蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

人の幸せなど誰も興味がない

2024-06-30 | 暮らし
夏。
湿った暑苦しい空気を一瞬、真ん中を切る風が流れる。
切る、というよりは、もっと優しい。
そよそよ、だけど爽やか。
その風を皮膚に心地良く感じる度に、子供の頃の光景が蘇る。

夏には家の中の風通しが良いように、祖母か母によって、夏用の建具に取り替えられている。
透ける生地、ブルーの波を形取った、涼しげなのれんが、風が吹く度に細長に揺れる。
玄関周りに、打ち水がされている。
風鈴チリンチリンは、あまり記憶にはないが。
夏の風を受けると、田舎の家での、あの気持ちいい風が、瞬時に子供の頃に時を戻す。
ベルを鳴らすとヨダレを垂らすパブロフのワンチャンのごとく。
条件反射的、反応か。

その部屋は、冬には掘り炬燵。
テレビが置いてある。
高い天井には明かり取りの窓。
そこでわたしは、テレビを祖母と観ていた。
兄、姉、両親の姿はテレビを観ていたわたしの思い出の中にはない。
わたしが幼すぎて、当時の印象が薄くて記憶にないのか。

現在もその部屋は同じ位置にテレビが置いてあるが、部屋の役割としては、隣の部屋に行くための通過across部屋のようになっている。
昔の田舎の家は、「田」の字のように和室が四つ並んでいた。
そのうちの一つの部屋は後に洋室に改装されたが、建具はそのまま。
和室にも洋室にもマッチする、重厚な木の引き戸はそのまま使われている。
昔の田舎の実家の光景を思い出すと幸せな気分になるところから推測すると、わたしはどうも、実家愛が、強い、、、。
四季折々に身体いっぱいに季節を感じていた。
頭脳ではなく、精神でもなく、受けるのは体感。

「過去は消せない」とよく耳にする。
確かに。実感する。
隅々まで染み込んでいる。
過去は、自分の体の一部になっている。
過去の栄光や成功体験が染み付いている人もいるだろう。
過去の不幸な体験からまだ抜け出せない人もいるだろう。
過去と今を比べるのではなく、過去は今に至るまで切れずに続いているもの。
過去を消したい人もいるだろうけれど、わたしの場合は消したら何も残らない。

今、幸せなら、過去はなんだってよい。
未来は今から始まる。
だが、今まで続いた幸せに固執すると、囚われの身となる。
出来れば幸せを継続したいけれど、ままならぬこともある。
毎日毎日、平凡に平穏無事に完結するのが明日への幸せにつながる。


ちなみに。
もうここまで書いてきて、ナンなんだが、、、
人は不幸話が大好き。
他人の幼少期のまったり風物詩の思い出なんぞ、まったく、まったく、まったくどうでもいい。
が、それはわたしはわたし、、、一旦、蝶ブログは横に置いておいて、、、
なんであんなに不幸話が好きなんだろう。
ゴシップや噂話が好きなのと同じで、心理的共通の特徴なのか。
向上心を掻き立てられたい人は、立派な人に擦り寄って行き、人生の極意を学び、自分に活かそうとする。
人間には2タイプあるようだ。
不幸ネタに喰らいつくと、自分は幸せだと思うような気になる。
が、、、人の不幸を、同情するのではなく、自分の優越感を満たすために用いる。
コメントを見ると皆さんの反応が手に取るようにわかる。
努力せずに、満足感を得る手っ取り早い方法だ。が、、、
自分の本性と向き合うことになる。
そんな大袈裟なことはないかも知れないが。
世の中には色んな人がいる。

自分の自虐ネタも謙遜も卑下も、実は違う面が見えることがある。
それをわかって読むのも面白いが、根っから暗い人は、人を呼び込む力があるから要注意。
暗さではなく、「パワー」を得るものをわたしは欲する。
そういう意味では、プロ作家の著書はさすがに面白い。

今日の記事は後半は、爽やかではない流れとなった。








言葉には注意しなければ

2024-06-29 | 日々のこと
わたしのブログは気楽だ。
コメントなどが物議をかもしたりすることは、全くない。
他のX(旧Twitter)などのSNSの、影響力がある著名人の発言をめぐって、ちょっとした軽い気持ちでアップされたコメントでさえ、賛否両論あり、騒がれている。

その実例。
(有名人ではないようだが→その区別さえも、わたしには判明できない、、、)
何気ない朝食の写真をアップ。
卵焼き、ウインナー、豚汁、おにぎり。
これに対して「こんなものでも、いいんじゃない?」というコメントに対して、ネット周りが騒いでいる。
「こんなもの」とは何ごとだ!
実際作ると1時間以上かかる。
朝の忙しい時間に1時間もかけられない。
なのに、「こんなもの」???
何を言っている???
と。

自分の常識と世間の常識、
自分の台所と、他人の台所、
自分が作るのか、食べる側なのか、
いろいろ、、、
立場や考え方によって違う。
だがしかし、軽く思ったままをコメントも出来ないのか。
自重を余儀なくされる。
自虐、卑下、謙遜も、NGの対象になるらしい。
話題対象の事柄、分野にも寄るのだろうけれど。
隣の芝生に惑わされるな、自分のスタンスを確立するのは良いが、不特定多数に向けたものは、どんな人が目にしているかわからないので、表現には気を付けるべきなんだそう。
あらま、そうなの?
人の発信したものに、賞賛、賛同のつもりで
「そんなものでも、いいですね」なんて書いてはいけないのだ。
「いいですね」に、しておけばよいのか。
ムツカシイ、、、。

「わたしは、不器用でナマケモノなので、こんなものでお恥ずかしいのですが、、、」
と、ちゃんとしたメニューを公表してはいけないのか。
ぐちゃぐちゃのメニューや、ひどい手作り品を公表すればよいのか。
ムツカシイ、、、。

「今月は経済的に苦しかったので、こんなケーキしか買えませんでした」と、どこかの超高級パテシィエ・ブランドのケーキをアップしてはいけないのか、、、。
ではどこのケーキならよいのか?
スーパーに大量に売っている(大量生産)製パン会社のケーキ?
ケーキそのものが、ケシカラン?
とは言え、コンビニスィーツは最近、凝っているから、それを紹介すると、読む側にはウケが良い?

うーーん、どこのケーキもよく知らないわたし。
とりあえず、今日は我が家でホーム誕生会なので、パン屋さんで1080円?のケーキ台を予約した。
あとは、紙パック入り生クリーム(今から泡立てる)、キウイ1個、フルーツ缶詰(小)を買ってきた。
ホールケーキを買うと、ばか高いが、これなら1500円以内で収まる。
10人分。コスパ、オッケー?
フルーツ不足で彩りがよくないのは、仕方ないか。
(スイカは頂きものがあるが、さすがにケーキには使えない)
一からケーキ台を作るには技術、ノウハウ、時間、余裕、気力がなく、最大の(サボりわたしへの有利な)理由には、オーブンが故障していて焼けない。
残念、、、。(て、自分で焼いたことはないのだけれど。お菓子作りは、次女の係)

とかなんとか、今日は、持ち寄り料理、誕生日会となっている。
長女婿からは、豚の角煮、煮卵、次女婿からは、唐揚げ、魚料理、そして、、、なんとわたしは、、、小学生でも出来る(あ、こんな表現をすると不快な人がいるから、控えなければ)マカロニサラダ。
皆んなが気を使ってくれて、簡単で子供受けするメニューを料理下手のばあちゃんに、割り振ってくれた。
だがしかし、かなり無理してわたしは、生春巻きを一品加える予定。
今回の具材で作ったことは一回もないのに、大丈夫か??
まあどうにかなる。
とは言いつつ、まだ、まったく何にもしていないのに、多分、もうじき、先発隊で次女母娘がやってきそう、、、。
すでにもう憂鬱になっている。
行動する直前は、わたしはいつもブルーな気分が押し寄せる。
お尻が椅子にくっ付いて離れない、テコでも動きたくないサボり病の、益々進化バージョンのようだ。

ホーム誕生会、開催自体も、不愉快な人にとっては気分が良くないだろう。
地球上すべての人の詳細な個々の事情をいちいち気にしていては、全く何も出来ない。
が、世界では不幸な出来事も多発しているなかで、今ある幸せを噛み締め、感謝して、、、早く準備に取り掛かろう。



フードは安いらしいが、ピンとこない

2024-06-28 | 暮らし
1ドル161円台突破!
えらいことになっている。
1986年以来、37年半ぶりらしい。
なんだか未来がハッキリ見えなくなってきているかのようで不安だ。

しかし、どれぐらいの日本人がドルの価格に興味があるのだろう?
パンや野菜、卵、牛乳の値段には敏感ではあるが。
人件費は上がりつつある。
とは言え、日本は物価が安い、とインバウンド観光客は外食の安さに驚いているらしい。
現地の住民も利用する「タイの屋台が安い」とはまた別モノだと思う。

若い時にバックパッカー的な冒険型、体験型旅をあまりしなかったので、ちょっと悔いが残る。
今はシニアになった自分の胃腸や体調、トイレ事情が気になって屋台だとか、現地の食をダイレクトに堪能できなくなっている。
中年の頃に、ラオスで氷に当たった(下痢)記憶はまだわたしの中では新しい。
村のお土産屋さんのトイレもなかなか風情ある、水瓶に溜めてある水を汲んで、手動式水洗だった。
今なら、風情と感じず、ふうふうぜいぜいいっていることだろう。







シニア女性の自立

2024-06-27 | 人生
今朝のNHK朝ドラ「虎に翼」。
寅子の元学友、梅子。
夫の遺産相続争いをしていた妻、梅子が、財産放棄した。
なんで??
妻、嫁、母と、今まで心血を注いだこと全てを失敗、敗北した、と涙を流し自嘲の大笑い(怪演?)の後、家族全員の前で、家を出て行く宣言をした。
それは観ている側としては、スッキリしたのだが、、、
家を出て、これからどうやって生活する?
住まいや生活費もいるし。
住み込みで仕事?
知り合いのところに身を寄せる?
法律事務所で雇ってもらうにしても、家庭の専業主婦からの独立初期費用が必要だ。
病気になることもあるだろうし、ある程度の蓄えが必要。
今まで尽くして来た慰労費、退職金として、遺留分をもらうべきだ。
が、そうすると子供たちと紛争となるため、紛争を避けたい、長引かせたくないので放棄したのだろうけれど。

身を削ってかわいがっていた三男は、夫の愛人と男女の仲になり、裏切られ、、、
梅子は、子供に捨てられる前に捨てたのか。
ドラマだから、ドラマチック。
おばあさんは、梅子が出て行った後は、3人の孫に順番で転々と世話されるのだろうか。
ちなみに、わたしの実姉の趣味関係のチームメイト。夫は6人兄弟。
男子ばかり(6?人)の子供たちの家に順番制で短期同居を余儀なくされたおばあさん(母親=姑)がいた。
あっぱれ!輪番制。

梅子の三男は、そのうち子供も出来、ある程度、落ち着くと、やがて出て行った母親のことが気になる時が来るだろう。
その時、独居の老いた母は、どんな暮らしをしているのだろう。
三男が、父の元愛人と別れずいたとして、元愛人は、母にどういう態度を取るだろう?
憐れむ?優しくする?意地悪する?
「父の元愛人」と「母」は、父を期間別にシェアした仲。
重複していたシェア時期もあったかも知れないが。
シェアとは、、、共有のこと。共に所有する。分け合う。
法的にはシェアではないけれど。
事実婚とかもあるけれど、籍を抜いていなければ、妻は法的に守られている。

まだドラマは続くので、この先、どんな展開になるのかわからないが。
母、梅子が三男に「あなたの好きなようにしなさい」と言い放つところは、カッコイイ。

それにしても、相続争いは、山崎豊子の小説「女系家族」のようで面白かった。
遺産を取り合うには、その相続人の後ろに誰かの影がある。
家族だったり、男だったり、女だったり。
あるいは、親戚だったり、他人だったり。
人のお金に群がる人々が、糸を引く。
自分だけで争うには知恵や力が要る。
まあ、お金は魔物なので、フル出力、ギア全開、総力を上げて争うことになる。

どちらにしても、家庭内で専業主婦だった女性が、嫁、妻、母と決別するには自立心、自立力が必要だ。
経済力は不可欠。
妻をかくまってサポートしてくれる、駆け込み寺シェルターも、永遠には保護してくれるわけではない。
自立するまでの暫定期間のお預かりだ。

70歳を超えて離婚した女性もいる。(死別が多いが)
わずかな残り人生を自分らしく生きたい、と。
が、経済的自立がないと無謀だ。
行政のお世話になる選択肢もあるかも知れないが、離婚して、行政経済支援、、、。
それもしたくない、出来ない人もいるだろう。
理想論では片付けられない、問題の根は深い。

隣の奥さん、鬱なんだって

2024-06-26 | 趣味
昨日、出先の趣味現場、女子更衣室での話。
わたしは透明人間になって、二人の女性の会話を一方的に聞くだけなのだが。
片方の女性が言う。 

「家のお隣の奥さん(シニア)、鬱っぽいらしいわ。 
で、受診したところ、『とにかく家の中から出なさい』と言われたそうよ。
1時間でも2時間でもいいから、家の外で過ごしなさい、だって」

そう話しながら二人は、
「わたしたちは良かったね、出かける先があって」
と安堵していた。
それを聞いて、わたしも、「そうだ、そうだ、もっともだ、出かける先があるのは素晴らしい!!」と、こころの中で賛同した。

とはいうものの、出かける先は自分で作らなければならない。
ふらふら夢遊病者のように出かけても、そして、公園のベンチにぽつんと長時間、座っていても、虚しいと思う。
公園で元気に遊ぶ子供の姿を見たり、緑や池の自然に触れ癒されるのならまだしも、魂が抜けたように座っているのなら、自宅で静養しているほうがマシ。
わたしなら、そんな幽霊のような姿を外に晒したくない。
外に出る時は、家の中でしっかりエネルギーを養い、目的を持って出たい。

だがしかし、ミニ鬱は、いつまで経ってもエネルギーが貯まらず、そのまま家の中に閉じこもり続けてしまう。
だから、重篤化しないためにも、なんでもいいから、とりあえず、一歩、家の外に出ることを勧められる。

「家の外」は、物理的な「家」でなくてもいい。
「自分」の外に出る。
インターネットやブログなどで、やり取りをして気づきを得たり、読書で著者から知恵を借りたりする。
そう書くと、いかにも優等生的な答えになってしまう。

「パンがなければ、ケーキを食べればいいのよ」
と、マリーアントワネットになってしまう。
(史実では、彼女は言ってない説があるが)

自分が切り抜けられたから、人も行けるだろう、と考えるのは安易かも知れない。
自分はラッキーなのかも。
わたしは自主性はないものの、滅多やたらと壊れない、メンタルが強い。
繊細さに欠けるのだろう。
ガラスのハートは生きていくには、しんどい。

趣味分野では、上を見るとキリがなく、下を見てもキリがなく、横を見ると、ニコニコ、、、である。
皆んな似たようなヒマジンが集まっている。
どんなに崇高な立派なことを言おうが、向上心を持って努力しようが、たかが知れている。
所詮、アマチュアの暇つぶしである。
だが、この暇つぶしこそ、大事、肝である。

老後、義務から解き放たれた時期は、何もすることがないのだ。
自分で奮い立って何かをしなければ、暇で暇で仕方がない。
義務からの解放。
それは、長年、わたしが憧れ追い求めていたものなのだが、実際、そうなってみると、有り余る膨大な時間との闘いとなる。
脳が若い頃のように強くないから、何もせずに、ほにゃほにゃしているうちに、陽は落ち
やがて陽が上る。
何かしても、何もしなくても、一日一日は過ぎて行く。
もったいないと感じたら、しめたもの。
何かをする気力が湧いてくる。

歳と共に気力は減退するだろうけれど、虚しく思う気持ちも薄れてくるだろう。
老いを受け入れるということか。

まだわたしは、介護する側の人間なので、元気ではある。
趣味の現場でも、自分はイケていると自分で勝手に感じている。
客観的評価より主観的評価が上回っている。
それは、活力の素だから、それでいい。
自己肯定は生きるためのビタミン剤。

矛盾がいっぱい

2024-06-25 | 暮らし
わたしは受動的人間である。
自分から光を発する太陽では決してなく、太陽の光を浴びて自転する地球だ。
地球のまわりをぐるぐる回る、生真面目にルーティンをこなす月でもない。
マイペースでちょっと軸を傾けて、365日かけてゆっくり回る。

自発的に何かをしたい衝動や欲求は、なかなか現れない。
ひとの人生や行動、ブログなどで蓄積された他からの影響がどんどん膨らみ、やがて動き出すまで、時間がかかる。
胎内時間が長い。
突然、突発的に、オリジナルの何かに突き動かされることはない。
過去の経験の中の何かが、何かを見た時、何かの行動をした時に、瞬間的に誘発される。
なので、自分では気づかない間にインスパイアされている。
「経験」とは、今まて生きて来た時間の積み重ねだ。

そのインスパイアされるものは、人によって様々だと思う。
犯罪行為にまで発展する人もいるだろうし、仕事とはまた別に、趣味が深まることもある。
好き嫌いは、感性による。
道徳心や倫理観にも左右される。
好きな興味あることは、追い求め、情報を積極的に取りに行く。
嫌いなことには目を背ける。
「好きなこと」は、どんどん精錬されていく。
その場限りのものもあれば、無意識にこころに残っているものもある。
枝分かれし、主流から派生していることもある。
ある日、知らない間に自分の中にあるものが、突然、呼び起こされ、引き出されることがある。
引き出しがたくさんあると、呼び起こされる頻度が多くなり、広がり、深まり、濃くなる。
が、自分で整理していないと混乱するだけとなる。

真横で同じものを見て、同じことをしても、何も考えず、何も感じず、何も見ない人もいる。
人それぞれの価値観、感性である。
同じ価値観、、、は、なかなかぴったり一致するのは難しいから、合っている部分だけを共有する。
感性や考え方も然り。
ボール(球)のように全ての面々で接するのは困難だが、多面体で、一面が小さければ小さいだけ、接するところが多い。
ただし、球は転がって安定しない。
何にでも一長一短があり、表裏一体。

何も見ない、見えない人は、それはそれで安定して幸せである。
何でも見える人は、自分が定まりにくい。
選択肢は少ないほうが、幸福感が上がるらしい。
なんでも選べる人は幸せかというと、これまた一長一短である。

上を見ると、キリがない。
下を見ると、キリがない。
横を見ると、ざわつく。
何も見ないと、生きている意味がない。
でも、無の境地。
それも幸せかも知れない。

生きているのに、生きていない無の境地を目指すのは、矛盾している。
「人間は矛盾で出来ている」
この結論、カンタン便利。
だが、摩擦を生み、ビジネスや争いの世界では通用しない。
矛盾をぐるぐる回ると、いつまでもエンドレス。
そうしていると、お腹が減る。
食べて満腹になると眠くなる。
そうやって毎日が繰り返される。


※先月のウブド。
このショップの入り口では、履き物がきちんと揃えられている。
ショップのスタッフによって性格はさまざま。
だけど、入り口の外にビーチサンダルを脱ぐのは同じ。

オススメ映画

2024-06-24 | 映画
友人から「面白そう」と、教えてもらった映画をぜひ観に行きたい。
だが、近所の映画館でも、いつも行く映画館でも、上映されていない。
もう少し足を伸ばさなければならない。

先週、もう一作、彼女は別の、大好きな映画(2004年作)を一人で観に行ったそうだ。
わたしを誘おうかちょっと迷ったものの、出先の用事のついでに観るため、時間がはっきりしなかったので、わたしには声をかけなかったという。

次の彼女のオススメ映画にはかなりわたしは興味を抱いている。
観る気、満々。
たが、二人で観るのは、とどまりそう。
二人の住居の中間の地にある映画館まで足を伸ばすのが億劫。
都会なので疲れる。
そして、時間を合わすのが、面倒。
ぱぱっと自分の都合がよい時間に動くと、フットワークが軽い。
映画を観るのに何も二人揃って観なくても、どうせ上映中は話せないし、観るのは一人が適している。
デートなら二人で観ることに意義があり、二人が同じ場所にいて同じことをするのが楽しいのだろうけれど、映画が主。
コミュニケーションは二の次。
感想は、帰りにお茶しなくても、LINEで話せばよい。

こんな考え方、行動の仕方は、ぬくもりがないのかも知れない。
が、いちいち会わなくても、数年に一回、顔を見て空気や温度が伝わればそれでよい。

とかなんとか言いながら、わたしは毎週、顔を合わせたり、毎日、会ったりしている人もいる。
好き嫌いや、熱意が有る無し、ではなく、相手が忙しい、遠いところに住んでいる、時間を合わせるのが大変な場合は、頑張って調整しない。
とはいうものの、実の姉となどは、そう遠くに住んでいないのに、1年に1〜2回会えば、多いほう。
別に会わなくても、会うことを目的としない、あくまでも会うのは手段だからだ。

友人にはとりあえず、「◯曜日、オススメの映画に行きます」と伝えるか、「映画に行って来ました」と報告すべきか、、、
都会の真ん中に出向くのが億劫で、出力エネルギーを最小限にしたいと望む、省エネスタンスのわたし。
何しろ、目的は映画なので、熱いうちに、上映中に足を運ばなければ、モタモタぼやぼやしていて映画が終わってしまうのは避けたい。

わたしからのオススメの映画はありますか?と、彼女に聞かれたが、わたしは、行ける日、行ける場所の映画館で上映されている中から選ぶため、能動的にぜひ!というものはない。
受動的、暇つぶしだからだ。
インターネット配信の映画や、レンタルビデオ映画も観てみたが、イマイチだった。
内容は良くても、環境(自宅)や、映像状態が良くないと、ガッカリする。
やっぱり映画館で観るのが一番。
わざわざ遠くの映画館、早朝上映で観た映画は今もはっきり記憶に残る。
惰性で観る映画には駄作や、つまらないものもあるが、低予算でも面白いものに出会うと感動する。
人生の彩、機微に触れて、得をした気になる。
感動する、こころの瑞々しさは、まだわたしにはある。


※写真は、先月、バリ島、ウブドの街、ショップ前歩道。
ビーチサンダルが歩道に捨ててあるのかと思いきや、ショップ内に店員さんが裸足で入るため、歩道に脱いでいるよう。
他のショップ前でも同じような光景を目にしたので、現地ではあんなかんじで、おおらか。


雨が降る日曜日

2024-06-23 | 日々のこと
今朝は雨だったので、自治会公園清掃は、中止。
本日予定されているゴルフ会も、雨なら行かないと言っていた夫だが、どうやら行ったようだ。
わたしは雨は憂鬱だったり、豪雨は恐怖を覚える。
が、やはり屋外行動は、天気に影響を受ける。

夫が行ったゴルフだが、また雨が降り出した。お気の毒。
でも他の皆さんも。
今朝、食卓に置かれていた本日のゴルフコンペの参加者の顔ぶれを見て、、、
知っている人ばかり。
そのうちの一人は、いつもご夫婦で参加されていたのに、夫さん一人だけの参加になっていた。
もう一ペアはご夫婦参加。
いつもエネルギッシュに参加されていた奥さんは、ここのところ、ゴルフ引退か?
奥さんは仕事もリタイアされた。
ご夫婦同業、同じ歳、元同級生なのだが。
ついでに言えば、年齢はわたしより一歳上。

このご夫婦は、全てが揃っている。
ハイスペック。
美しい、かっこいい、若々しい、スマートな身のこなし、そして頭脳明晰、優秀、有能。
社会的にも、収入も。
わたしとは、全く重なるものが1μもないので、まるで嫉妬もヤキモキもしない。
マネしようとも思わない。
別の惑星の生物である。

類は友を呼ぶパターン、それの推奨版、素晴らしい例だ。
似たもの夫婦。
同じ似たもの夫婦でも、わたしたち夫婦とはまた違う。
我々は、ダメ夫婦。
例えば、夫婦で同じ食生活だと二人とも肥満ということがある。
わたしは、スマートとは程遠いが、辛うじて肥満とまではいかない。
夫の食生活に引っ張られると、肥満になるか、病気になるか、どちらかなので、自己規制を働かせている。
例えば油たっぷりの高カロリーのものだったり、味の濃い、塩分過多だったり、夜遅くにジャンクフードやお菓子をボリボリ食べたり、、、そういうことは、わたしは控える。
夫は平気。
自己責任ということで、わたしは放任している。
姑は、糖尿病の舅の食事コントロールが完璧だった。
頭が下がる立派な行いだったが、あそこまで厳格に規制されると、舅が可哀想だった。
(そのおかげで、舅はその分、健康を保てたのだが)
もう重く背負うものもないシニア世代、好きなものを好きなだけ、好きな時に食べたらいいかなあ、、、と、わたしは夫に甘い。
いい大人。自己責任なので。
太く短く人生を楽しめば良いかと甘やかしていたが、夫が先日、「長生きしたいから、ちょっと控えよう」と言った。
えーーーっ?!!
と耳を疑い、どこらあたりが控えてるの??と思ったが、長生きしたいと思うのは良いことなので、わたしは何も言わずにいた。

先述のご夫婦は、二人とも厳格strictなんだろう。
我々は二人とも、自分に甘く相手に甘い。
なので、あの夫婦とはこんなに差が出た。
(それ以前に、スタート時点から格差あり)
が、厳しく自分を律しなかった結果の自業自得なので、受け止めよう。
もう人生、終盤、いまさらスタンスを変えるわけには行かない。
このまま、甘く、生き長らえていくのも、悪くないかも。

孫にも甘いが、世の常。
孫に対しては育成する責任がない。
口は出さない。見守るだけ。
親は厳しさを維持しようと頑張っているのに、祖父母が甘やかすと困るのだろうけれど。
甘やかすのはカンタンだが、厳しく躾け統制するのは、かなりエネルギーがいる。
身近に、無責任に、面白い戯曲(のようなもの)を味わさせていただいている。
ただし、好きなイベントに長時間並んで待つかのように、楽しいことを手に入れるには、少し苦労しなければならない。

森羅万象、なんでもそうだ。
享受するためには、地道な努力が必要だ。






ヘタレばあちゃん

2024-06-22 | 日々のこと
疲れた、、、
孫お守り。
両親(娘&娘婿)は仕事の送迎会のため、二人とも帰宅が遅くなる。
で、ばあちゃん宅でお泊まり、お預かり。
放課後、学童・教室で待機中の小1女児を、最後に小学校を出る小6の兄が迎えに行き、自宅に一旦帰り、ばあちゃん宅へ。
予定時間になっても、なかなか来ないから、やきもき。(2時間遅れで登場)
保育園お迎え1人、夕食4人、お泊まり4人(保育園女児、小1女児、小4男児、小6男児)
翌日午前11時まで。
保育園児はまだオネショの心配あり、とママからの伝言で、布団には防水シーツを。
ワンオペ。
大人が一人だと、どうも気負ってしまう。

3番目孫(小1女児)が、朝食の(ものぐさのわたしが頑張って作った)卵チーズサンドイッチを、レタスが入っているからと、拒否、食べない。
レタスごときの好き嫌いで、せっかく摂れる栄養も摂れないなんて、という理由で、「あほやね」
と、わたしが言ったら、「あほやね」のwordに食らいつかれた。

「あほじゃない」
「あほじゃないもん」
と、機嫌を損ねて、ぎゃーぎゃーうるさい。

「あほ、っていってもいろんな意味があるのよ。
あほらしい、とか、あほみたい、とか、くだらない、とか、ばかみたいとか、無駄だ、とか、、、、」
そう説明したものの、彼女は納得しない。

とてもプライドの高い子だ。
他にも「夕食をラーメンかカレーにする」と前日、わたしが言ったのだが、ラーメンにした。
それで、怒る怒る、、、ソファに仰向けにへばり付いて、食べに来ない。
「ばあちゃんの嘘つき!
ばあちゃん、カレーって言ってたやん!」と。
「ラーメンか、カレーって言ったはずよ、
ラーメンもカレーも両方は出来ないからね」

と、なだめるものの、彼女は収まらない。
一度、言い出したら聞かないので疲れる。
明日、カレーにして欲しいと言うが、明日は大人も合同夕食のため、カレーは出来ない。
それで、どうにか来週の木曜日には絶対にカレーにするからと、固い約束をして納得してもらった。
妹をなだめるつもりか、2番目孫(小4男児)が、冷蔵庫に磁石で貼り付けてあるカレンダーに大きく「カレー」と書き込んだ。
きょうだい協力隊。援軍。
3番目孫は、ちょっとヘソを曲げると、キーキーいって、なかなか元に戻らないので、爆弾、火薬庫扱い。
じつに、めんどくさい。

深夜12時を過ぎても遊んで寝ない、1番下孫のパズル遊びに延々と付き合う。
何をするわけでもないが、どっと疲れた。
親抜きお泊まりは、しんどい。

よく、TV番組「ポツンと一軒家」の山の中のおじいちゃん、おばあちゃんの家に孫たちが遊びに来るのを楽しみにして、遊んであげて、もてなし、世話をしているところが紹介されているが、アタマが下がる。
元気なじいちゃん、ばあちゃんだ。

そもそも元気でなければ、あんな(わたしから見ると)不便な過酷な生活をしない、できない。
わたしは、虫が苦手なので、山や野や畑は、戦々恐々。
虫さされは、最大の恐怖。
田舎生まれ、田舎育ちなのに。
ばあちゃんは、もやしっ子である。



生きがい

2024-06-21 | 趣味
父(故人)の仕事場。
わたしが生まれた年に、独立スタートした。
父は、田舎の家(故郷)から仕事場に通った。
数年後に母も仕事を手伝うようになった。
わたしは、田舎の家から、仕事場のある地域の教育機関に、幼稚園の時から通った。
バスで30分。
小学5年生の時に、仕事場のある地域に転居した。
仕事場から100mの場所。
田舎の家には(父方)祖母をひとり残し、我々は週末に田舎に帰っていた。
(その間、大規模リフォームもした)

祖母が88歳の時に、仕事場のある住居に身を移し、最後の5年を過ごした。
祖母は亡くなるまで頭は、しっかり。
わたしも祖母の血を引き継げばよいのだが、、、母方祖母なら、、、母も脳みそがふやけているし、、、うーーん、、、ちょっと哀しいかも。
もし、認知症が遺伝なら。
しかし、今は認知症はここかしこに、ごろごろ。
家庭も行政も、対応しきれない現状だ。

わたしは、今は介護する側の年齢であり、まだ介護されるところまでにはいっていない。
自分が介護される歳になると、夫も同じ世代。
だが、夫に介護される自分は10000%想像できない。
夫を介護している自分も想像できない。

要介護の奥さんを毎日、自宅で介護している75歳の男性がいる。
奥さんは去年、病気で倒れ、その後遺症で身体が麻痺しているため、食事、入浴、排泄介助、日常生活のほとんどを夫である男性が介護している。
夜通し数時間おきに排泄介助があり、まとまった時間の睡眠は取れないようす。
彼は、ダンススポーツ、トップクラスの現役競技選手だったのだが、競技生活は介護事情で続けられなくなった。
60歳で定年退職後、アルバイトをしながら15年の歳月をかけて、初心者で一からチャレンジし、一生懸命取り組み、やっと上り詰めた矢先、、、
それを潔く手離すのは、やはり、いつも全力で頑張って来られたから、かえって執着されないのかと想像する。
今は、ほんの少しのスキマ時間に、近所の趣味の会場に出かけて身体を動かしている。
家から自転車で行ける場所、時間も昼食後から出て16時には帰らなくてはいけない。
場所、時間に制約を受ける。
にもかかわらず、彼は妻の介護は新しい生き甲斐だという。
妻を本当に愛していることがわかったという。
アタマが下がる。出来た人だ。
わたしにはとても真似できない。

介護が愛情のバロメータだとすると、ぶっちぎりトップクラスの愛妻家だ。
現役競技選手の時から、ぶっちぎりだったので、活動舞台を競技から介護に変えたものの、同じエネルギッシュ熱血路線を歩いておられるのだろう。
だが、彼の介護生活を支えているものは妻への愛情はもちろんのことだが、「趣味」の存在だそうだ。
ほんの短い時間でも、やりくりして、自分の趣味に打ち込む。
切り替えが素晴らしい。
趣味は人を救う。