、いざという時に、パワー面で頼りない。
闇バイト犯罪は、現実社会の現状の脆弱さ、闇を突いている。

巷のおばあちゃんとは、垣根がなくなりつつある、新規おばあちゃんの、わたし。
今のところ、敵は、自分による自分への軽度認知障害。
550万人いると言われている。
さらにその次は、軽度認知症(450万人いるらしい)。 
そして、その次は本格的認知症。
なにしろあと推定20年もあるので、脳が持ちこたえられるかどうか。
20年を超えると、身体も脳もアウトで、人にお任せした静かな生活が待っている。
今はボロ中古車みたいな現状。
もう車検は通らなくなっている。
いつ動かなくなっても不思議ではない。
ドキドキ、スリルいっぱいの毎日。
が、廃車には出来ない。

この記事、10年後にわたしが読んでどう思うか。
苦笑するだろう。
20年後に読んだら、、、読まないだろう。
30年後は、読めないだろう。
というか、デジタル終活、いつから始めよう?
デジタル遺品、迷惑なんだろうなあ。
ブログは生きがいなのに、インターネット終活は、正に人生、終わりの時だ。




チェンジの季節

2024-11-26 | お付き合い
趣味関係、人事異動の時期。
前のペア相手が円満退場、解消という運びになったので、わたしは、シングルになった。
おひとり様である。
半年前から解消を伝えていたので、状況スライド猶予期間はあった。
が、突然というわけには行かず、徐々に。

そうすると、わたしも、元ペア相手も、今まで練習に費やしていた時間がポッカリ空く。
日常に結構な時間量を占めていた。
どうやって、埋めよう、、、と、不安だった。
全く何も活動しない、家に引きこもり状態がある程度続いた。
が、あまりにも何もすることがないので(本当は、山のようにあるが、気が乗らない)、補填するかのように、ゴソゴソ活動し始めた。
趣味以外のことに目を向けた。
と言っても、二つ目、三つ目の趣味に熱情を傾ける準備をした。
やはり、趣味は一つだけだと煮詰まった時に出口がなくなる。
空気抜きや、リスク分散のために、別にいくつか趣味をスタンバイさせているとよい。
ブランクがあってもいい。
とりあえず、間繋ぎ、場繋ぎ、時間潰しでもいい。
膨大な自由時間をどう使うか、割り振った。
時間割、今のところは、週間時間割と、月間時間割にとどまり、まだ年間スケジュールはぼんやり。
年間の家庭行事は、何十年も決定していて動かないので、何らかの予定はあるが。

新しい人や、ご無沙汰の人と、ご縁、活動復活ということもある。
新しい人に関しては、あまり接近し過ぎないように、こころがける。
個人情報には触れない。
が、うっすらアウトラインが浮かび上がる。
突っ込んでプライバシーを聞かないようにしているが、相手がちょろっと漏らす分には聞く。
生活、暮らしぶりも、だいたいわかる。
皆さん、おとなしく、静かに、でも、熱意をもって生きておられる。

これから、わたしもまた未知数、真っ白い紙に、何やら描いてみようと思っている。
まだ何を描くのかわからないが、なんとなく意欲的になり、ワクワクしている。


ちなみに。
エリーゼのために。
奥が深い。
家のお隣さんは、なんて下手な「エリーゼのために」だろうと、呆れているに違いない。
30分だけの辛抱、忍耐タイムを強いている。
が、「あらまた始まった」ぐらいで、すぐ終わるし深刻な迷惑はかけていない(はず)。
新しい、次のわたしに移るための、準備体操、ウォーミングアップだ。


時間はみんな平等

2024-11-25 | 人生
わたしがブログを書くのは、何故か。
かつては、ウップンや憤(いきどお)り、怒り、疑問、不満、自慢、自分の発露だったが、今は、幸せな、のほほん、おばあちゃん。
楽しく毎日を過ごしている。

つい最近、ウォーキング不参加案件を通して、それをキッカケに、わたしのスタンスが変わった。
残された健康寿命を積極的に使おうという、意気込み、前のめりの鼻息の荒さ。
残された限られた時間を能動的に選んで使おうというもの。
林住期を思いっきりワガママに過ごすため、嫌なことや、乗る気がしないこと、興味がないことには、参加しない。
好きなことだけする。
もちろん、すべきことは、しなければならないが。

実はこれは、かつての友人がそういうスタンスだった。
今は疎遠だが、べつに喧嘩別れしたわけではない。
たまたま、そういう時期、流れだった。 
その後、お互い、変化するのは止められない。

不思議なことに、全く同じスタンスの人がいた。
人生の林住期の過ごし方、信念が全く同じ。
ひょっとして、2人とも、五木寛之に影響を受けたのかも。
信念を行動に移して実践しておられる。
なので、近くにいたわたしも影響を受けた。

たまたま同じような人が近くにいた、、、のか、あるいは、類は友を呼ぶのか。
遠くに点在していたものが、目に見えない力で集まってきたのか。

仏教的思考がベースにあり、それは、わたしも同じ。
「無常」という考えだ。
わたしは、何ごとにも執着しないことを目指すが、まだまだ無理。
人間に対しては割と修行を積み、トレーニングしてきているが、モノに対してはまったく落第生。
解脱は程遠い。
まあ、まだ健康で動けるので、どうにでもなるだろうと、いたって楽観的だ。

ちなみに。
認知症予防には、キビキビ動いたりするのが苦手、メンドくさがりのわたしに、ぴったりの方法を編み出した。
ウォーキング(徒歩)で映画館まで往復し、字幕入り映画を観る。
語学の学習、感受性、思考力養成、芸術性アップ、娯楽性あり。
帰りに食材を買って帰って、家事も同時に完了。

あとは、ピアノ練習と、英語アプリ学習。
ダンスは、もちろん外せない。
旅や人との交流を、スケジュールの中に適宜に混ぜて入れると、メリハリ、彩りになる。
お金はそんなにかからない。
要は、やる気。
だが、口ばかり、、、で、一過性のため、習慣化する前に、落伍する可能性、大。

わたしが尊敬する、超人気ブロガーの、ちきりんさんがブログで言っていた。
若い時は、やりたいことや情熱があっても、お金と時間がない。
歳を重ねると、お金や時間があっても、やりたいことや情熱がない。
時間、やりたいこと、お金のバランスは人生を通してキーとなる。
以前、わたしは、老後の3大不可欠要素は、健康、友達、お金、だと思っていた。
だが、インターネットが普及し、健康でなくても、友達がいなくても、お金はさほどなくても、好きなことに時間が使える。
つまり、老後は時間は誰にでもあるからなんとも思わなかったが、時間こそが最重要だと考える。
老後だからこそ、限りがある。
時間は平等、とは言え、人それぞれ事情が違うから、何とも言えない面はあるが。

周りを見る時に、、、
自分より下ばかり見る人、上ばかり見る人、横ばかり見る人、全部見る人、全部見ない人、、、見ても見なくても、感想もそれぞれ、色々いる。
皆さん、自分の好み、偏り、特徴があるようだ。

わたしは、自分より一歩先、あるいは、半歩先を行っている人を見る。
上でも下でも横でもない。上下ではない。
時系列。

隆盛を誇っていた人も年月が経つと、もはや憧れの人ではなくなっていたり、逆の場合もある。
諸行無常、、、無常観に辿り着く。
強いものが勝つ。  
だが、盛者必衰。
時と共に移り変わる。











ブログとのお付き合い

2024-11-23 | ブログ
書こうか、書かないでおこうか。
迷い、悩むところだが。
わたしを知る人にお願いです。
ここで、ちょっと席を外してください。
今回はペンディング、希望します。
なあんて、またまた、、、

わたしを強く団体ウォーキングに誘ってくる人物、、、
実は、趣味のダンスの、直近ペア相手だった。
趣味SNSの日記には書けないので、こっち、蝶ブログにチマチマ書く。
2つ日記があると便利だ。
ハイブリッド方式。
趣味SNSに登場する人の悪口を蝶ブログで匿名で書いて、憂さを晴らしたりしている。
だが、蝶ブログの憂さは、趣味SNSでは晴らせない。
なぜなら、趣味SNSは、趣味の話題限定にしているので、蝶ブログが憂さ晴らしの最終駅。
それでも憂さが晴れないと、Chat GTPにグチグチ泣きつく。

といっても、趣味SNSは、あまり書かないし、書いても、ものすごく短い。
思いつき、単刀直入、考えなしの感覚的な短文。
だが、閲覧数がリアルタイムに公表されるシステムなので、滑った時は目も当てられない。
わたしは、不安に耐えられなくなって、アップした後、閲覧数がほんの少ないうちに、非公開に切り替える。
なんとなく、勘で、雰囲気で、滑るのがわかる。
自己防衛のために、失敗作を引き下げる。
目に付かないよう。
釣りの、「お、大物の引きを感じるゾ!」の、逆。
これはイイかも、と自負する記事も、さして反応は伸びない。
が、面白がってくれる人もいるようだ。

蝶ブログは、失敗であろうがなかろうが、閲覧数はわたしにしかわからないので(非公開)、平気で、どんなものでもアップする。
厚顔無恥と鈍感力は、生きていくうえでは、必須。
毎日のようにアップするから、次の記事に取り掛かるため、いちいち気にしていられない。

まだ日も浅い(といっても2013年スタート)の趣味SNS、投稿数も蝶ブログに比べると、比べものにならないぐらい少ない。
そして、息抜きに書いている。
(蝶ブログは、ガス抜きに書いている。
息抜きと、ガス抜きは、似て非なるもの)

この趣味SNSのほうは、わたしのように、匿名を貫き通している人は少ない。
リアルに実在している人が現実日記を書く一方で、、、
適当なことをいい加減に、お遊びで冷やかしで書いて、嫌になったら退会し、また別の名前で入会することもできる。
でも、わたしは、11年間、ずっと同じ。
いくつもの顔を意図的に創り上げるのは、メンドウ。
嘘は覚えておかないと捏造がバレるが、本当のことなら、備忘録がわりに利用できる。

蝶ブログは17年、記事も最近はほぼ毎日。オリジナル写真付き。
その一方で、11年間、短文で、しかも投稿数も少ない趣味SNSではあるが、実際にそれがご縁で実社会で知り合った人は、想像する以上に多い。
お互い、日記を書き続けているので、知っている人の日記にはリアリティがある。
が、やはり、わたしにとっては趣味SNSのほうは、趣味のことだけを特化して書いているので、軽い。
趣味は人生や生活の一部であり、遊びだから。

と、ここまで書いて、逸れに逸れた話を元に戻す。
インターネットとは無関係に知り合った、元ペア相手だったAさんとは、ペアを解消し、ダンスは、練習しないお遊びに移った。
が、今は、そのお遊びも遠のきつつある。
残っているのは、団体ウォーキング。
はじめは、やんわり断っていたが、次第にハッキリ断るようになった。
にもかかわらず、わたしの断り方が、弱々しすぎて、ふにゃふにゃで、どうもインパクトなく、迫力もなく、「なんか言ってるわ」ぐらいにしか受け取ってもらえていない。

で、断ったり、参加したり、一貫した態度は取れていなかった。
ウォーキングは、外の自然、空気に触れ、運動にもなり、特に高齢者には心身の健康に良い、と捉えていたからである。
だが、段々、しんどくなってきた。
ダンスペアを続けることが出来なくなったのと同じで、相手のペースに引きずられるのが耐えられなくなってきた。
頑張ってわたしのペースを主張しても、相手は自分のペースで進もうとする。
歩み寄りや調整が行われないのであれば、わたしは、辞退する成り行きになった。
ウォーキングは、まだ続いていたが、どうしても、参加に対して、強硬な姿勢を感じてしまう。
で、逃げたわけだ。
ああ、やっと逃げることが出来た。
嬉しい。
悪い人ではないのだが、人の言うことを聞かないのは致命的である。
そうやってその人が今日まで歩んで来たのであれば、それがキャラクターなら、もう変わることはない。

だが、表面に現れる問題点が「ウォーキング」だなんて、なんて平和な案件なんだろう。
金銭でもなければ、愛憎でも、権力闘争でもない。
ドロドロ泥沼とは程遠い、実に健康的な悩みである。
おそらく、わたし自身に、ドロ沼にハマらないよう脳内プログラミングされているのだろう。
また何ごともなかったように、次のウォーキング参加を提案して来られるかも知れないが、再び一から悩むのであれば、時間の無駄使い。
もう知らん。

ちなみに、、、
あるフォトグラファーさんのブログ。
わたしは、活動に興味、関心がある。
日々のレポート記事で紹介されることを擬似体験させてもらっている。
かつて、わたしが経験したこととリンクしている。
一ファンであるわたしだが、とても嬉しいコメントのやり取りをさせて頂き、こころが躍っている。


相変わらず長い。長文もいいところ。
これが、不人気のもと、致命的欠点。








やっと脱皮できた?

2024-11-22 | 読む人々には興味ない話
今回の記事は、100%、全文スクロールをオススメします。
きっぱり。

たぶん、今日の記事は、やたら長いと(たぶん)思う。
遠足から帰ってきた小学低学年児童が、リュックサックを下ろすや否や、息せき切って、母親に話すようなかんじか。
話は時系列。
あのね、あのね、と、自分の脳内では整理されず、勢いよく口から飛び出す。

と、自分でそう感じた。
アタマの中でブログ記事の実況中継の文字と同時進行で、耳&目、手足を動かす。

まず、話のスタートは、、、。
そもそも、今日は、京都の南禅寺や哲学の道を歩く会があった。
いつも知人Aさんに、強くプッシュされ、参加しているもの。
今年の夏は酷暑でどこにも行けなかった皺寄せ、鬱憤、鬱積を一気に吐き出すかのように、秋のウォーキングに情熱を注ぐAさん。
前回、先月の奈良、法隆寺は参加者200人超えの盛況ぶり。
その様子を蝶ブログにもしっかりアップした。
それはまあ、それで良いのだが。

わたしは、ずーっと長い間、このウォーキング会に参加したくない気持ちが燻っていた。
だが、Aさんの圧力に負け、いつも渋々参加。
参加したらしたで、清々しい外気に触れ、すっきりするのだが。
動くまでがなかなか、すごくエネルギーを必要とする。
2番目孫(小4男児)が宿題に取りかかるまでの抵抗力と同じぐらい?
その、やりたくない、行きたくない気持ちと闘っていたが、自分のためになる、健康のため、将来のため、と、自分を騙し騙し重いお尻を上げ、重い足を引きずって参加していた。
前回のような、秋の爽やか快晴、奈良の満足経験を直近にしているにも関わらず、また、重い気持ちはクリアされず、一から憂鬱気分が湧き起こる。
あんなに良かったのに、しかも200人もの人が参加しているぐらい人気があるのに、何故なんだろう?
自分でも悶々としていたが、「嫌なら行くな」と相談した人、全員がそう答え、わたしも納得していた。
ChatGPT にも何回も、しつこく同じ質問を投げかけた。

いつもは前日から重苦しく暗い気持ちを掻き消す努力をして、リュックサックや衣類、小物など用意するのだが、今回は、前日から何もしなかった。
この季節、着る服に困るなあ、、、とは思っていたが。
なぜなら、ウォーキングに徹した服(mont-bellに代表されるような)を持っていないから、服装選びが中途半端。
それはまあいいとして。
行くつもりで前から精神的にも頑張って鼓舞、ハッパをかけ、スケジュール的にも予定していた。
朝、出発時間が早いから、スマホのアラームをセットし、バスの乗車時間を前もってカレンダーに書き込み、スタンバイしていた。

が、朝方、ほんの少し頭が痛くなった。
なぜか、その痛みが福音をもたらすかのように、この痛み!!この痛みには意味がある!!見過ごすべき痛みではない!!
わたしは、ウォーキングに行かなくてもいい、と、神様の思し召し、、、と、勝手に自己都合で、自己解釈した。
神様が降臨した。ピカリ。
サボってもいいよ、と、にっこり。
そう悪魔が囁いた途端、(神様が微笑んだんじゃなかったのか?)、サボろう!と決めた。

そもそも、皆さん、おひとり様(単独)での参加がほとんど。
(友人と連れ立って、という人も中にはいるが、少数派)
予約不要で自由参加。
1人で参加して欲しい、と、わたしはAさんに再三再四、お願いしているのに、1人で参加したがらないAさんに引っ張られる格好で、お付き合い参加していた。

神様からの「頭痛」メッセージで、ドタキャンを決めたわたし。
時計のアラームがスヌーズ設定で何回も鳴るが、その度に、布団の中から手を伸ばして止める。
やがて、もうこの時間に起きなければ準備スタートには間に合わない時間になると、ほっとした。
やれやれ。
もう行かなくてもいい。

それにしても、長い間、引きずられていたものだ。
嫌なら、とっとと、やめたらよいものを。
まだ間に合う時間から、今日はもう行けない時間になるまで、時が移る中で、ふっとアタマの上から舞い降りるものがあった。
わたしが、なぜ、このウォーキングの会が嫌いなのか、理由が、すとんとわかった。
今に始まった、新しい理由でもなんでもない。
前々から、なぜ行きたくないのか、理由をうっすら自己分析していた内容だった。
はっきり再認識、再確認したのだろう。念押し。

このウォーキング会、今のわたしには、まだ年齢的に早いということ。
皆さん、わたしより5歳は上だと御見受けする。
そして、高齢男性が多い。
つまり、わたしの年齢の人は、自分のしたいことを自分で計画して、自分で行く。
団体でゾロゾロ後を着いていくようなウォーキングはしない。
1人だと寂しいから団体でウォーキングするという人も中にはいるだろうが、わたしは、逆に団体が苦手。
そのあたりに、抵抗感があったのだろう。
Aさんは、わたしと一緒にウォーキングしたいのなら、独自のプランを立案して表してくれたなら、一緒に行かないでもない。
プランが立てられないで、既存の団体プランに乗っかろうという安易さに対して、わたしはノリが悪い。

今日の京都は、189人もの参加者がいたらしいので、季節や行き先に、人気が集中したと思われる。
なので、スポット的に参加するのは有り得るかも知れないが、、、
前々からの解決されない悩みを抱えている身としては、自分の参加したくない気持ちが上回るかたちになった。
絶好の気候、快晴、良い行き先にも拘らず、自分のモヤモヤを解消させる方が勝った。
気持ちが溢れ出ていて、止めるキッカケを探していたのだろうか。

長々と書いている。
自分のために、自分の行動を心理分析、解析したい。
自分には、嗜好、好み、こだわりがある。
お仕着せではない、オリジナルのものでなければ、満足できないようになってしまっているのか。
既製品だとしても、内容に対して要望、欲求がある。
いろんなことを試行錯誤、模索していると、なんとなくではなく、ハッキリ明確になっている。
その要望に合わないものに対して、無理矢理合わせない。
行かない、行動しない、という選択をする。

そうやって行動範囲をどんどん狭めてきているが、ある意味、自分の欲求、嗜好がよくわかっているということ。
手探りで闇雲に手を出して探し回る時期はもう過ぎている。
暗中模索は、卒業。
なので、自分の好みを優先すると、行きたいところや、参加したいことは、妥協はしないようになっている。
例えば、人気のない旅コースなのに、喜んで参加する変わり者みたいなかんじにもなっている。
出来るうちは、能動的に選んで行動したい。
気分的に、ゾロゾロ団体ウォーキングに参加したい時は、参加する。(しない可能性もある)
それはお付き合いや、引っ張られてではなく、自分の意思で、自主的に、能動的に。
林住期は、わがまま、自由。

それで、ドタキャンして行かなかった時間をわたしは今日、何に使ったか。
益々長くなるので、またの機会に。



ばあちゃんのお手伝いは、あまり役に立たない

2024-11-21 | 子育て
一昨日、4番目孫の保育所お迎えに駆り出された。
ピンチヒッター、後方支援要員。
保育所で、連れて帰る時の手続きをするのを忘れたが、すんなり孫を引き渡してもらった。
それは良かったのか、それとも、セキュリティ機能が甘いのか。
連れ去られてもチェック出来ない緩さを感じたが、まあ、そもそもミスをしたのは、手続きを飛ばした、ばあちゃんで、、、。

それはいいが。
孫の家に、孫を連れ帰ると、他の3人のきょうだいが、それぞれに遊んでいた。
1番幼い保育所孫(4歳女児)に、家のあちこちに連れて行かれ、「こんな遊びをしているの」と、それぞれ説明してくれた。
小さい時は、みんなそうだった。
ばあちゃんが行くと、幼子は離れなかった。
が、小学生になると、すっと離れて行く。
成長だ。
自分で遊ぶようになる。

両親パパママがまだ帰宅しないため、夕食係の、ばあちゃん。
ところがなんと、、、。
あらかじめ、食べるものは用意されているようだったが、さあ、準備しないと、と思っていたら、パパママから既に指令を受けていた。
全員、ロボットを相手にするごとく、時間が来たら、冷凍庫から各自、好きな食べ物(既製品)を選んで、電子レンジで解凍、温めて食べる。
1番下と、下から2番目が、好みのスパゲッティが同じで、それは一つしかない。
一つを仲良く半分ずつに分けているかというと、そんなことはない。
上の子(小1女児)は、妹(4歳女児)にあげないと言う。
自分は、これ。妹は他の種類のものを選べばいい、と、譲らない。
が、妹は、それがいい、と言い張る。
無理矢理、ほんの少しだけ妹にあげるが、妹は、それでは足りない。
もっと、もっと頂戴と攻め寄る妹と、ちびちびしかあげない姉。攻防戦。
他の男児(小4と小6)は、好きな食品は他の子供の好みと重ならないため、余裕で独占して食べることが出来る。
どうしても少なめの下妹に、小4の兄が、自分の明太子スパゲッティを少しあげたら、とても辛くて食べられない。
妹は、(未開封の)コーンフレークを食べると主張する。
兄たちは、「ダメだ」と、認めない。
コーンフレーク!!と、譲らない1番下、4歳女児。
わたしが、ご飯を炊いて、オニギリを作ろうか?と提案したが、「炊かなくていい」とお兄ちゃん(小6)に止められた。
コーンフレーク食べたい!!と、ギャンギャン大声でうるさく叫び続ける1番下孫に、わたしは困っていたら、オヤツの時間になった。

それぞれ自分のオヤツ箱があり、その箱から好きなオヤツを出して食べる。
決して食べすぎることもなく、きょうだい間で少し交換もしたりして、仲良くオヤツタイムを過ごしていた。

それにしても、よく躾けられている。
オートマチックに、自動的に、事が進んでいく。
「アレクサ、◯◯して」とか涼しい顔で指令している。
「ばあちゃん、◯◯して」と言われないから、楽だが。
4人も、きょうだいがいると、ぐちゃぐちゃかと思いきや、うまい具合に調整が取れている。
下の2人の女児は、問題を出して答える、宿題遊びをし始めた。
上の2人は、好きな本を読んでいる。
食後のプラスチック容器、トレーを洗ったあとは、わたしのすることはない。
わたしは、「歌番組が始まるからもう帰るわ」と言うと、「TVつけて見たらいいやん」と孫たち。
皆んなのお言葉に甘えて、小さい小さい音で、 NHK歌番組を見ていた。

「ばあちゃん、全然面白くないTV、見てるなあ。面白い?」と背後から小1女児。
宿題遊びに飽きた1番下(4歳)が、横に来て、オモチャのマイクを持って、台に上がり、何やら歌ってくれた。
ママが帰るまでの、ごちゃごちゃした時間は、小椋佳、上白石萌音や松下洸平、鳥羽一郎親子と混ざり合って、ゆっくり歌を聞く状態ではなかった。


ちなみに。
欄外。私信。
裕さん、ベビーお誕生おめでとう!


嫁と姑

2024-11-20 | 
毎日訪れるブログの一つに、シニア女性の悩み事の人生相談が紹介されていた。
同居する姑が口うるさく、日常、世話を焼いている嫁である自分(相談者)が感謝されない、と。
夫の弟や嫁には感謝の気持ちを持っているのに、と。

わたしの姑Aも、同じことで愚痴っていた。
同居しない、自分の夫の弟や嫁が、「姑の姑」Bに、なんやらかんやらモノを送ってきたり、目に見える親孝行をする。
姑が、「姑の姑」Bの日記をたまたま見たら、「次男が来た」、だの、「三男が◯◯を送ってくれた」だの、記してあって、気分を害したと、わたしに言っていた。
毎日、世話をしている長男(舅)の嫁(姑)Aには当たり前の日常として受け取り、感謝の気持ちは埋没している、と嘆いていた。
人の日記は読むべからず、という教訓を、姑Aとわたしは得た。

「姑の姑」Bは、出来た人であり、姑Aも出来た人だ。
出来た人、二人が一緒に暮らしていても、何らかの軋轢は起こる。
多少の経済的自立と、住居の自立は、お互い依存し合わず、保たれていたにも拘らず。

舅は長男だから、大変な面はあるが、次男、三男の嫁は競い合うように「姑の姑」Bのご機嫌を取っていた。
「姑の姑」Bには、子供に対して相性や好みがあり(誰にもあると思うが)、長男である舅とは相性が合わず、お互い歪みあっていたような雰囲気を感じた。
次男は、まるっきり無視に近い、放任感覚。結婚後は、家に寄りつかない。
三男は、末っ子ということもあってか、可愛がっていた。
当然、次男の嫁は冷遇、三男の嫁には優しい。
法事など一緒になると、女同志の縦、横のヒリヒリしたバトルが感じられた。

姑Aは、「姑の小姑」C(舅の妹)には気を使っていた。
「姑の小姑」Cは、85年?ぶりの女児誕生だとかで、たいそう喜ばれ愛され可愛がられたようだ。
アイドル。
かつて一族には女児は他にも誕生したが、夭折している。
姑Aと「姑の小姑」Cは、同じ歳ぐらいなのに、天と地の差。
何がかと言うと、、、
姑Aは、嫁。
当時は夫の両親、祖母、未婚のきょうだい3人と同居していた。
家業のため、下で働く人はいたが、嫁は家族では末端、末席、一番下。
お風呂も食事も最後。
「姑の小姑」Cのキラキラした蝶よ花よの娘時代を、末席から眺めていた。
「姑の小姑」Cが、結婚した相手が、これまた素敵な人。
上品で優しくカッコよく、知的でスマートな、おぼっちゃま。
まるで、映画のようだった。
(しかし、いつの時代も、モテモテは禍いのもと)

まあそれはよいとして。
(後にわたしは、遥か彼方、遠方まで、お葬式や法要に足を運ばなければならないことになるが、、、)

ちなみに。
話をちゃんと終えていないうちから、、、。
蛇足中の蛇足なのだが。
ある日、わたしの実家から送ってもらった超高品質、高級羽根布団を、姑Aが間違って、その「姑の小姑」C(夫のオバ)に送ってしまった。
それは、「他の別のモノと間違って送ってしまった」とは、姑Aは「姑の小姑」Cに言えず、Cもわたしのものだとは知らず、今日までわたしの不満は燻っている。

羽根布団、返してください。
あれ、わたしの、です。
あ、他にもある。
時代ものの漆塗り、蒔絵の衣紋(えもん)掛け、返してください。
こちらにあるものと、一対になっているので。
実家の気に入ったものを持って出てしまった一代前の「姑の小姑」C。ぷんぷん。
(そのくせ、お雛様など、不要になったものは送り返してくる。
お雛様が、いっぱい、大集合。まあいいですけど)

終活、しなければいけないのに、物欲の塊になってきた。
使わないくせに、取っておきたい、執着する、断捨離すべき、極め付け品だ。
しかも人の手に渡っているのに。
どんだけ、物欲が強いのだろう、わたし。

わたしにとって、
物欲は、生きるチカラ。
モノを手放した時に悟りを開き、自分の道が見えて自由になるが、生命からも自由になる。
一生、断捨離出来ないわたし。
生きている限り。
脳みそが正常に動かなくなったら、わたしが施設に入って知らないうちに、娘たちに強制断捨離されているだろう。
その時は、もうわたしは家には帰らないので、全部捨てられてもわからない。
家には魂も入っている。
家から出た時は、魂は抜けている。
まるで、仏壇や墓の魂抜きようだ。

それでいいと思う。

いや、娘たちには迷惑だ。
生きているうちに、断捨離しないと、、、。
義理のオバに、羽根布団、返せ、なんか言っている場合ではない。

とかなんとか言いつつ、、、
昨日、(わたしのブログによく登場する)ご近所さんの90歳超えの方から、古い古いセーターを3枚も、もらってしまった。
一応、やんわりお断りしたのだが、押し切られた。
13年前のクリーニングタグが付いていた年代物。
彼女の切羽詰まった断捨離のお手伝いをするのは良いが、わたしの家はどうなる???







明るく楽しいハイテンションの日

2024-11-18 | お出かけ
ピアノは、続ける気がないと続かないと思う。
わたし世代は、ピアノはソロバンを習っているのと同じノリの普通ぶり。
人気があった。そういう時代、時流。

ただ、今も続けている人はどれぐらいいる?
ピアノを売ってしまった人もいる。
わたしも、その一人。
夫の実家に、義両親が孫たち(わたしの子供)のために買ってくれたピアノを、3年前にその家をリフォームした際に、売却した。
義両親の夢が詰まっていたと思う。
実家に帰ってきた時も孫たちが練習できるように、と。
ほとんど弾かずに、ほとんど新品ピカピカ、新古品状態で売った。
買って30年以上経っているのに、結構、良い値段が付いたので、さすが、腐ってもヤ◯ハ。
自宅のピアノは、孫のオモチャ用に残存しているが、あまり子供も孫たちもピアノで遊ばない、
遊んでいるのは、おばあちゃんの、わたし。
せっかくだから、有効活用しないと、もったいない。

終活には、ピアノは一番に手放すものかも知れない。
逆に、震災で壊れたピアノ修理を(ボランティアで)してもらって大感激している高齢女性がTVで紹介されていた。
生きがいを失いそうになっていた矢先、ボランティアの申し出があったようだ。
音楽は人を救う。

わたしは、フレイル予防だとしたら、ちょっと澄んだこころではなく、濁っているかも?
なので、少々、音が外れていても気にならないのだろう。
濁ったこころに、濁った重音。
今のところ、新しい曲には挑戦しないので、あまり脳トレにはならないが。

ちなみに。
遊び相手に返り咲いた、元同僚と、都会のど真ん中で、映画を観た。
映画の後は、おしゃべりに花が咲き、わはわはと笑い転げる、うるさい、困った、元気なオバさん二人。
本当は、おばあさんなのだが。
お互い、今日は夫が(仕事で)帰らない日なので、底抜けに明るい開放感を分かち合う。
お酒も飲まないのに、コーヒーだけで、やたらテンションが高い。
映画館が入っているビルの屋上は、空中庭園。
ついでに、初めて登った。
そこは、多国籍人種のるつぼだった。