朝、コーヒーと、昨夜炊いたタコご飯を食べた。
ドイツパンをトーストしたものを食べた後に、である。
わたしは、決してグルメではない。はっきり。くっきり。自覚症状。
タコご飯を食べ、コーヒーを一口飲み、またタコご飯を食べ、さらにコーヒーを二口飲みながら思った。
絶対に合っていない、この取り合わせ。
でも、自分は、けっこう、平気で食べている。
これは、テイストでのカテゴリー分けをするから合っていないのだ。
和食とコーヒー。
せめて、和食と日本茶。
あるいは、和食を食べたあと、食後のコーヒー。
タコご飯と交互は、よろしくない。
が、思った。
考え方、切り口を変えると、これはおかしくない。
キッチンの流し台前に立ち、目の前にあるものでカテゴリー分けをする。
目の前にあるものは、昨夜のタコご飯と、コーヒー。
トーストとコーヒーで、いちおう、スタンダードな朝食は終えた。
で、まだ満腹中枢はOKのサインを出していない。
さらにトーストを食べるのも、パンは空腹をさほど満たさない割にはカロリーが高い・・・ので、やめた。
パリで貧しい食生活(近所で買ったパンばっかり)をして帰ってきた割には、ぶくぶく太っていたことで、実証済み。
で、タコご飯、となったわけだ。
なので、アタマの中では、決して正しくないことはない。
ただ、テイスト的に、センスよくない、カッコ悪い、趣味悪いだけだ。
が、意外に、タコご飯とコーヒーは、それほど目をむくほど、合わないわけではなかった。
しかしそれは、空腹と、喉の渇きを満たすことを第一条件にしていただろう。
そして、食に対するこだわりがほとんどない、ということだろう。
日常の食生活には、栄養バランス、量、品質(農薬たっぷりではないもの)、価格、そういうもののほうを、
味よりも優先させてしまうからだろう。
なによりも、めんどくさい。
なので、自分だけのために、自分で凝って用意したり、作るなどということは、めったやたらとしない。
そうすると、タコご飯とコーヒーということになる。
・・・
つまらないことを書いた。
お読みになられた方へ。・・・すみません・・・、の気持ち。
・・・
タコご飯とコーヒーを交互に食べて飲んでいる自分に、どうしても、援護、弁護、
あるいは、理屈付けが欲しかったもので。
こんなところにも、わたしの理想と現実がある。
合わないと思われるタコご飯とコーヒーを、合わないなあ、と思いながら、でも、食べ続ける自分。
理想や正しい形を知りながら、現実を乗り越える努力をせず、現実を直視し、そのなかで自分を満足させようとする。
自分を肯定するためには、どうでもいい、だらだら屁理屈が多い。
結果的には、お腹は落ち着いて、よかったね、ということだ。
もう少ししたら、コーヒーと、昨日、義母にもらったチョコレートケーキを食べよう。
・・・
娘と孫とで昨日、義母の家に、行った。
(と、ここから書き始めるべきだった・・・)
義母は、行くと必ず、いろんな食材、野菜、惣菜、お菓子、果物、さらに娘にはお小遣いをくれる。
最近は、ケーキも、追加されている。
これは、ケーキ屋さんに勤めている義母の家のご近所の人が、売れ残ったケーキを持ってきてくれるらしい。
なので、義母の家に行くと、いつも同じようなケーキがある。
(そのうち、そのケーキ屋さんはつぶれるのではないかと懸念している)
「ちょうどよかったわ~」と、ケーキを渡す相手が現れたと喜ばれた。
で、そのケーキやら、なんやらかんやらを娘一家の分とシェアする。
「義母→わたし→娘」という直列の順序というわけでなく
「義母→娘/
義母→わたし」と最近は並列になっている。
娘も最近、世帯を持ったので、モノをいただいたら、別々に分ける。
義母にとって、わたし(義母には長男一家)が、娘(義母には孫)と並列というところが、
(自分はいまだに娘と並列に義母から、もらっているところが)情けない風情を醸し出して、面白い。
(しかも、娘のほうがいいモノをたくさんもらっていたりするのを横目で見ると、ひがむ傾向あり)
そもそも、夫から義母には、毎月、そこそこの額の経済援助がなされている。
その費用で、義母は家や家事周辺、身の回り、その他、雑用などのサポートを補っている。
義母が、自立した生活を送るための、経済、人、モノの循環システムが構築されている。
サポートを外注しているので、これをしてちょうだい、あれをしてちょうだい、と
義母が選んだお気に入りの外注の人に、義母が頼む。
外注さんは、家族ではないので、個人的な好みや主義主張などは介在しないため、指示通りに動いてくれる。
ビジネスで成り立っている限り、イザコザはさほど起こらない。
これが、家族だと、それは必要ないとか、値段が高い、とか、こっちがいい、とか、生活全般の見直しや、
好みに口出ししたり、自分ならしたくない、という感想を抱いたりする。
それを無理やり調和を図って、行うのが家族なのだが。
ひとつの同じ空間に四六時中いっしょにいると、見たくないことも見えるし、まして、財布まで同じなら、ストレスも大きい。
が、世の中の人たちは、それを頑張って協力し合ってやっている。
すごいことだと、アタマが下がる。
ぎりぎりまで、できるところまで、自立した生活を送ることは理想だ。
なかなか、現実は厳しいが。
できなくなる日を少しでも延ばし、自立の日々を享受してもらいたいものだ。
ドイツパンをトーストしたものを食べた後に、である。
わたしは、決してグルメではない。はっきり。くっきり。自覚症状。
タコご飯を食べ、コーヒーを一口飲み、またタコご飯を食べ、さらにコーヒーを二口飲みながら思った。
絶対に合っていない、この取り合わせ。
でも、自分は、けっこう、平気で食べている。
これは、テイストでのカテゴリー分けをするから合っていないのだ。
和食とコーヒー。
せめて、和食と日本茶。
あるいは、和食を食べたあと、食後のコーヒー。
タコご飯と交互は、よろしくない。
が、思った。
考え方、切り口を変えると、これはおかしくない。
キッチンの流し台前に立ち、目の前にあるものでカテゴリー分けをする。
目の前にあるものは、昨夜のタコご飯と、コーヒー。
トーストとコーヒーで、いちおう、スタンダードな朝食は終えた。
で、まだ満腹中枢はOKのサインを出していない。
さらにトーストを食べるのも、パンは空腹をさほど満たさない割にはカロリーが高い・・・ので、やめた。
パリで貧しい食生活(近所で買ったパンばっかり)をして帰ってきた割には、ぶくぶく太っていたことで、実証済み。
で、タコご飯、となったわけだ。
なので、アタマの中では、決して正しくないことはない。
ただ、テイスト的に、センスよくない、カッコ悪い、趣味悪いだけだ。
が、意外に、タコご飯とコーヒーは、それほど目をむくほど、合わないわけではなかった。
しかしそれは、空腹と、喉の渇きを満たすことを第一条件にしていただろう。
そして、食に対するこだわりがほとんどない、ということだろう。
日常の食生活には、栄養バランス、量、品質(農薬たっぷりではないもの)、価格、そういうもののほうを、
味よりも優先させてしまうからだろう。
なによりも、めんどくさい。
なので、自分だけのために、自分で凝って用意したり、作るなどということは、めったやたらとしない。
そうすると、タコご飯とコーヒーということになる。
・・・
つまらないことを書いた。
お読みになられた方へ。・・・すみません・・・、の気持ち。
・・・
タコご飯とコーヒーを交互に食べて飲んでいる自分に、どうしても、援護、弁護、
あるいは、理屈付けが欲しかったもので。
こんなところにも、わたしの理想と現実がある。
合わないと思われるタコご飯とコーヒーを、合わないなあ、と思いながら、でも、食べ続ける自分。
理想や正しい形を知りながら、現実を乗り越える努力をせず、現実を直視し、そのなかで自分を満足させようとする。
自分を肯定するためには、どうでもいい、だらだら屁理屈が多い。
結果的には、お腹は落ち着いて、よかったね、ということだ。
もう少ししたら、コーヒーと、昨日、義母にもらったチョコレートケーキを食べよう。
・・・
娘と孫とで昨日、義母の家に、行った。
(と、ここから書き始めるべきだった・・・)
義母は、行くと必ず、いろんな食材、野菜、惣菜、お菓子、果物、さらに娘にはお小遣いをくれる。
最近は、ケーキも、追加されている。
これは、ケーキ屋さんに勤めている義母の家のご近所の人が、売れ残ったケーキを持ってきてくれるらしい。
なので、義母の家に行くと、いつも同じようなケーキがある。
(そのうち、そのケーキ屋さんはつぶれるのではないかと懸念している)
「ちょうどよかったわ~」と、ケーキを渡す相手が現れたと喜ばれた。
で、そのケーキやら、なんやらかんやらを娘一家の分とシェアする。
「義母→わたし→娘」という直列の順序というわけでなく
「義母→娘/
義母→わたし」と最近は並列になっている。
娘も最近、世帯を持ったので、モノをいただいたら、別々に分ける。
義母にとって、わたし(義母には長男一家)が、娘(義母には孫)と並列というところが、
(自分はいまだに娘と並列に義母から、もらっているところが)情けない風情を醸し出して、面白い。
(しかも、娘のほうがいいモノをたくさんもらっていたりするのを横目で見ると、ひがむ傾向あり)
そもそも、夫から義母には、毎月、そこそこの額の経済援助がなされている。
その費用で、義母は家や家事周辺、身の回り、その他、雑用などのサポートを補っている。
義母が、自立した生活を送るための、経済、人、モノの循環システムが構築されている。
サポートを外注しているので、これをしてちょうだい、あれをしてちょうだい、と
義母が選んだお気に入りの外注の人に、義母が頼む。
外注さんは、家族ではないので、個人的な好みや主義主張などは介在しないため、指示通りに動いてくれる。
ビジネスで成り立っている限り、イザコザはさほど起こらない。
これが、家族だと、それは必要ないとか、値段が高い、とか、こっちがいい、とか、生活全般の見直しや、
好みに口出ししたり、自分ならしたくない、という感想を抱いたりする。
それを無理やり調和を図って、行うのが家族なのだが。
ひとつの同じ空間に四六時中いっしょにいると、見たくないことも見えるし、まして、財布まで同じなら、ストレスも大きい。
が、世の中の人たちは、それを頑張って協力し合ってやっている。
すごいことだと、アタマが下がる。
ぎりぎりまで、できるところまで、自立した生活を送ることは理想だ。
なかなか、現実は厳しいが。
できなくなる日を少しでも延ばし、自立の日々を享受してもらいたいものだ。